星草堂に恋の音。
森猫この葉
1 星草堂
「なんだ、カフェか」
吐き捨てるような言葉が、最初の声だった。
カラン、と鳴ったねこの形のドアベルに顔を上げた
「いらっしゃいませ」
男はふん、と鼻を鳴らして応じた。
※
書店「
本と出会い、くつろげる場所を、ハイジの干し草のベッドのような自分だけの隠れ家的な癒される空間を、しっかりとしたおもてなしで、というのが海月の願いだった。昨年秋に、理想を詰め込んでリニューアルオープンしたのだ。
書店の内装は落ち着いたこげ茶色、木製の書架の間から柔らかな光が差し込む窓は、廂のおかげで直射日光を防いでいる。書架の間に点在する肘掛椅子やソファと小テーブルが、まるで今流行りのカフェ図書館のようにおちつく空間へと誘っていた。
一方で小ぢんまりとした店内はすみずみまでオーナーの気配りが行き届いており、ところどころのモチーフには猫があしらわれていて、まるで個人宅の居間のような統一感がある。
『その店で本を選んでいたら、深い緑色のエプロンをかけた落ち着いた女性店主がさりげなく珈琲を提供してくれる。メニューがドリンクのみなのは少々残念だが、まるで友人の家に訪れたような気分でくつろげる場所』と、オープン特集に少しだけ載せてもらった雑誌等には書いてもらっていた。
のだが。
旅行者らしく、コートに肩掛け鞄、スーツケースを持った青年は、眉をひそめたまま仁王立ちしていた。
この辺りでは見ない端正なカットの髪は、カラーリングもどこか都会的で、陰影があってお洒落だ。ありていにいえばこの地方都市でははっと目を惹くような、お洒落なさわやかな青年だった。接客時でなかったら、そのモデルのようなたたずまいに、気圧され月も声をかけなかったかもしれない。だが、ここは海月の店だ。このまま引き下がるわけにはいかない。
「書店で飲食するなんて邪道だ。僕は認めない」
青年はもう一度、やわらかくなった空気を断ち切るように言った。
海月は困った感じに微笑んだ。
「珈琲はお嫌いですか?」
「嫌いじゃない」
かみつくように彼は答えた。
「むしろ至高の飲み物だと思っているよ。だけど、書店で飲食する行為自体が僕には受け入れがたいと言っているんだ」
「……まずは、誤解を正させてくださいね。
うちの店では食べ物はお出ししていません。珈琲、紅茶、お水の飲み物のみのおもてなしになります」
「ふん」
青年は、鼻をならす。店舗の中をぐるりとにらんだ。
海月はあえて、笑みを深めた。
「珈琲の香りにはリラックス効果もあります。私はこの店で、リラックスして本と向かい合っていただきたいのです」
「屁理屈だな」
男は言い捨てて、書店を去ろうとした。
ふと、書架の端の小テーブルに平置きしてあった、手書きのPOP付きの本に目をとめた。
「へえ。賢治か」
その本を手に取り、ぱらぱらと中身を確かめる。少し気になった章があったのか、そのまま目が文を追い始めた。
頃合いを見て、そっと海月が肘掛椅子を寄せた。
「よろしければ、お荷物などもどうぞ」
他意のないやわらかい声に促されるように、青年は担いでいた荷物をいくつか下ろすと、無意識に椅子に腰かけた。
その椅子は古びた外見にもかかわらず大変に座り心地の佳い椅子で、青年はくつろいでページをめくった。
ことり、と小さな音がして、香りのよい珈琲がサイドテーブルに置かれる。
「どうぞ。サービスです」
「ん……。どうも……」
読書に夢中になった青年は、気づかず珈琲に手を伸ばす。
後で知るのだが、彼の職業は芸術ジャンルに属するもので、その集中力はなるほどと思わせるものだった。
きりのいいところまで読み切って、青年は珈琲を手に取り飲み干した。
「美味しい」
そして目を見張る。
「……どうして僕は珈琲を飲んでいるんだ?」
驚いた顔のまま、店主の顔を見た。海月はにこりと微笑んだ。
「ごゆっくり、おくつろぎくださいませ」
「嵌められた……っ」
青年は悔しそうにつぶやいた。とはいえ読んでる先が気になるらしく、目線を本に戻した。
「賢治、お好きなんですか?」
「ああ」
青年は、本から顔も上げずに答えた。
「彼の書くものは純朴で、精逸で、もうほんとたまらないね。この研究者はまたおもしろい観点で本を書いているな。目からうろこが落ちた気分だ」
「ですよね。私もその本を読んで、宮沢賢治のあたらしい面を発見させてもらって。とてもおもしろかったのでPOPを書かせてもらったのです」
「まったくだな。……ああ、ちょっとまって、ひらめいた」
青年は鞄から万年筆と帳面を何冊か取り出すと、小テーブルに向かい、猛然と書きなぐりはじめた。
しばらく様子を見て、邪魔をしてはいけないと思い、海月は用意していたおかわりの珈琲を空になったカップにそそぐと、そっとカウンターの方でしていた細々とした作業に戻った。
しばらくの間、星草堂にはペンの音しかしない静かな時間が流れた。
近くの学校のチャイムが鳴った。
我に返ったように、青年は壁の時計を見た。
「四時か」
珈琲を一気にあおる。
「バスの時間だ」
青年は、ばたばたと出していた帳面を片付けた。海月がにこやかに声をかける。
「ありがとうございました」
「ああ、こちらこそありがとう。いいものができた」
青年はにかっと破顔した。
「また来るよ。じゃあ、失礼」
来た時とは裏腹に、満面の笑顔で青年は帰っていった。
席に残されていた本を、海月は元の位置に戻そうとして、ふと見つめた。
なんだか、あのお客さんはまた来そうな気がした。
海月は、その本をカウンター奥にある取り置き棚に置いた。
宮沢賢治のおすすめ本って、ほかにあったかしら、と考えながら。
これが、海月と
※
星草堂の近くには、高校がある。
最近、高校生たちが海月の人柄を慕ってよく星草堂に顔を出すようになった。きっかけは幼馴染みの友人の子どもだった。
天気のいい五月、星草堂の扉は、空気の入れ替えのために開け放たれ、気持ちのいい風が入ってきていた。
本を、棚に戻す。海月はこの作業が好きだ。もう十年やってきたからだろうか。
これしか仕事を知らないからだろうか。
海月は数か月前まで、近くの市の図書館の司書だった。市立図書館では毎日大量の本が返ってくる。それを所定に棚に戻すのは、司書の日常業務だ。本を抱えて館中を歩き、背伸びしてしゃがみこんで本を美しく並べなおす。図書館司書は意外と肉体労働が多い。
海月は、この作業が好きだった。何万冊もある蔵書の中から選ばれて、借りられていったこの本は、どんな役に立ったのだろうかと想像する。こんな本もあったんだという、新しい書籍との出会いもある。司書といっても数万冊の蔵書をすべて把握しているわけではないのだ。棚に戻すときに、また借りられるんだよと心の中で声をかける。そうすると、その本は身内になる気がする。肉体的にはきついが、楽しい仕事だった。
今の書店業でも、棚を作るのは同じだ。だが、借りると売るは違う。似たような業種だが全く違う。よく動く棚がある一方、工夫しても全く動かない棚を眺めて海月はため息を吐いた。
祖母の友人からこの店を譲り受けたのは昨年の春のことだ。司書としての雇用は正規職員ではなかったし、今後を考えると転職も視野にあったところに祖母の友人が書店を廃業するという。少々業種は違うが挑戦してみるのはありかも。そう思い、転職に踏み切った。 正直に言えば親もまだ現役で、冒険するなら今だと思ったのだ。親の介護などがはじまるとまた身動きが難しくなるだろうし。
海月はまた、珈琲が好きだ。焙煎している香りも、口に含んだ後のすっきりとした味わいにも、豆の種類と温度と焙煎によって様々な味の表情を見せる多様性にも、魅力を感じる。紅茶や、緑茶や、煎茶も好きだ。カフェめぐりが趣味だった。一杯のお茶と、少しのデザートのある時間にどれだけ消耗した心を癒されたことか。
だから、書店の傍らでお茶を出そうと決めたのだ。知的好奇心をかきたてる本と、香りで心の緊張を解き癒してくれるお茶と。贅沢に両方をとった。
デザートについてはまだ、検討中だ。人手が足りないというのもあるし、書店での食事を批判する人もいる。ナッツ程度から始めてみようと思っている。
幸い、本を読みながら、お茶を飲めるカフェというのは意外に需要があるようで、そこそこの利用をいただいていた。仕事終わりに来てゆっくりくつろぎたいと、開店時間の延長の要望などもあった。これまで海月ひとりできりもりしてきたが、そろそろ信頼できるアルバイトの募集も検討中だ。正直に言えば休みも欲しい。
(ほたるに、任せてもいいのだけど。……やっぱり心配かな。)
同居人に思いをはせたとき、当人が裏口から店内に入ってきた。
「うづき。洗濯、おわった」
無邪気な顔でにこりと笑う。ふわふわとした白い髪を揺らし、猫耳を生やした少女だ。年齢は十代半ばだろうか、目の色は微妙に色の違う
「ほたる、ありがとう」
海月の言葉にほたるは嬉しそうにうなずいた。
「棚にしまうね」
キッチンのカウンターで、取り込んだ布巾を畳んで棚に収納する。
この数か月でずいぶん店員らしい動きが身についてきたようで、海月は頼もしく感じながら見守った。
しかし、ほたるには事情があり、見た目通りの年齢ではない。任せられることもまだまだ限られていて、ひとりで店番などももってのほかだった。ほたるのゆっくりした成長を見守るためにも海月は頑張らないと、と微笑んだ。
(そろそろ夏ね。夏メニューの準備をしなくてはね)
書架整理も一段落して、ほたるがいれてくれた麦茶を飲みながら帳簿を付け、海月が考えていると、外に人の気配がした。
「くらげ」
学生時代のニックネームを呼ばれて、海月は驚いて顔をあげた。
「みかちゃん」
解放した扉の向こうで、少し年上の幼馴染が笑顔で手を振っていた。
「開店おめでと。ついに夢をかなえたんだね」
「みかちゃん、来てくれたんだー。ありがとう。……娘さん?」
「うん。近くのさ、桜ケ丘高校に通ってるんだよ。なんか通学路に素敵な本屋さんができたーって言ってたから詳しく聞いたらくらげっぽいじゃん。もう驚いたよ」
「私もおどろいたよ。みのりちゃんだったっけ? もうこんなに大きくなってたんだね」
幼馴染の後ろからひょこりと顔を出した少女。さっぱりしたショートボブで、運動はしてなさそうだけど、どこか弾むような明るさがある女子高生になっていた。ずいぶん昔、生まれたばかりの頃に会ったっきりなきがする。ああいや、以前の職場の図書館にはよく遊びに来ていたか。それもまた、幼稚園時代の話だ。
「こんにちは。広瀬みのりです。……くらげ、さん?」
ぱっちりした目が、興味深そうにこちらを向く。愛くるしい栗鼠みたいだ。
「あ、みのり、くらげってのはさ、」
幼馴染が慌てて訂正しようとしたが、海月は笑って制した。
「いいよ、みかちゃん。こんにちは、店主のくらげこと星村海月です。よろしくね、みのりちゃん。……本当はね、店名も『くらげ堂』にしたかったくらいなのよ。懐かしい名前で呼ばれてうれしいわ」
「ごめんねー。くらげってばほんとかわってないから懐かしくなっちゃった。ちっちゃいころから本好きだったよね」
「みかちゃんは雑誌ばっかだったね。いつも素敵なお姉さんで、あこがれてた」
「でもなんか気が合ったんだよなー」
「ねー。懐かしい」
二人は笑いあった。
海月は思いついて、厨房に向かう。
「どうぞ」
友人が掛けたテーブル席に、紅茶を出した。
「みのりちゃんも紅茶でよかったかしら?」
「うん、うちは紅茶大好きだから。あ。私の好きな茶葉。覚えててくれたんだ」
「もちろんだよ。私が高校の時だっけ、みかちゃんが連れて行ってくれて、二人で紅茶屋さんや珈琲屋さんめぐりをしたじゃない。それが今の仕事にも生かされてます」
「あはは、懐かしいね」
大人二人が思い出話にふける間に、みのりは店内を思う存分物色していた。
「ね、お母さんこの本買って?」
「何に使うのよ」
「本は読むために買うのよ、お母さんってば」
くすくす。テンポのいい親子の会話に微笑み、海月はレジに立った。
「まいど、ありがとうございます」
「くらげ、またお茶しようね。みのりをよろしくお願いします。私に似ずに本好きなのよ、この子」
「了解です。またいらしてくださいね。お茶飲みにだけでも大歓迎だよ」
「食事はないけどね」
「ないですね。一応、書店なので」
「厳しいね。でもくらげは昔からそうだったね。これと決めたことは譲らなかった。図書委員だった時にさ、差し入れでチョコ渡したらめっちゃ怒ってたよね、懐かしい」
「あーもうお母さん、なつかしばなしはまた今度私がいないときにゆっくりしてよう。いつまでも終わらないじゃん」
「はいはい。……怒られたので帰ります。くらげ、またね」
「ありがとうございました。また来てね、みかちゃん。みのりちゃんも、いつでも歓迎しますよ」
幼馴染は、娘に背中を押されて帰っていった。最後にみのりが振り返って手を振る。海月も笑顔で振り返した。
「よろしくねー、くらげちゃん!」
(くらげちゃん、か……)
「くらげ?」
静かになった店内で、ほたるが首を傾げた。
「ああ、ほたる。海の月と書いてね、くらげって読むんだよ。小学校の時にそれに気づいた子がいてね、それからくらげなんだ」
水族館で見るくらげは好きだ。海に漂って、透き通って、揺蕩(たゆた)って。何時間でも見ていられる。
最初は変なあだ名に、両親を恨んだものだったがくらげに罪はない。いまは誇りに思う名だった。 にぎやかな二人が去って、一気に静かになった店内で、麦茶をひとくちのんで、海月は息を吐いた。
「そうかー。みのりちゃんも高校生か」
ぽつりとつぶやく。
海月自身は三十代で独身、結婚予定もなし、恋人もなし。これから子供をもつことは、もうないかもしれない。とか。十代で結婚した友人と、ちょっとだけ比べてしまって、少しだけさみしかった。
目の前の書店を見る。静かになった店内に、家具の気配が戻る。午後のやわらかい光がさして、本のにおいと珈琲の香りがまざりあって。幸せな空間が、そこには確かにあった。深呼吸して、海月はゆっくりと微笑んだ。
(……ううん、これが私が選んだ道なんだ。このお店が、私の生きがい。後悔なんてしていない。がんばろう)
高校時代といえば、ほたるをひろったのもあの頃だった。
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