Human and Beast

グオティラス

第1話

 天空を覆い尽くす暗雲。

 そこから降り出した雨は勢いを増し続け、地上を濡らしていく。

 音も激しくなる一方だ。


「……」

 

 ところがその生物は濡れることを気にせず、森林の中を四本足で歩いていた。

 体長三メートル以上の黒い獣だ。

 筋肉質の巨躯は分厚い毛皮に覆われ、口は耳まで大きく裂けている。

 目つきの鋭さが凄まじく、威圧感は圧倒的。

 特に際立つ特徴は、額に刻まれた白い紋章だろう。

 明らかに普通の獣ではない。


「……」


 どうやら目的地は前方にあるようだ。

 唸り声を上げ、悠然と一直線に歩き続ける獣。

 しかし、不意に動きを止めた。

 付近の樹木から、何者かが姿を見せたためだ。

 精悍な顔立ちをした黒髪の青年で、右手首にはめた真紅の腕輪が印象的。

 服の上からでも分かるほど筋肉質だが、鈍重そうな雰囲気はない。

 無駄なく鍛え込まれ、引き締まっているが故だろう。

 

「見つけたぞ。その紋章の形は、依頼人が語った特徴と一致している」


 言うなり、青年は雨に濡れることも気にせず一歩前進した。


「この先の住宅街へは行かせない。ここで倒す」


 青年が言い終えた直後。

 獣は身を低くしながら、静かに口を開いた。


「その腕輪……貴様、ガードのメンバーだな」


 流暢に人間の言葉を発する獣。

 あまりに異様な光景だが、青年は少しも動揺していない。

 そんな彼に対し、獣は続けた。


「討伐の依頼を受けて、俺を仕留めるために来たということか?」

「身に覚えがあるだろう」


 両目に少し力を込めつつ、青年は呟いた。


「お前に襲われた被害者十二人の内、九人が死亡。三人が全治数ヶ月の重傷で今も入院中なんだぞ」

「ちっ……三人も生き残ったのか」


 獣の口調は、忌々しげだ。


「食うと決めた人間達を何人も仕留め損なうとは、私も魔獣としてまだ未熟だな」

「上達の機会は与えない」


 左手で拳を作りながら続ける青年。


「お前は、ここで終わるんだ」

「ほざけ!」


 次の瞬間。

 魔獣は地面を蹴り、土砂と雨水を巻き上げて突進した。

 その巨躯とは裏腹に恐ろしく速い。

 常人なら回避どころか、反応することもできずに食い殺されるだろう。

 だが青年は違った。

 冷静な表情で素早く半身を引き、肩口へ迫る牙を難なく回避したのである。

 間を置かず、彼は左拳で殴りかかった。

 腰が入り、速さと重さを兼ね備えた見事なパンチだ。

 それは魔獣の頭部に深くめり込み、打撃音を響かせた。


「がっ……!」


 呻き声を上げてよろめく魔獣。

 しかし倒れることなく踏みとどまると、雄叫びと共に右前足を大きく上げ、振り下ろした。

 残像を伴うほど速い一撃を、青年は咄嗟に斜め後方へ跳躍することで回避。

 直後に、右前足が地面へ激突して轟音が鳴り響いた。

 凄まじい勢いで大量に巻き上がる土砂と雨水。

 地面は直径数メートルに渡って粉砕され、周辺の木々も衝撃で吹き飛んだ。

 圧倒的な破壊力。

 これをまともに受ければ即死だろう。


「……」


 青年は特に驚愕することもないまま、無言で着地。

 そして彼が構えると同時に、魔獣は口を開け、猛然と襲いかかった。

 恐ろしいまでの勢いで距離を詰めるが、それ以上の速さで力強くパンチを繰り出す青年。

 軸足と腰を超高速で回転させ、右拳を魔獣の額へと叩き込み、凄絶な打撃音を響かせた。

 巨躯が吹っ飛び、少し離れた位置の地面へ落ちて転がる。


「ぐっ……ぁぁぁっ……!」


 苦しむ魔獣の額から闇のような黒い鮮血が噴き出し、地面を濡らしていく。

 やがて白目を剥いた瞬間。

 三メートル以上の巨躯は急激に溶け始め、わずか数秒で跡形も残らず消えた。

 明らかに異様な現象だが、青年の表情は相変わらず冷静である。


「これで依頼は達成」


 呟くと、青年は近くの樹木へ視線を向けた。


「後は本部へ報告するだけだな、茜」


 その言葉に応えるように、女性が樹木の裏側から歩み出てきた。

 年齢は二十歳前後で、青年よりも少し若い。

 美しい顔立ちには気品があり、長い黒髪を首の後ろでまとめている。

 白を基調とした服に包み込まれた肉体は小柄だが、決して華奢ではない。

 一見細身だが、誰も彼女に弱々しい印象など持たないだろう。

 右手首にはめているのは、青年と同じ真紅の腕輪だ。


「お見事です、圭介さん」


 茜と呼ばれた女性は穏やかな笑みを浮かべ、言った。


「もし貴方が苦戦するようなら加勢に入るつもりでしたが」


 彼女は魔獣が倒れていた位置に視線を向け、続ける。


「その必要もありませんでしたね」

「ああ。悪かったな、茜。俺一人で済む仕事につき合わせてしまって」

「お気になさらず」


 少し間を置いてから、右手首の腕輪に触れて呟く茜。


「私達は同じガードのメンバーとして、コンビを組んでいるんですから」


 ガードとは数十年前に設立された治安維持組織で、世界中に支部が存在する。

 腕輪は身分証明書の代わりだ。

 命の危険を伴う活動ばかりなため、支払われる報酬も高額。

 それ故に加入希望者は多いが、メンバーになるためには極めて難易度の高い試験を突破しなければならない。

 強靭な心を持ち、肉体の限界を超えるほどの尋常ならざる努力を重ね、ようやく合格できるかどうかというレベルだ。

 つまりガードのメンバーであること自体が、既に猛者の証と言える。


「それに、魔獣相手に用心し過ぎるということはありませんからね」


 魔獣と呼ばれる生物が出現して人類を脅かし始めたのは、今から数十年前。

 言葉を自在に話せるほど賢く、姿は狼似だ。

 絶命すると全身の細胞が溶け出し、後には何も残らない。

 最大の特徴は、個体ごとに形の違う紋章が額に刻まれていることだろう。

 いずれも圧倒的な身体能力と五感を備えており、通常の猛獣よりも遥かに強い。

 そして何より恐ろしいのは、人間を好んで食べるという性質。

 魔獣襲撃による犠牲者は年々増加傾向にあり、彼らを討伐するために設立された組織がガードというわけだ。


「確かにな」


 圭介は茜の言葉に同意した。


「もし今回の相手が古参の魔獣だったら、俺一人では手に負えなかっただろう。お前と二人で立ち向かっても勝てるかどうか」


 魔獣は成長速度が凄まじく、長生きして経験を積んだ個体ほど強い。

 故に古参と若手では実力差が大きいのだ。


「たとえ古参と戦うことになっても、俺達は絶対に勝たねばならないが……な」


 呟くなり、圭介は複雑な表情を浮かべた。

 どの魔獣も例外なく高い知能を持ち、人間と言葉も交わせる。

 しかし、共存の余地は皆無に等しい。

 全住民どころか動物や昆虫に至るまで完全に殲滅された町も珍しくなく、魔獣を強烈に憎んでいる人間がほとんどだからだ。

 共に生きていこうなどと、思えるはずがない。

 さらに、もっと切実な問題がある。

 共存していくということは、常に一定数の人間を『食料』として魔獣に差し出さねばならないのだ。

 それを受け入れられる者が多いはずもなく、反発されて当然。

 加えて、こちらの事情などに構わず魔獣は襲ってくる。

 故に個人の考え方や価値観がどうであれ、戦わねばならないのが実情だ。


「魔獣が全滅するか、人間が全滅するか……そんな戦いですからね」


 そう言って、圭介の言葉に賛同する茜。

 どちらかが死に絶えるまで続き、負けた方が滅びて地球から消え去る。

 極論すれば壮絶な『生存競争』であり、善も悪もない。

 種の存亡をかけた、ある意味とても純粋な戦いと言える。


「分かっている。俺達は何があろうと誰が相手だろうと……負けてはならない」


 負けは、人類の破滅を意味するのだから。

 半ば自分に言い聞かせるように語ると、圭介は天空の雨雲を見上げて続けた。


「さて、本部へ戻ろうか。このまま雨に濡れていると風邪をひいてしまうぞ」

「ええ。そろそろ寒くなってきましたし、報告もしなければいけませんものね」


 静かに会話しながら、二人は森林の外へ向かって歩き始めた。

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