THE VELVET UNDERGROUND & NICO

@tsuboy

第1話

 僕はその日、大学の講義のためにベッドを抜け出して来たのだが・・・あいにく掲示板には休講と書かれていた。久々に、一方的に語られる他人の話に耳を傾けてみる気になっていたのだけれども、僕は急に空いた時間をどう使っていいのかわからず、しばらくぼんやりと自分に関係のない連絡事項に目を通していた。

 時刻は朝の九時前、これから喫茶店に行って本を読むにもバイトまでは時間があり過ぎる。来週提出のレポートに取りかかる気にもなれず、今から家に帰って寝る気にも、街で無駄金を使って時間を潰す気にも、何から何までが中途半端に思えた。それで、唐突にあいつを訪ねてみる気になった。

 あいつは卒業と同時に都内に四畳半の安アパートを借り、しばらく仕事もせずに生活していた。それから急に、築地市場でのアルバイトを見つけてきて、それ以来夜の十一時から朝の九時まで働く暮らしをしている。とりあえず、それが僕の知っている最後に会った時のあいつの生活だ。

あいつは携帯電話を持たないことにしているから、頻繁な連絡は出来ない上に生活の時間帯が合わないことも多い。それでもあいつは時々僕を訪ねてきたし、僕がいなかった時などはドアに張り紙のようにメッセージを残していった。『お前の精神が高みに満ちていることを望む。最近見つけた聞く価値のある音楽・・・The Mamas & the Papas, Buffalo Springfield, 「A Love Supreme」 by John Coltrane また魂の昇華する瞬間(Experience)について語ろう』など、ほとんど意味のないものではあったが、僕はあいつのそんなところが好きだった。

あいつの高校での学力は、僕と変わらないか良かったほどだったのに、僕は親の金を借りて都内の私学に行くことにし、あいつはとにかく「大学に行かない」ということだけを決めていた。

「大抵の本は図書館にあるし、大学に忍び込むことだってできる。読むことと、書くことさえできたら何処にいたって勉強はできるさ。おれは、とりあえず西洋思想から始めてみるよ。」


 陽気がよかった。習慣で持ち出したコートが暑いぐらいで、空がきらきらと切れるような日の光に、鮮やかだった。駅のホームに入るのがもったいないぐらいで、いつもは邪魔で仕方ないと思える通りがかりの人々も笑顔を浮かべているようにさえ思えた。朝のラッシュがピークを少し過ぎたあたり、その反対の方角に僕は向かっていた。ドトールで久しぶりにアイスコーヒーを飲みたくなった。バナナマフィンと一緒に、あいつへの手みやげにでもしようかと思った。

 今年の冬は思っていたより厳しかった。三月になっても寒い日が続き、下宿でも暖房費が驚くほどかかっていた。備え付けのエアコンが省電のわけがなく、効率の悪さにいらいらする日が続いた。それでも、春はようやく来たと言ってもいいだろう。とりあえず今年は、日本にも春が来たのだ。

 あいつのアパートは駅から歩いてかなりの場所にある。僕なら絶対にそんな所に住まない。「高いよ」そう言った僕に「都内だから」とあいつは言う。

「安いところを探そうと思えば、いくらでもあるさ。だけど、安けりゃいいってもんでもない。生活にある程度必要な額の出費がないと、働こうといった気もしないだろ?おれは、そんな緊張感を持って生きてみたいだけだ。不便でいいんだよ、快適でありさえすれば。」

駅前の繁華街を抜けた辺りで、風景は急に住宅街の装いを帯びる。耳に残る甲高い店員の呼びこみやあちこちから路地に漏れる音楽、人々の笑い、会話、足音、そういったものがカバーでも被せられたように遠ざかっていく。

 掃除機のかける音、テレビから流れる音、犬の鳴き声、子供の声を通り過ぎて僕はあいつのアパートに向かっていた。もしかしたら、家に居ないかも知れない。仕事帰りで寝ているかもしれない。それならそれで散歩を楽しんだと思えばいい。蕎麦屋とコインランドリーが並んだ通りを左に折れ、あいつのアパートの階段をこんこんと音を立てて登った。一階の大家の部屋から、一匹の老犬が顔を覗かせていた。窓枠に両方の前足をかけて、僕を風景の一部ぐらいに考えている様子だった。

 僕はあいつの部屋のドアをノックする。二度ほど軽く叩き、「俺だよ」と声をかける。「入りなよ」とあいつの声が聞こえる「開いてるから」と。靴を脱いであがり、アコーディオン式の部屋の仕切りを開ける。あいつが、カウチにもたれながらふり向いた。

「今日ぐらい来るんじゃないかとは思ってた。久しぶりだね、元気かい?」

あいつは米軍のラジオ放送をかけながら一人で酒盛りをやっていた。日本酒にまぐろの刺身とサーモンの切り身を焼いたもの。

「キハダだけど、うまいよ。飲むかい?」

そう聞いたあいつに「夕方からバイトがあるから、こっちでいいよ」とドトールの紙袋を持ち上げて見せた。

「ド・トゥール」

とあいつは言い、自分の分を取り出してあいつに袋を差し出すと

「おれの分もあるのかい?」

とうれしそうに言った。

「後でいただくよ」

とあいつは言う。

「日本酒とアイスコーヒーは相性が悪そうだからね。」

 うまいからと言われて、何切れか刺身をもらった。乱暴に切られてはいたが、確かにうまかった。

「こんなうまいものがタダでもらえるんだ。いい所にいると思うよ。」

「でも、冬場は大変。」

「冬場だけでもないさ。きつい、汚い、危険・・・そのうえ、『くさい』だ。通年4Kの仕事はそうないよ。でも、働いているやつは暖かい。お互いにつらい仕事をしているのを知っているから、優しい。いいやつらだよ」

あいつはガラスのコップから日本酒を飲む。

「サーモンもいけるんだ。こんなのが毎日食えるんなら、アラスカにでも住もうかと考えるね。あそこの冬は半端じゃないけどな、それこそ死ぬほど寒いんだ。」

「アラスカね・・・アラスカには何がある?」

「はは・・・アラスカには自由という可能性がある。自然がある。絶望的な現実の厳しさがある。」

「別の言い方で言うと、そこには何も無い。」

あいつはタバコに火をつける。

「いつか行ってみたいとは思うんだ。」

「いいね・・・僕も行ってみたいよ。」

「いこうか?」

とあいつが言う。

「今から?」

「そう、今から。これから成田に行って飛行機に乗る。」

「ドトールのアイスコーヒーを持って、」

「飛行機の時間を待つ間に、そばでも食って、」

「悪くないね・・・そうするのも悪くない。」

僕もあいつにタバコをもらう。

「こっちの方が良くないか?」

そう言ってあいつは革ジャンのポケットから緑の葉っぱを取り出す。

「今日仕入れたんだ。オランダ、アムステルダム。」

「いいね、アムステルダムも悪くない。」

あいつは机の上で手ばやく乾燥した葉をほぐすと、紙煙草にした。

「こいつとなると、準備をしなくちゃな。」

あいつはそう言ってラジオを消し、インセンスに火をつけて、ジャケットにバナナの絵が描かれたCDを取り出した。

「お客さまから、どうぞ。」

とあいつはライターと紙煙草を僕に差し出す。ステレオから、静かに音楽が流れ始めていた。


 息を吐き・・・空気と共に、煙を、胸に満たす。落ち着いた感覚は、いつものように、ゆっくりと広がっていく。甘く刺激のある煙草の臭いが、生臭く馴染み心地よい。何に緊張しているのか・・・動悸が高ぶるのが感じられる。

 あいつに、火のついた煙草を手渡す。指が、軽く震えたかも知れない。息はまだ止めている。あいつが音を立てて煙を吸い込み、口から離した煙草から白く、むらさきの煙が立ち昇る。自分のしている行為、呼吸を止めるという作業の意味を確かめ「何をしている?」という思いと共に、煙を吹き上げる。生きるという根本的な意味である、呼吸。現在、僕は正しい行為をしている。それは進行形、それは今・・・あいつが、煙を吹き上げた。お香の匂いがする。さて、僕は・・・考えなければならない。現在、僕が存在している理由を。まず自分のいる状況を一切の偏見を持たずに観察する。部屋を見渡す・・・4畳半のアパート風呂無しリフォーム、フロアリング。僕の部屋では無い。机が一つ、縦に積まれた本棚に入りきらない本、ステレオ、テレビが一台・・・その画面がくり抜かれ、なかに向日葵が咲いていた。

「なんだあれ?」

と、指をさす。

「あれね、」

と、あいつ。

「あんまりムカついたから中身をえぐってやった。」

あいつが言う。

「なんだそれ?」

「洗脳まがいに一方的な情報をふり撒くだろ?見ていると汚れるから、おれが廃棄処分にしてやったんだ。いいだろ、それ。なかが空っぽだったから土を敷いて花を植えてやった。」

テレビのブラウン管があった所に濃い茶色の土が敷かれ、白い肥料の粒がばら撒いてあった。花は活き活きと濃い緑の葉を茂らせ、茎がすっくと画面から外に向かって伸びている。その先に、笑いかけるように・・・ぱっと広がる大きな黄色い花が咲いていた。向日葵。

 僕はその花をのんびりと眺めていた。あいつから煙草を受け取って、あらためて

「いいね。」

と声を上げた。

「落ち着くよ。快活なのがいい」

「どこかの女の子みたいだろ?」

僕は煙草の煙を吸い、あいつにそれを回す。ワンワンと、階下の犬の鳴く声がした。

「退役した捜査犬でね、いつも騒ぐ。気にしないでくれ」

ワンワンと、ワンワンと、犬が、わんわん吠えている。

「ほんとかよ?」

「冗談だよ」

犬は、急に静かになった。

「おまえ、教職の方はどうよ?」

あいつが僕に聞く。

「今年から授業も取ってるよ。」

「教師になるんだろ?」

「今んとこはね・・・わからんよ。」

「やりがいのある仕事さ。大変だが、誰かがやらなきゃならない。おまえほどまともなやつがやろうと思っていることは、いいことだと思うよ。」

あいつが煙をふきあげる。

「自分のやってみたいことと、実際に出来そうなことのギャップが激しくてね・・・勉強するほどに迷いが生じるよ。」

「教育者たちは、解放者以外の何者でもない。」

「えっ?」

「ニーチェが言ったんだよ。『教養とは解放することであり、植物の繊細な芽を手にかけようとするすべての雑草や塵芥や虫類を取り除くことであり、光りと温かみとの流れ出ることであり、夜の雨の心持よく降り注ぐことである』とね。」

「覚えたのか?」

「まさか!」

あいつは机の下から一冊の本を投げてよこした。

「『すべての雑草や塵芥や虫類』ね・・・。俺が、雑草や塵芥だとは思わないのか?」

「おまえは雑草でも塵芥でもないよ。ましてや虫類でもない。雑草は、こいつさ」

そう言って、あいつが煙草を掲げてみせた。僕は「違いない」と言って、笑う。

「これは道具さ、ツールでしかない。間違った使い方をすれば、危険なことにもなるさ」

「それに肉体的に依存する成分はなくても、精神的に依存もしくは覚醒剤や他のドラッグへの渇望をまねく」

「欲だよ。」

あいつは、ぼそりと言った。

「なぜ、『これでいい』と思えないんだ?おれには現在、おまえがそこにいて、心地よく、幸せだと思える。なぜ、『これでいい』と、思えないんだ?」

「一度味わうと、それ以上が、欲しくなるんだよ。」

「金、金、金、金、女、女、女、薬、薬、薬。大半のやつは病気だよ。」

あいつが目を閉じて、ゆっくりと息を吐く。

ゆっくりと息を吸い・・・

ゆっくりと、身体の力を抜く・・・。


音楽が変わった。


あいつが目を開け、

穏やかな微笑みを浮かべる。

「生きていることの素晴らしさは、突然に感動できることだと思う。アイスコーヒーをもらうよ」

とあいつは言って、立ち上がった。

「去年の4月からこうして暮らして・・・一人ではあるが色々と考えたよ。働かないのもつらいが、働いてみると、それもつらい。時代を客観的に見て、『誰かに利用されてる』って思いが拭えないんだ。さて・・・そう気づいたところで、どうしたらいい?『いつか、こんな生活を抜け出してやる』って思いながら働くのか?周りで働いてる連中を上から踏みにじるような想像をして、そんな妄想に気を休めるのか?おれは・・・これでいい・・・そう思うようにしてるんだよ。うまいもんが食えて、狭いが快適な場所で眠れて・・・たまにこうやって色々と考えて、書いたり・・・『それでいいじゃねえか』ってよ。」

あいつの顔が、急に老け込んで目に映った。

一人の、小柄で幸せそうな表情を浮かべた老人に。

「それとも何か?」


音楽が変わる。


「おれは、怒りを抱いたほうがいいのか?一部の人間が、おれたちの黙ってることをいいことに、姑息な後先考えないやり方でおれたちから資本を搾取しているという事に。ほんの一握りの人間が、おれたちの目の前に『可能性』という言葉をちらつかせて、勝者のいないサクセス・ストーリーを夢見させているという事に。そんな連中がマスコミを使って無知な大衆を扇動し、法律の規制緩和によって卑劣な収益を上げ、改革、改革だ!!と叫びながら憲法の改正にまで着手し、国益の為と言いながら軍国主義を推し進め、テレビを見るというパッシブ・ラーニングを身体に染み付かせた考えないおれたちを次々に中東の戦場に送り、罪の無い女や子供を射殺させ、少年兵によって埋められた地雷に半身を吹き飛ばされつつ、ある・・・という事実に、おれたちは、怒りを抱いたほうがいいのか?それとも、それは三十年後のことで、おれたちの子供が面と向かう問題だからと言って笑うか?それとも、おれはそんなことになったとしても戦場には行かないし、誰も殺さないと言って笑うのか?戦争の際に協力をしない国民を取り締まる法律が既に存在しているにも関わらず、笑うか?マルクスの本を持っていただけで非国民だと特高に連れて行かれ、知りもしないことを吐けと言われて爪を剥がれ、暴行を受け、妊娠も出来なくなった女性がこの国にいたという過去を知っていて、それでも、笑うか?おれは・・・怒りを抱いたほうがいいのか?」


音楽が、変わった。


「おれは平和ボケした国民に危機感を与える為、無作為な爆殺を試みたほうが・・・いいのか?ネットで探せば爆弾の作り方でも載ってるさ。多分、初めはアメリカが本社のファーストフードチェーンでも狙うんだろうな。日曜の昼間かなんかで、無知な連中にまみれた汚らわしい場所・・・おれは食いたくもないバーガーを頼んで席に座り、バッグを椅子の下か机の下に置いて、爆弾のスイッチを入れる・・・落ち着いて目の合った店員に愛想笑いまで浮かべて、バーガーの包みを開けて、ゆっくりと・・・その濃密な一口を味わう、それからまるで思いついたように、さりげなく便所にでも行くように、立ち上がる・・・『ほんとは食いたいんだけど、』というような表情で立ち上がる。おれは人にまみれて店を出る。あせらず、一歩、一歩と階段を下りて・・・『ありがとうございました』という声を背中に受けながらガラスの自動ドアをくぐる・・・そのときには、もう爆弾には火が点っている。ちいさな火薬の粒子が熱に弾け、弾け、弾けて爆発する。おれは背中を爆風に煽られ・・・微かな満足感に、ほくそ笑む。」

僕は黙って、あいつの表情だけを見つめていた。


音楽を、変える必要があった。


「お前は・・・ありのままで、いいんだ。」


そう僕は言った。


「何も変える必要は無い。変わる必然があれば、そのときに変わるさ」

「『理想の為には、死ねる』という稚拙な思想に駆られる自分が怖いよ」


「でも、何もやらなきゃ考えないのと同じだ。」

「それは・・・その通りだ。」


おれたちには、音楽を変える必要があった。

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