第3話 雪合戦と絶景と
「ひどい。その女は最低だ。留美さんを捨てて、自分だけ逃げた」
いや、逃げてきたのは私だけど。そんな冗談は言えなかった。
美雪は俯いていて、ぷるぷると肩を震わせていた。その震えが冬の寒さのせいじゃないことは、出会って間もない私でもわかる。
それにしても、事実とはいえ『捨てた』という表現にはグサッときた。
「だって、諦めじゃんか。続けられるかなんて、意思だけの問題でしょ。周りの目が怖いから、逃げたんだ。留美さんのことなんて考えずに」
「い、いや、まあ……」
そう言ってしまえば、そうなのかもしれない。ただ、彼女がそんなひどい人じゃないことは私が一番よく知っている。彼女なりに考えて、私のことだって考慮して、出した結論があれだったと思う。
でも、そんな事情を知らない美雪はまだ続ける。
「意気地なしの、ひどい女だよ! 人でなしだ!」
顔を上げた彼女は、八重歯をのぞかせて、今にも誰かに噛みつきそうなほど怒っていた。
綺麗な銀色の髪を揺らして、顔を真っ赤にしている。
「最低だよ!」
「いや、ちょ、ちょっと待ってよ。落ち着きなって」
さっきまでの雰囲気と打って変わって、激怒しはじめた美雪を宥めるために、彼女の両肩に手を置いた。
「そんなひどい子じゃないから。そこまで言われると、元カノでも傷つく」
不本意ながら『元カノ』と自称したことで、さらに傷ついた。
どうして美雪が急に怒りだしたか、全然見当がつかなくて、どうしたらいいかわからない。
美雪はきつい視線で宥める私を睨んできた。
「留美さんは悔しくないの? 捨てられたんだよ!」
「だって、それは」
「事情はあっても、恋人だったくせに、留美さんよりほかの何かを優先したんじゃん! もっと、怒りなよ!」
美雪は急にしゃがみこむと、慣れた手つきで足元の雪をかき集め始めた。何をしてるのかな、なんて、呑気に考えていたのが間違いだった。
立ち上がった美雪は、作りたての雪玉を私の顔面に思いきりぶつけてきた。
突然のことにびっくりして、そのまま尻もちをついてしまった。美雪はそんな呆けている私を見下ろしたまま、白い息をはぁはぁと吐いていた。
「怒りなよ! これくらい、理不尽なことをされたんだよ!」
また雪玉を作って、無防備な私にぶつけてくる。北海道の雪は柔らかいけど、無茶苦茶冷たかった。
「怒れよ、バカ!」
そこまで言われて、好き放題されて、黙っていられるほど私は大人じゃなかった。
「うっさいわねっ!」
私も雪玉を作って、美雪に投げたのに、彼女はひらりとかわしやがった。
そして、生意気にもにやりと笑ってくる。
「そんなもん?」
その安い挑発に、私は乗った。
「こっからよ!」
そこからどういうわけか、真冬の北海道の雪原の真ん中で、私たちは雪合戦を始めた。
地の利なのか、圧倒的に美雪のほうがぶつけた回数は多かった。それでも私だって、何度かは彼女の綺麗な顔にぶつけてやった。
真っ白な景色の中で繰り広げられるバカな戦争に、気づけば私は笑っていた。
すると、さっきまで怒っていた美雪も笑って、何もない雪原に二人の声が響いた。
「留美さん! 私を、その女だと思ってよ!」
「はは、なにそれ」
「そしたら、もっと思いきり投げられるじゃん。バカって言いながら、ぶつけていいよ」
美雪の提案こそバカだと思ったけど、寒さでおかしくなってしまった私はその通りにした。
ぎゅうぎゅうと握った雪玉を、笑顔で立っている美雪に向かって投げつけた。
「ばかやろうぉぉっ!」
北海道中に響くんじゃないかってくらいに大きな声で全力投球した雪玉は、美雪の胸のあたりに当たって弾けた。
「もっとだよ! もっと、言いたいこと、あるでしょ!」
そう私を煽る美雪は、自分も雪玉を作ってまたぶつけてきた。
「意気地なしぃぃっ!」
そんな叫び声をあげながら。
そこからは、お互いに絶叫しながらの雪合戦。
「ちょっとは相談しろよぉ!」
「周りの連中なんか無視したらいいじゃんかぁ!」
「二人なら乗り越えられたかもしれないだろぉ!」
「なんのための恋人だぁ!」
「もう忘れてやるからなぁ!」
「ふったこと後悔しやがれぇ!」
「だけどぉ!」
「それでもぉ!」
最後はなぜか二人の声が揃った。
「好きだったよっ!」
同時に私と美雪の顔面に雪玉がぶつかって、二人揃って大の字になって倒れた。雪のクッションは柔らかく私たちを包み込んでくれて、熱くなった頭と体を冷やしてくれた。
薄くて白い雲が覆う空を見上げていると、何をしているんだろうって我に返った。
そしたら、また笑えてきた。寝転がったまま、声をあげて笑うと、美雪の笑い声も聞こえてきた。
先に美雪が立ち上がって、まだ寝ころんだままの私を見下ろしてくる。体中に粉雪がついているけど、銀髪のおかげで、それがとても似合っていた。
「どう?」
悪戯っぽい笑みを浮かべて、そんな雑な質問をしてくる。
「はは、何が?」
「すっきりしたんじゃない?」
そこで初めて、自分の体が驚くほど軽いことに気が付いた。きっと、言いたいことを全部言って、ため込んでいたストレスを発散したおかげだ。
「……そだねー」
テレビで覚えた北海道訛りの返事に、美雪は嬉しそうにしていた。
「ね? 私、カップル向けじゃない観光ガイドできるでしょ?」
「……ええ、ほんとに」
美雪は少なくとも、今の私にとっては、これ以上ないガイドさんだった。
そんな優秀なガイドさんが、寝転んだままの私に手を差し出した。
「ほら、立って。目的地はもうすぐだから」
そういえば、どこかに向かっていたんだ。そんなことすら忘れていた。
さっきまでなら文句を言ったはずなのに、私は黙って彼女の手を取った。
その手は小さくても、とても温かく感じた。
3
雪原を進んだ先に現れた景色に、私は思わず足を止めた。
さっきまで雪しかなかった視界に広がったのは、キラキラと光る水面の湖だった。その美しさにただ感動してしまった。
「支笏湖だよ」
美雪が私の前に立って、その湖を指さした。寒さに慣れているはずの彼女でさえ、頬が赤くなっていた。
「冬の北海道の名所の一つなんだけどね、あんまり人は来ないんだ」
「どうして? こんなに素敵なのに」
景色に目を奪われたまま、思ったことを口にした。すごく綺麗。インスタにあげたら、きっと『いいね』の嵐だ。
「だって、遠かったでしょ?」
当たり前すぎる理由に、噴き出してしまう。そう言われれば、そうだった。
水辺ぎりぎりのところまで歩いていく。湖は風に吹かれ、小さく波をたてていて、それが弱弱しく岸辺にうちつけていた。
水面の光が周囲に積もった雪に反射して、景色全てを輝かせていた。
「……素敵」
こんな景色は、生まれて初めて見た。今まで見たどんなものより、美しかった。きっと何時間見続けても飽きることはないと思う。
「留美さん、足滑らせないでね。ここで溺れたら死んじゃうよ」
景色をじっくり見たくて、岸部を歩き出した私に美雪がそんな注意をしてきた。
「バカにしないでよね」
「そう? ま、ゆっくり見てよ。北海道の自慢の一つだからさ」
私の背中をぽんと叩くと、美雪は私と距離をとるように離れていった。たぶん、一人にしてくれるように気を遣ってくれたんだと思う
さっきの雪合戦ですっきりはしたけど、全快したかというと、そんな簡単なわけなくて。やっぱり、まだまだ思うことはある。そしてそれは今日明日とかでどうにかなるものじゃない。
でも、今はそういうことを忘れられそうだった。だって、こんなに綺麗で、壮大な景色が広がっていると、どんなことでも小さく思える。
人生まだまだこれからじゃんとか、前向きになれる。傷ついた心を完治させることはできなくても、また別の心意気が持てる。そんな気がした。
真っ白な雪景色に、透明な湖。それらに心が浄化されるのが感じられる。
「……ふふ」
なんだか、楽しくなってきた。
ステップを踏んだ。そして、両手を広げて、体をくるりと回転させる。銀世界を見渡したかった。
そして目に入った。
――湖に浮かんだ、美雪の姿が。
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