脱出

@miyoharuki

第1話 兆候

いやな兆候だった。そろそろやってきそうな感じがした。いずれはくるとは思っていた。きっと誰もが。だがそれがいつくるかは誰も知らなかった。多くの人たちはそのことを真剣には考えはしなかった。バランスは崩れつつあった。すべてのバランスが。大陸はせり上がり、半島は迫りつつあった。その極東の小さな列島は震え、怯え、そして沈もうとしていた。

 日曜の昼下がり、テレビの画面は娯楽番組であふれている。しかしその多くが録画放送であるらしく、どれも依然どこかで見たことのあるような番組ばかりだった。それでも放送があるだけましで、夜の9時も過ぎると多くのチャンネルがホワイトノイズに包まれ、いらつくようなざらついた画面がただ茫漠と画面に映し出されるだけだった。どのチャンネルに回してみても同じだった。 隣の部屋では1歳になる息子と二人目を身ごもった妻が明るい蛍光灯の下で楽しげに遊んでいる。

 職場では串の歯がぬけるように、ぽつぽつと人が欠けていった。多くの職員は長期休暇という形で休暇申請を出して去っていったが、中には突然欠勤しそのまま出社しなくなるものもいた。そろそろうちの職場も機能を停止することになりそうだ。私は子供と母親の遊ぶ声を聞きながら、隣室でここ数日内におこった出来事を頭の中で反芻した。

 以前からの政権が今までになく急進的なリーダーのもとに挑発的な軍事行為を繰り返してきた北が、大国の軍事バランスの不均衡をつき、ついに本格的な軍事侵攻を開始したのだった。後ろには旧東側の大国ロシアがついており、その圧倒的な空軍力で隣国の軍事拠点はまたたくまに破壊され、続く電撃的な地上侵攻に南はなすすべもなく席巻されていった。国連は平和決議をしたが、国連軍を編成し派遣する時間的余裕もないままただ見守るだけだった。旧西側の大国アメリカが南への駐留軍を大幅に削減した矢先だった。まさに軍事的アンバランスの隙をついた奇襲による電撃侵攻だった。彼らは国連軍の派遣がもたついている間に次ぎなる領土的野心を我が国へと向けてきた。

 現時点では政府は国民に特になにも心配する必要はないと公共放送で繰り返し呼びかけていた。だがそれに反して街頭では、はじめての戒厳令が発せられるだろといううわさがどこからともなく伝わっていた。街は一見普段と変わりなく見えた。しかし、歯車は確実に組代わり、今まで止まり眠っていた車輪がガタンとゆっくりと、しかし確実に動き始めようとしている。まさに時代の転換点がおとずれ、回り舞台がぐるりと回転し第2幕があがり、あらたな役者が新しい舞台にあがろうとしていた。

 まっさきに反応したのはやはり経済だった。株価は大幅に下落を始め、円も急速にその価値を低下させ始めた。日本に投資されていた外国の資本はリスクを恐れて、早々と海外へと流出していった。輸出は急速に落ち込み、また海上輸送の危険の上昇にともない輸入物資も滞り始めた。国内政治はリスクマネージメント能力の欠如を露呈し、舵取り役を欠いたこの極東の小国は混沌という大海原をあてもなく漂流し始めた。国民は自らの財産と生命はもはや自らで守るしかなかった。

 都心や大阪の近郊の都市部ではすでに海外への脱出のための出国の動きが始まっているようだった。持てる者はそれができた。しかし多くの一般市民は、ゆっくりとではあるが確実に危険が忍び寄っていることを知りながらどうすることもできなかった。できることと言えば、災害に備えるかのごとく食料・水等の日用品の備蓄と、緊急持ち出し袋の中身を少し豪華にするくらいが関の山だった。私たち家族もそのなかの一つであったが、ほかの多くの人々よりは少しだけ余分に用心深かった。

 海外に脱出するほどの資産もないため、やむをえずここがパニックになったときに備え、危険な都市部から少しでも離れるため、妻の実家である四国の中央部に位置する石鎚山系の山村に避難する計画を立てていた。一見この地方都市は普段となにも変わらぬような日々が繰り返されているように見えたが、確実にこの町にも戦争の脅威はひたひたと迫っていた。

 日曜日だというのに商店街は閑散としていた。高級ブランドの服やアクセサリー宝石のたぐいはもはやその価値を失いつつあった。その一方でスーパーやデパートは多くの人々で賑わっている。まだこのあたりでは日用品の在庫が豊富なのか、品揃えは普段とほとんどかわりはなかった。ただその値段を除いては。服飾品はともかく、食料、雑貨、薬、の類は軒並み2倍から3倍の価格に上昇していた。特にホームセンターにあるDIY関連の商品は品物によっては普段の10倍近い値がつくものも現れ始めた。これは品薄感によるものだけではなく、急速なインフレがはじまっていることを示していた。日本円は急速にその価値を失い始めている証拠だった。そろそろ私たち家族も脱出のため行動しなければならない時がきたようだ。

 真っ青な空に絹層雲が白くたなびいていたる。久しぶりの好天だった。今日は一日中晴れそうだ。気温は朝方は氷点下以下に下がったようで、自家用車のフロントガラスは白く凍り付いている。日曜日、平和な頃ならどこかにドライブにでもでかけたくなるような冬の朝だった。だが今は話しは別だ。

今日が決断の日だと思った。金曜日の退社時に会社には長期休暇願を出していた。上司ももう出社することはないだろうとは薄々感じていたようだが、なにもいわずにあっさりと承認の判子を押してくれた。期間は2週間だが、それを過ぎても会社に戻るつもりはなかった。心の内では休暇の承認期限を過ぎてももどらなかった場合、どういう労務管理上の処遇がされるのか知りたかったが聞かずに置いた。たとえ聞いたとしてもそれでこれからの行動予定がかわるわけでもないからだ。おそらく無断欠勤ということで休職扱いとなりやがて2、3ヶ月後には離職ということになるのだろう。この決断については事前に妻にも相談しており、相談を受けた妻もさほど驚く風でもなく来るべき時が来たという捉え方のようだった。その妻もなにかを感じ取ったのか、朝からタンスや押し入れをあけて身辺整理をしている。まだ朝も早く子供はベビー布団の中ですやすやと眠っている。1歳になったばかりの一人息子だった。計画は依然からおぼろげながら立てていたが具体的に考えるのははじめてだった。まず問題はどこに向かうかだ。予定は妻の実家だが本当にそれでよいだろうか。現実的な考えられる選択指を検討してみる。まず脱出するとすれが太平洋側だろう。おそらく積極的ではないにしてもすでに米軍は動き出しているに違いない。沖縄を中心とした在日米軍及び日本各地に点在するいくつかの海軍、及び空軍基地は日本の自衛隊と共同防衛作戦に入っているはずだ。ただ邦人の安全確保は日本政府の仕事だし、それは非常時には我が国の自衛隊が警察力と共同でそれを行うはずである。しかし果たしてその能力は自衛隊という異形の組織に備わっているのだろうか。すでに一昨日から夜間外出禁止令や身分証明書の携帯が義務づけられるのではないかというデマまがいのうわさが流れ始めている。実際すぐ近くに駐屯している陸自の第13混成旅団のほとんどが、次々と装甲車両に分譲しどこかへ移動をはじめた。それが案外根拠のないものではないという不安感をかき立てた。事実一部は街の周囲の防備のために配備されているようだし、多くの部隊は中国・近畿地方に瀬戸内海を越えて送り込まれているらしい。私は頭の中を整理した。

 もし米軍及び海自の邦人移送作戦が順調に実施されていれば、高知港よりハワイ諸島にむけて米軍および海自の輸送船がピストン運航をしているはずである。私はテレビ放送の政府公報があまりあてにならないため、もっぱらインターネットより情報を収集していた。確かに輸送は行われていると政府の広報やホームページには記載されているが、多くの民間や個人の掲示板から判断すると、どうも港には数隻の船が停泊しているだけで運行の実績はないのようだった。しかもすでにそれらには避難民が満載状態で、航路上での安全が確保されていないため未だ沖合で停泊したまま、中は悲惨な状態になっているとの情報もあった。もしそれが事実なら行ったところでどうにもならないし、逆に大混乱に巻き込まれて動きがとれなくなる。むしろ暴動による危険の中へ自らつっこんでいくようなものである。妻がコーヒーをカップに注いで持ってきてくれた。熱いコーヒーは袋小路に入った思案に小休止を与えてくれた。妻は目をさましたのかぐずついている息子のそばにもどると、しばらくいっしょに添い寝をしていた。飲み干したカップをテーブルの上において腕組みをした。やはり予定どおり、とりあえず愛媛県と高知県の県境まで南下して、妻の実家である石鎚山系の麓の山村に避難するのが妥当のように思えた。決断した以上善は急げである。今日明日中には行動を起こさなければならない。これ以上引き延ばしても状況が改善するとは到底考えられないからだ。すでにこの団地の住人の何人かは自家用車に荷物を満載にしてどこかへと走り去っていた。街の警察や役場では広報車を走らせ、衝動的な行動は差し控え、自宅で待機するようにしきりに繰り返している。しかしそんな放送を信じるわけにはいかない。どんなときでも政府は必ず自らの保身を優先する。自らというのは日本国という無形の団体を尊重するのだ。それを構成している国民は二の次となる。政府はパニックを恐れている。治安が崩壊するのを恐れている。いずれそうなることはとどめようがないのにもかかわらずだ。私のまわりの多くの人々はその放送を信じてあまり心配した風でもなく、巨大な台風でも行き過ぎるのを待つかのように普段とかわりない生活をしている。勤め先の多くは午前勤務のみで午後からはほとんどが休みとなり、一家の主人は帰宅して天気のいい日には子供と外で遊んでいる風景も見受けられる。政府の情報操作は確実に効き目を現しているようだった。果たしていつその梯子を外してくるか。それは時間の問題だ。その後の国民の動揺は想像に難くなかった。 私は家族を守る義務がある。それは政府が国民を守る義務があるという意味とはまったくレベルの異なるものだった。それは私の一家の主人としての義務だった。日中は妻に計画の概略を話し、室内の整理と簡単な荷造りをした。本格的な作業は明日買い出しをしてからということで二人の意見は一致した。昼はこの住み慣れた部屋でとる最後の昼食だと思い、少し豪勢な料理を妻がしつらえてくれた。その後団地の慣れ親しんだ公園で子供とブランコや滑り台をして遊んだ。この子の未来はどうなるのだろうか。私は不安に駆られた。しかしその前に生き延びなければならない。生きてこそ次の展望が開かれるのだ。自分にそのことを言い聞かせた。前向きになることが大事だった。

 夕暮れ時、長男は遊び疲れて隣の部屋で熊のぬいぐるみを抱きながらすやすやと眠っていた。妻はそのそばで添い寝をしている。彼女もだいぶ疲れているのだろう。子供といっしょに寝入ってしまっているようだった。妻の里は四国のちょうど中心部に位置する石鎚山系という相当に山深い場所にある。かりに全面的な戦争状態に日本の国土全体が陥ったとしても、ここまで戦火がおよぶにはかなり時間がかかるだろう。それに1週間前にはすでに私の両親も車で移動しそこに身を寄せている。昨日もたらされたメールでは得に普段とかわったこともなく、世間のさわぎはどこか別の世界の出来事のような感があるほど平穏だということであった。ただ、そこまでにいたる主要国道のルート33号線は、軍用車両や戦車を積載した巨大なトレーラーが夜間行き来しており、それがこの山里には似つかわしくない様相を呈しているとのことだった。私の両親や義父は、こちらに来るんだったら、主要国道は避けたほうがいいという。既に民間の避難車両が増えだし、警察による交通規制が行われている。通常だったら4時間もあれば十分だが、今は軍の車両が優先され朝一番に出発したとしても着くのは早くても夜中になるだろうと言う。それでも交通検問をすんなりとパス出来ての事である。おそらく県を超えての民間人の移動が制限されつつあるため、警察が発行した特別なパスでもない限り、通行自体もままならないだろうという話しだ。私もそのことは十分計算に入れていた。少し遠回りになるが、別の迂回ルートを考えていた。ちょうど四国山脈の谷間を縫うように3桁ナンバーの細い国道が通じており、それが村の北側にある山あいに抜けている。以前秋の行楽シーズンに一度通ったことがあり、かなり狭い道ではあるが全線舗装されている。通常でも抜けるのにまる1日を要する迂回路であるため、かなりのこのあたりの地理に詳しいものでない限りはこのルートをたどる避難車両はまずいないだろう。途中なんらかのトラブルがあっても、夜明け前に出発すれば少なくとも翌日の深夜には到着できる見込みだった。

 私は頭のなかでの避難先と移動ルートの算段を終え、必要な準備物資のリストアップにはいった。今乗っているのが軽自動車のため、まず移動車両の取得が必要だった。まだスローながらも日本社会の一般経済は破綻していないため、極めて高額にはなっているが商品はほぼなんでも自由に購入することができた。車といえども例外ではなく、各メーカーの新車・中古車とも手に入れることができる。既に手持ちの資産はすべて現金化しており、その半分は金とドルに交換して保有している。明日には出発したいので、ディーラー保有の展示車か試乗車をあたるのがまず最初のねらい目だった。次は中古車だがそれは最後の手段で、目当ての車両が見つからなかった場合は中古でもやむ終えない。しかし中古車両はできるだけ避けたかった。どんなトラブルを抱えているかわからない。出発した後でそれが露見しても後の祭りである。

 翌朝はどんよりとした曇り空だった。私は妻に資材を調達してくると告げ、絶対に外に出ないよう扉には鍵をかけて、窓もロックするように言い終えて出かけた。半月前の臨時ニュースの第1報の時から、私が家をあける時の用心のために、アパートの2階ではあるけれどベランダや部屋の窓ガラスには防犯用の特殊フィルムを2重に張っていた。不審者がハンマーでたたき割ったとしても簡単には進入できないように改造していたのだ。緊急時には携帯メールで、万が一つながらない時は私が趣味で使っているアマチュア無線機を使用するように伝えた。インターネット技術を利用した携帯のメールは非常に堅牢であり、このような事態でもかなり確実に連絡を取り合うことが可能だった。

 自家用の軽自動車を運転しながら今日の段取りを頭の中で順序よく反芻した。まずできるだけ大量の荷物が積載できる4輪駆動車を購入する。次に燃料が逼迫しないうちに18リッター缶で少なくとも5缶分、つまり車の燃料補給2回分のディーゼル燃料、プラス発電・暖房・照明用のガソリンを少なくとも3日分購入する。もちろんこれら燃料を入れる携帯用の金属の燃料缶を先にホームセンターで購入しなければならない。ほかにもホームセンターでそろえなければならない品はたくさんあった。どちらにしてもまず大型の車両を手に入れることが先決だ。実際は一番欲しいのは実は軍用車両なのだが、これは到底手に入れる見込みはない。そこでピックアップのダブルキャブタイプの4輪駆動車を探すことに決めた。これは後ろに軽トラ並の荷台があり、前方のキャビンには大人4人が乗車できる。私はさっそく以前から目をつけていた近くの国内メーカーのディーラーの店舗へと向かった。

 顔見知りの営業マンが車で乗り付けると手を振りながら笑顔で外に迎えに出てきてくれた。彼とはこの今乗っている車を購入した縁があるだけではなく、冬の間のスキー仲間でもあった。そういえば今年は寒さが厳しくなり、各地で豪雪となるという予報だった。彼と去年の冬のスキーの思い出話にしばらく花を咲かせた。去年の話なのにずっと昔のことのように感じながら、お互い感慨深げにしばらく話し込んだ。展示ルーム内の暖かい暖房の効いた部屋で、ショウウインドーのガラス越しに外を行き交う車列を見ながら、これからの行く末を心配しつつ話し合った。

 話が一段落したところで、本題に入った。私は以前から目をつけていた試乗用のピックアップトラックが見あたらないので、あれはどうなったのかと尋ねた。彼が言うには、駐屯地の陸自の整備課から輸送車両の不足で軍事徴用させていただきたいという申し出があり、2日前にもっていかれたとのことだった。いただきたいと言う口調とは裏腹に、まさしく徴用という言葉がぴったりだったという。どうも半ば強制的に無償で持って行かれたらしい。彼はそのことで相当に怒っており、じいさんから聞かされた前大戦中の陸軍の横暴の話を持ち出し、今回もその繰り返しになりそうだとはき出すように言い捨てた。さらに整備課の作業要員不足と車両の運用頻度が上がった為、整備が追いつかず、民間の車両整備工場にもどんどん実質無償での整備外注を出し始めているようだった。「やつらは横暴だ。平和の時の謙虚なあの態度はやはり猫をかぶっていやがたんだ。いつか本性をだしてやろうと爪を研いでいたにに違いない。」延々と陸自の横暴ぶりに対する不満を聞かされながら、そろそろ別の店をあたらねばならないと思い、いつまでも終わらない話を切り上げ店を出ようとした。ちょうど話が途切れたのは幸いに腰を上げようとしたその時、店の前にオリーブドラブに塗装された、見るからに軍用車両とおぼしき大型トレーラー横付けされた。すぐさま中からまだ20代そこそこと思われる若い兵士がつかつかとおりたち、ショールームの中にずかずかと入り込んだ。彼の前に立ちはだかったその兵士は若い士官のようだった。「臨時措置法第20条第3項第1号により、軍用車両の整備命令を通達する。積載車両のマニュアルに基づく初期整備を明朝までに実施し、陸自旅団本部まで引き渡しのこと。以上」「なお、違反の場合は軍規適用となり営巣3ヶ月の処分が行われるので十分留意されるように」そう言い放つとトレーラーの積載荷台から生産ラインから出たばかりと思われる真新しい大型ジープが、2名の同行の兵士によって降ろされ、勝手に整備エリアへと運びこまれてしまった。「くれぐれも遅延なきよう。」そう言い残し轟音をあげて空のトレーラーは黒煙をまき散らしながら走り去っていった。唖然としてそれを見送った我々は顔を向き合わせた「俺も今晩中に田舎に疎開するは」「それがいい」「店は既におれだけが常駐している状態だ、後は好き使ってくれ。どうせここもいずれ設備ごと軍事徴用されるだろう。社長も国外に逃げたという噂だ。ほかの営業所の連中ももうそろそろ潮時だと考えているようだし。」彼はそう言い残すと店のショウウインドーに飾ってあったこのメーカーのフラグシップともいうべき超高級サルーンに乗り込み、搬入口のシャッターを開けてどこへともなく去っていた。途中窓を開けながら後ろを振り向き、「また来年の冬にはどこかのスキー場で会おうぜ、じゃなあ」それが彼との最後の会話だった。私は独身貴族であるがゆえの彼の大胆な行動をうらやましく思いながらも、だれもいなくなった整備工場に残されたたまま思案にくれた。目の前には真新しい軍用ジープがでんと鎮座している。かつて自衛隊が創立以来はじめてPKO国際平和維持活動の一環として、海外に派兵された時に使用された純国産の防弾車両だった。陸自に関していくらかでも知識のある人なら、よく見慣れた車両だった。非常に使いやすいしかも堅牢な車両だった。これから遭遇するかもしれないどんな事態にも、容易に対応できるだけの装備と能力を持っていた。これを使わない手はないと考えた。米軍のハムビーという高機動車両に酷似していたが、それよりもひとまわり小振りで日本国内の狭い道路で使用するにはハムビーよりも使い勝手がよかった。国外での使用のみならず国内での使用も前提に設計、製造されたもののようだった。車幅が小型トラック並に押さえられているため、ちょっとした山間部の県道や市道、細い林道にはいってもとりまわしには苦労しない。ただ重量があるため、少し路肩のゆるいところでは注意する必要があった。

 いいものが手に入ったと喜んだ。 私は残された軍のジープを目の前にして、これに少し改良を加えて積載量を増やすラックをルーフにつければ、3~4日は燃料無補給で移動可能となるだろうと算段した。新品の車両の後部座席をざっと見渡し、積載物品とその積載場所を考えながらとりあえずマニュアルを参考に基本的な整備に取りかかった。初期モデルとはことなりおそらくこれは進化型と思われた。取り扱い説明書から判断すると、V型6気筒の5000CCのディーゼルエンジンにターボ過給器を搭載した高性能モデルらしい。増加装甲を施されていると思われる3トンを超すボディーでも十分な加速性能を維持できる能力を持っていた。国内使用を意識してか、エアコンディショナー装備でミッションは副変速機付きのオートマティックミッションだった。おそらく、民製品を改造流用しているのだろう。信頼性は十分だ。フロントガラスとサイドウィンドシールドは厚さ10ミリを超える防弾ガラスを使用しており、貫通力の極めて強い旧ソ連製のカラシニコフの7.6ミリ弾を、至近距離から被弾しても貫通しない防御能力を有している。またボディー自体にいたっては迫撃砲の至近弾の破片も防御し、50メートル以上であれば150ミリキャノン砲の着弾にもたえられるようだ。話半分としても大変頼もしい限りである。つまりは暴徒による投石や火炎瓶程度では蚊がさしたほどにも感じないということだ。

 初期整備チェックリストに従い、オイル・冷却水・バッテリー・Vベルト等を点検し、さっそくエンジンを始動した。当然キーなどはなくプッシュ式のボタン一押しで一発スタートした。そのエンジンの吹き上がりはとてもディーゼルエンジンとは思えないすばらしい回転だった。タコメーターはまるでレーシングカーのそれのように瞬時に6千回転のレッドゾーンまで跳ね上がった。

 軽く場内を走行し、ごく普通の乗用車とおなじく運転にはなんの問題もないことを確認した。ただし運転のみである。室内の各所には使途不明のボタンや装置がいくつかあった。それについてはおいおいマニュアルを読みながら解決していくとして、後この整備工場でしておかなければならない作業はないか、私は思案した。「燃料を満タンにして、予備燃料を予定どおり3~4缶積み込むだけか・・・。いやまてよ。これはどうみても明らかに軍用車両だ、これから先軍の部隊に遭遇するかもしれないし、また検問自体は十分にありえることだ。そのときどうして軍用車両に乗っているのか問いただされたらいったいどう答えればいいのか。」これはつい今し方まで私の脳裏にかすりもしなかったことだった。さてどうしたものだろうか。私は運転席で腕組みをしながらしばらくの間考えた。そのとき一台の救急車が目の前の道を横切った。準戦時体制下でも急患は発生し、多くの病院はその機能を維持し続けていた。そうか。頭の中にあるアイディアがひらめいた。私は再び整備エリアの中に戻り、あちらこちらを探し回ったあげく、お目当ての道具をいくつかかき集めてきた。「これでなんとかなりそうだ。」倉庫から引きずり出してきたのは、エアコンプレサーと塗料缶、それに刷毛が2~3本にマスキングテープ少々といったところ。かつての平和な日々には日曜大工と称して実家の外壁なども自分で塗装したこともあり、その技術は多少なりとも持っていた。手際よく作業に取りかかった。小一時間ほどで作業は完了した。ぶっつけ仕事だったが、我ながらなかなか上手に仕上がったとしばらく腰をおろしてその作品を眺めた。ついさきほどまで濃いグリーンのつや消し塗装だった車両が、いまや純白のパールホワイト塗装に生まれ変わっていた。しかも両サイドのドアとボンネットには真っ赤なクロス十字が輝いている。これなら、軍に呼び止められることもないだろうし、また検問にかかっても医療機関が、民間の救急患者を搬送しているといえば十分説明がつき通行することは可能だろう。我ながらいいアイディアだと思った。

 ただ使用した塗料が高級セダンのものだったため、目立ちすぎるほどに輝くパールホワイトだったのがちょっと難ありといったところか。速乾性の塗料とはいえ完全に乾燥するには、大型扇風機を使用しても半日はかかる。日は頭上から次第西の空へと移ろうとしていた。日暮れまでには残りの用事をすませて家に帰りたい。多少ゴミでもついたほうが目立たなくなっていいだろうと思いながら、そのままシンナー臭のする運転席に乗り込み次の目的地であるホームセンターに向かった。

 車で5分くらいの距離にある大手のホームセンターは駐車場からして満車に近く、しばらく駐車場所をさがすのに苦労した。この車両は確かにキーなしでエンジン始動できるが、日常的な用途も考慮してドアのロック機構がついていた。つまり戦時になってキーがないために車内にはいれないなんて漫画のような事態がおこるのも困ったものだが、かといって警備業務中に乗っ取られたのではかなわない。それで一般人にはまずわからないような場所にロック機構があり、それを外から解除するとドアがあくようになっている。まわりをきょろきょろしながら、それでなくても目立つ車なので、用心しながら後ろ手でドアを密かにロックした。

 混み合った店内では日曜日もあってか家族連れの姿も多く見受けられたが、やはりほとんどは一家の主人である男性客が多数を占めていた。何割かの人たちはおそらくこれから数週間、いやもっと早ければ数日の内に日用品が品薄になるだろうことをうすうす感じとっているのだろう。幸いなことに多くの商品が高騰している点を除いては、まだまだ店内はあらゆる品物であふれかえっていた。商売人はここぞとばかりに取引先のあらゆるメーカーからあるだけの商品在庫をとりよせ、店内に陳列しているようだった。

 私はあらかじめメモをしていた物品を手際よくカートに入れていった。まず絶対必要なものは、キャンピング用の小型コンロと高照度のランタン、そして燃料のカートリッジをあるだけ全部である。後、小型のドーム型テントで、荷物がおける前室も持った4人用の冬季用のものを一張り。ペットボトル入りの飲料水を1週間分。フリースドライ・レトルト・缶詰等の携帯食。本当は小型発電機も1台ほしかったのだが、これは重量がありすぎ、かさばるので涙をのんであきらめた。あくまで今手に入れた車両に妻と子供1人を乗せて、残ったスペースに積載できる範囲に絶対に必要なものから優先順位をつけて搭載していかなければならないのだ。

頭の中で積載場所をイメージしながら次々と品物をカートに入れていった。まずダクロン糸という中空の特殊繊維綿を使用し、アウターの布地は通気性と防水性を兼ね備えたゴアテックス布で造られた高性能のシュラフを三つ。要は冬季に高山地帯にキャンプに1週間でかけるための機材をまずそろえると考えたらいいわけだ。後はこまごまとしたもの。以外と必要なのがテイッシュペーパー。これは用足しにも必要だし、とにかくあらゆるものに使う。ヌレティッシュでもOKだ。ミニマグライト。これは大型のものを2つ。予備の乾電池も十分に用意する必要がある。便利グッズには簡易浄水器。飲料水が不足すればたちまちアウトだ。そうそう子どものミルクはすでに妻が購入して自宅にストックしてある。自分たちは食料が不足してもなんとかなるが、1歳になったばかりの乳飲み子はそうはいかない。まだオムツもはずれてないわけだから、通常なら紙オムツも段ボール箱2箱3箱は必要だ。だがこれはそうもいかないので1日3枚でなんとかもたせ40枚入り2袋で我慢してもらうことにした。目的地の妻の実家にはあらかじめ大量の紙オムツとミルクをストックしているので、そこに着けば問題ない。ほかにも義父に頼んで、確保できるだけの軽油をドラム缶単位で備蓄してもらうよう伝えていた。

 最後にルーフキャリアの頑丈なやつをひとつ、規格外の車両に店員に相当に無理をいって装着してもらった。もちろん袖の下は十分に渡したのは当然だが。こんなことは以前の私なら絶対にやらないことのひとつだった。しかし今は妻と息子を安全な場所に移動させるにはそんなことはいっていられなかった。混み合ったレジで精算をすませこの店を出た頃には、日が西に沈もうとしていた。最後にガソリンスタンドに寄った。近くに何件かあるので一番近いところに向かった。「燃料満タンで」私はいつものようにスタンドの従業員に声をかけた「ガソリンでいいの」若い学生風の従業員が尋ねた。どこから見ても救急車なのでディーゼルエンジンであるのに気づかなかったのだろう。「いや、ディーゼルなんだ。軽油満タンでたのむ」一旦給油口のキャップをあけようとした彼はそれを聞いて困ったような顔をして運転席のところにやってきた。「もうしわけないんですけど軽油はもうないんです。入荷の予定もありません」なんとガソリンは別として軽油は軍用にすべて徴用され、個人には昨日から販売できないことになったというのである。私はとんでもない事実に直面し愕然とした。民間の輸送トラックについては、指定給油所で給油するように制限がかけられたらしい。金はいくらでも出すから売ってくれと頼んだが、実際タンクは空で売ろうにもローリーの搬入が停止して、昨日の昼前に完売してしまったそうである。なんという不覚。私はスタンドを出るとわらをもすがる思いで周辺のスタンドを5、6件回ったがすべて軽油は完売状態だった。最後に立ち寄ったスタンドで、市内の指定給油所以外のすべてのスタンドの在庫保有状況を無理をいって調べてもらったが、やはりどこも軽油の在庫は持っていなかった。私は途方に暮れてしまった。なぜもっとはやく軽油を確保しておかなかったのか。悔やんでも悔やみきれなかった。現在この車両のタンクにあるのは10リッターたらずで、これでは隣町にさえも行きかねる。混乱した頭を冷やすためとりあえず目の前に見えたコンビニの駐車場に車を入れた。

 コンビニでは若者がいつもと変わらず、清涼飲料水とスナック菓子を買い屈託なく笑っていた。学校は臨時休校になり学生は暇をもてあましていた。彼らの未来はどうなるのか。いや私の息子の未来は。そんなことを漠然と考えながら、車を降り道端でほおづえを付きながらぼーとしていた。帰ったら妻に会わす顔がない。準備が整えば、今日夜半にでも出発しようと考えていたのに。明るい店内へと客が何人か出入りをしている。その蛍光灯のまばゆいほどの明るさが逆に今の自分の心をよりいっそう沈めた。同じように明るく蛍光灯でてらされた居間には、私の帰りを待つ家族がいる。そこに暗い知らせをもって帰らなければならない。私は頭を抱えそこにうずくまった。その時大きなゴーという音が耳のすぐそばを通り抜けていった。「プシュー」というエアブレキーの音と「キー」いうディスクブレキの甲高い悲鳴が聞こえた。大型のトレーラーが駐車場の片隅の暗がりに停車したのだ。一呼吸おいてさらにもう2台がコンビニの駐車場にはいってくると、先の車両にぴったり並んで停車した。どうやら晩飯を買いに寄ったようだった。キャビンから強面の男が降り立ち店内に入っていった。店員はなぜか怯えているふうに見えた。運転手はビールとつまみらしきものを買い、トラックへと戻っていった。室内灯がつき中で一杯やっている光景が見て取れたがすぐに消え、その後発車するでもなくエンジンはかけられたままそこに停車したままとなった。

 どうやら店員をおどかし、ここで車内泊をするつもりらしい。「なんとずうずうしいやつがいるものか」とこっちが警察を呼んでやろうと考えたが、この混乱状態の日本でばかげた考えだということにすぐ気づいた。そんな正義ぶったことを考えた自分がばからしく思えた。とその時、ふと邪悪な考えが脳裏を横切った。「それはまずい。それは犯罪だ。」私の良心が叫んだ。しかし一方で他人の敷地を違法に占拠するような犯罪行為を行うものから、それに釣り合うくらいの犯罪行為をそいつにしても、私的制裁として道義上許容されるのではないか。そんな勝手な理屈がわき起こってきた。私は決断した。道徳レベルは平和のレベルに比例する。今は準戦時体制だ。太平の世の中だった今までとは違うのだ。

 決断してからの行動は早かった。車載工具からレンチを取り出し、燃料缶を片手に3台のうちの真ん中の一台にこっそりと近づいていった。幸いにも暗闇に停車しており、照明のあたらない場所であるため、店員や来店する客からちょうど死角になっている。

運転席を覗き見るとドライバーは先ほどの酒が回っているのか、涎をたらしながらだらしなく寝入っていた。すぐにトレーラヘッド下の左右に設置してある大型の燃料タンクのそばに回り込んだ。レンチで軽く叩いてみた。にぶいコツコツという音がした。反対に向きをかえ隣トレーラーの燃料タンクを叩いた。運のいいことにこいつも満タンだった。おそらく片側のタンクから消費しているのだろう。すぐさま下に潜り込みドレンプラグを緩め、その下に携行タンクの口を持って行った。プラグを抜くと共に勢いよく独特の臭いのする揮発性の液体が流れ出した。すぐに満杯になった。死ぬほどおもたくなった燃料缶を中腰で引きずるように車まで持ち帰った。すかさず次のタンクをもってゆき燃料で満たした。客に見とがめられないかと心配で、0度近い気温にもかかわらず首筋に冷や汗が流れた。とても長い時間が経過したように感じられたが、実際には20分ほどくらいだっただろう。手持ちの缶計6缶すべてを満タンにして、おまけに60リッターはいる車両の燃料タンクもいっぱいにすることができた。用が済めば長居は無用。私はエンジンをスタートさせると逃げるようにその場を立ち去った。失敬した燃料は計180リッター。トレーラーのタンクがそれぞれ100リッタータンクだから、ほぼふたつとも空にした勘定になる。彼らも目がさめてすぐには気がつかないだろう。罪を犯したのは事実なのだが、相手がやくざな人間だったせいか、なぜか罪悪感よりも家族のために困難な目標を達成したという満足感のほうが先にたった。

 帰宅すると妻が心配そうな顔をして玄関口まで飛び出してきた。あまりに遅いのでなんども携帯で電話をしたのだが、呼び出し音が鳴るばかりでいっこうにつながらない。「どうしたのかとずっと心配してたの」と今にも泣きそう声でいいながら抱きついてきた。携帯をうっかり車内に置き忘れていたんだと嘘をついた。実際には途中で鳴ったらまずいと、故意に作業中は車内に置いていたのだった。妻はてっきり民間のトラックを購入してきたものと思っていたのが、見たとこともない厳ついジープで、しかも白地に派手な赤十字マークがついている。妻は大変おどろき私に事情を尋ねたので私は簡単にいままでの出来事をかいつまんで話した。もちろん軽油を盗んだ話しは伏せておいた。入らぬ心配をかけたくなかったからだ。妻は倫理観の強い女性だった。後ろで長男が急に泣き出した。妻は私の小型ザックを受け取り、室内へとって返し子どもを抱きかかえあやしながら、風呂も沸き食事もできていると言った。

 腹も減ったがまずこの疲れを熱い風呂で癒したかった。「先に食べていてくれ」と言いつつバスタブに満々たまった湯に肩までどっぷりと浸かった。今日一日のことを振り返った。万全とはいえないが、かなりの準備はできた。出発しようとおもえば今夜にでも可能だ。最終決定は再度インターネットで情報を収集してから決めることにしよう。熱い湯は、芯まで冷え切った体を徐々に暖めてくれた。フルに活動し、肉体的にも精神的にも疲労の局地だった私は、ひとときのここちよい開放感を味わった。体調は常に万全にして置かなくてはならない。機械にメンテナンスが必要なように、生身の体もいたわりが必要だ。いざというときの底力も余裕ある体力がなければ、瞬時にはでてもすぐに萎えてしまう。精神力だけでは、これから先予想される困難を乗り切れるものではない。ここちよい暖かさと、湯面からたちのぼる鼻底を甘美にくすぐる入浴剤の甘い香りが私の疲労した精神をもみほぐした。

  食卓の上には平和だったころとかわらない食事が、湯気をたてながら並べられていた。妻に言った。「おおかたの準備はできた。出発しようと思えばいつでも可能だ。おまえのほうはどうだ」ご飯をつぎながら彼女は答えた「これから先のことは、すべてあなたの指示に従います。私にでもできることがあればなんでも言って下さい。二人で協力して、この困難を乗り切りましょう。この子のためにも」私は「うん」とうなずき、食べ終わったはしをテーブルに置くとコンピュータのモニターの前に座った。テレビやラジオもまだ娯楽も含めて断続的ながら放送はおこなっているが、急速にその内容は平板化していた。1日のうち3分1が政府公報という日もままあった。中央政府からの大陸での戦況報告は抽象的で要領をえないものが多かった。まだ日本領海は戦域には入っていないという話だったが、ラジオの一部はすでに北九州の海岸に特殊部隊が上陸し、後方攪乱作戦を展開していると放送していた。前大戦でも同じだったが、またもや我が国は同じ轍をふむのだろうか。政府・軍を中心とした大々的な情報統制がおこなわれつつあった。しかし、今回は違った情報収集ツールがあった。インターネットだ。網の目のようにはりめぐらされた通信ルートは、その一部がダウンしても中継装置が自立的に迂回ルートを探索し、データ転送をした。それにより情報の伝達をとぎらせることなく配信し続けることができた。おそらく日本中いや世界中の人々は、今現在極東の地で進行しつつある国際情勢の激変を見守り続けているにちがいない。

 私は明朝の出発を決断した。パソコンのスイッチを切り、階段下に荷物を運び車両への積載を始めた。荷物を運び込みながら、改めて結構な量になっているのに驚いた。妻はすでに予想していたのか、それなりに身の回りのものを整理していた。かなり大量の荷物となったがどれもかかせない物資ばかりなので、きちんとコンパクトにパックして積み込まなければならない。そしてもうひとつ。いつなんらかの理由で緊急に車両を放棄せざるおえないことがないとも限らない。そのときに絶対必要な最低限の装備をひとまとめに入れた非常用のザックを作っておく必要があった。中身については十分に熟考した。

 まず衣食住はそれぞれ最低限満たされなければならない。衣と住は冬季の山間部を走行するわけだから、防寒着・テントとシュラフは必須である。それにともない照明や水、食料、が当然いる。テントはメインとサブの2張りを購入していた。予備は2メートル四方のドーム型のワンタッチ自立型の小さなものであるが、極めて軽量でコンパクトに収納できる。照明はガスランタンが非常に明るいし使い勝手がいい。多少かさばるが軽いのでチョイスした。

 ただし、山間部の夜道を歩くことも考えられるので、頭部に装着できるリチウムイオン電池使用の高輝度キセノンラップ1個と小型のマグライトを1個、それに予備の電池数個も追加した。次に絶対に必要な水だが、これは容量の割にはかなり重量がある。そこで沢沿いを行くので現地調達も十分可能なことから、非常用の飲料水として1.5リッターのペットボトルの水を、アルミボトルに詰め替えたのを2本にとどめた。食料についてはできるだけそのままで食べられるハイカロリーの非常食を3日分詰めた。不足する栄養素はビタミン剤を携行することで補った。後は粉ミルクと離乳食のレトルト。バーナーは調理済みの食料を携行するので省くこともできたが、粉ミルクを溶かすお湯を沸かす必要があった。また体を温めるために熱いコーヒーも必要だろうから、超小型のバーナーひとつとガスボンベ2缶を持っていくことにした。この時点で重量18キロ、後は簡単な医薬品を詰めた救急セットと、その他雑貨でジャスト20キロとなった 念のため、妻にもウエストベルトをしてもらい、そこには山岳用のレスキューパックを入れてもらうことにした。

眠れない夜だった。準備は完全だ。なにも心配はない。長くても1泊2日の行程だ。自分にそう言い聞かせはするのだが、なかなか寝付けなかった。妻もいつになく頻繁に寝返りを打っていた。やはり眠れないに違いない。枕元の時計を見た。12時を回っている。明日に備えて睡眠は十分に取っておく必要がある。私は静かに床を抜け、冷蔵庫の中のビールを一缶開けた。元々酒は弱いので、眠れない夜にはアルコールを流し込み、睡眠薬代わりにすることがあった。さすがに市中でもアルコール飲料は不足気味だった。これが最後の一缶だった。一気に飲み干した。胃の腑の中で熱い物がぐるぐると回った。そのまま寝床に潜り込み、あっというまに意識を失った。

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