レイコー

木魂 歌哉

レイコー

 勉強合宿。かくのごとく恐ろしい言葉を聞いたことがるだろうか。

 日常の何もかもを忘れて、ただひたすらに勉強するのである。自習、朝食、自習、昼食、演習、自習、夕食、風呂、自習…。地獄であった。彼処あそこはまさに生き地獄であった。そこで溜まりに溜まった疲労が、風呂などでは(其処そこがどれほど気持ちよかろうと)取れるはずもなく、部屋に帰った私達は死人のように蒲団ふとんに突っ伏し、しばらく何もわなかった。

 しかながら寝ることはできなかった。そもそも、つい先程まで勉強していたというのに、すぐに寝ろと云うのが、どだい無理な話である。床や蒲団に転がっていた面々はそのうちに起き上がり(中には延長学習なるものに行った志高き面子めんつもいたが)、各々おのおので夜を過ごした。

 私はあくる朝に在る早朝学習のため、買った缶コーヒーをペットボトルに移そうとしていた。缶コーヒーのようなふたのない飲料物は、自習室に入れてはならないという規定があったためである。だが缶コーヒーは(当然ではあるのだが)、ペットボトルに移すにはむいていない構造である。このままではほとんどのコーヒーをこぼしてしまうという痛すぎる状況になりかねない。

 そこで友人の一人Kの助言により、旅館のカップに入れてからペットボトルに移すことにした。どうやら彼(Kはこの部屋にいる面子で一番海外に行っていた)も旅行のホテルで使う手であるらしい。成る程、コーヒーの殆どはペットボトルに収まった。

 先程まで自販機の中で冷やされていたコーヒーはまだキンキンに冷たく(大阪人は冷たいコーヒーのことを、冷たいコーヒー、略して「レイコー」と呼ぶ、というのを私はその時に思い出していた)、今すぐにでも飲みたくなるような魅力を発していたが、あくる朝のため我慢した。よい知恵(つまりはこのような簡単なことも思いつかない私が莫迦ばかなだけなのであるが)をさずけてくれたKに感謝の意を伝えようとすると、彼もなにか飲んでいるところであった。

 「こういう時は酒でも飲んでパーッとやりたいンだが、生憎あいにく俺らは未成年だからなぁ(この発言自体が未成年の云うことではないだろう、と私は思った)」

 そう云って掲げるグラスには、なにか黄色い飲み物が入っていた。泡をたせばビールになりそうな見た目ではあるが、缶ジュースらしい。

 「お前も飲むか?」

 とKは私に勧めてきた。

 「じゃあ、せっかくだから僕もいただこうかな」

 私は新たなグラスを手に取ると、Kに差し出した。Kは少し傾け少量入れた。私はそれを、一口でぐびりと飲み干した。とたん、なにかが私の喉を攻撃し、むせてしまった。缶を見て私は自らの誤算に気づいた。その飲み物は炭酸飲料であったのだ。私は元来、炭酸が苦手であった。

 「魔剤まざいの味だろう?」

 Kが云った。魔剤というのは、カフェインなどが含まれた眠気覚ましの飲料に私達がつけたあだ名であった。しまった、この様子だと暫くは眠れないぞ、と私は思って、明日の朝は起きれんやもしれん、とKに愚痴ぐちをこぼした。

 疲れているのに眠れない、という奇妙な均衡きんこうのなか、私達はまた暫く黙った。枕投げのような、青春を具現化ぐげんかしたかのような定番な行動を起こすような元気さえ、その時の私達にはなかったのである。

 なぜそうなったのかは忘れてしまったが、またそのうちに起き上がった私達は漫画の話をした。話は時たま、なにがし物語という恋愛漫画に及び、意外にもこのとしの男子陣だったにもかかわらず私達は盛り上がった。然し、話のネタなどすぐになくなるもので、私達は一度何も話せず茫然ぼうぜんとした。

 すると、ここで話は”恋バナ”なるもの(後日友人の話で、延長学習に行っていた面々も後にこの”恋バナ”に参加したということを聞いた)に変わり、残念なことに恋愛とは全く縁のない私は、一人蒲団にこもって懐中電灯を手に原稿を書いていた。皆の声を背に聞き乍ら書いているうち、魔剤の効果が切れてきたのだろう。睡魔が訪れてきて…

 気がつくと朝であった。最近では珍しくなったミンミン蟬の声を聞き乍ら、時計を見ると四十五分寝坊であった。私は跳ね起き、蒲団を急いでたたみ始めた。

 かくして昨日の懸念けねんどおりに寝坊してしまった私は、早朝学習には出られないので朝のラジヲ体操のみ参加することにした。周りの友たちは皆疲れた顔で眠り、蟬の鳴き声程度では起きそうになかった。かと云って無理に起こすこともできず、しまいに五月蝿うるさくなってきた蟬の鳴き声に耳を傾け乍ら、私は一人茫然とあぐらをかいて座っていた。

 ふと思い出して私は置いておいたコーヒーを手に取った。ペットボトルは結露しており、持ち上げる際にしずくがポタリと落ちた。

 可哀相かわいそうなことに、昨日まで”レイコー”だったものはすでにぬるくなって、飲みたいと人に思わせるような魅力を既に失ってそこにずっとさびしくたたずんでいたのである。せめて、と私はそのコーヒーを少し飲んでやった。ほろ苦い酸味が、哀愁あいしゅうともに口の中をただよった。

 蟬の鳴き声は、ますます五月蝿くなって私の心とペットボトルにむなしく響き、静かに余韻よいんを残して、消えた。

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レイコー 木魂 歌哉 @kodama-utaya

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