第42話 守恒と咲久
自分は、馬だ。
克也・墨は自嘲する。
病院の屋上。遠く祖国の方角を見る。
ジョージ・オーウェルは、『動物農場』の中で、独裁者を豚に、為政者の言葉をスピーカーのように繰り返す市民を羊に、自分勝手に法律を書き換える豚を見て見ぬふりをする者を、馬になぞらえた。
国の在り方に失望しながら、唯々諾々と従い、行動することのない怠け者。
そんな自分に火をつけたのが、あの日、たった一人で東亜にやってきた少年だった。
豚ではなく、羊でもなく、無論、馬でもない。
久しく出会えなかった人間に、会えたと思った。
しかし、それは間違いだったようだ。
「よう爺さん、世界の前に、風邪でアンタの寿命が終わるぜ」
声をかけてきたサブを始めとして、異世界の住人からの支配を受け付けなかった人間が、多くいる。
「まだ死んでたまるものか」
克也は、そう言って不敵に笑った。東の空は、白み始めていた。祖国のある西は、まだ暗い。
「ようやく、希望の持てる明日が見え始めたところなんだ」
※※
氷月は、“モブ化”しない人間の条件を、強烈な自我の持ち主であると推測している。
アスリート。
アーティスト。
団体のリーダー。
巨大な組織のボス。
では、そうでない人々は、愚かで怠惰な人間なのか。
否。
仮に、この世すべてが徹底的な自我に支えられた人物ばかりであったら、社会は摩擦であふれ、疲弊してしまうだろう。
我の強さは、
“適当”に生きることを“
だからこそ、モブレイヴは止める。
自分が本当に大切なこと以外では、それこそ“モブ”のように振る舞える、そんな『緩い世界』こそが、守るべきものだ。
時刻は明け方。世界は暗い。
孤独の世界から来た客人は、既に東アジアからユーラシア大陸までをその支配下に収めようとしていた。
そして、今。
「ぎゃああああああああ!!!!」
絶叫を上げる守恒。東亜の空が、山が、海が見下ろせる。現在、氷月と共に決死のスカイダイビングの真っ最中である。
独裁者の神通力も無力だった。空港に降り立てないことが分かった二人は、即断即決でその身を空に投げ出した。
―――飛行機内での会話。
「先輩のスイッチは、幸福感です」
「幸福?」
「正確には、もうサッカーなんてやめてもいいんだと思ったときに、“モブレイヴ”は発動していたみたいです」
咲久は、ある種、自分に罰を与え続けることで心の平静を保っていた。
強烈な自己否定。
自分は幸せになってはいけない。
この人生は自分の為にあってはならない。
常に家族の為、仲間の為、友の為。
真緒が自分を庇って大怪我を負ったことで、その自己嫌悪は頂点に達した。
自分のすべてを否定する力が、自分以外のすべてを否定する力へと転じた。
「苦しむことでしか表現できない人生か。哀しい在り方だな」
氷月は言って、しかし、こう付け加えた。
「だが、君と会って、彼女は素直になれたようだ」
守恒とのデート中。
守恒が間に立ってなされた家族の和解直後。
守恒が「自分のやりたいようにやってほしい」と宣言して歌った日亜交流会。
モブレイヴの発動は、ほとんどが守恒がらみだった。
「月並みな言い方だが、“責任”は、取るべきだな」
「あははっ。そうですね―――うん」
氷月の言葉を受け、守恒は言った。
「幸せを、受け入れさせてあげますよ」
※※
―――もう、どうでもいい。
真緒が血を流して倒れているのを見た瞬間、決定的なものが切れた。
ずっと我慢して、頑張ってきた。
けれど、結局、誰かを傷つけてしまう。
なら、もう自分なんて、いらない。
(いらないなら、わたしがもらう)
そんな声が内側から聞こえた気がした。
だから、明け渡した。
そうしたら、もっと酷いことになっていった。
僅かに残った意識が、この国の、この場所に向かわせた。
―――もう、嫌だ。
「……ううん。違う」
坂ノ上咲久。いい加減、素直になりなさい。
また
「守恒くん……」
口が、動いた。
「助けて」
東亜サッカースタジアム。そのピッチの中央で小さく呟いた。
「せんぱあああああぁぁぁぁい!!!!」
上空から、パラシュートと、大きな声が舞い降りた。
※※
「何が起こるか分からない」
「やりますよ」
「それが、“モブ嫌い”の矜持だからかい?」
「はい」
「―――では、パーティを始めようか」
降り立ったスタジアムのピッチは、既に東亜人のモブで埋め尽くされていた。
「俺が何とか突破口を開く。任せたぞ、墨守恒!」
襲い掛かる数百、数千の人間。
超人的な氷月でも不可能な人数。
だが、できるできないの問題ではない。
―――聞こえた。確かに。「助けて」と。
ずっと聞けなかった、心の奥底から浮き上がった、か細い叫び。
「助けます」
息を吸う。腹の底。横隔膜。
「先輩! 坂ノ上先輩ッ!!」
喉も裂けよと叫ぶ。
いい気になるな、墨守恒。
出張ったところで。
歌ったところで。
たかが知れてる。
認めろ。
しかし諦めるな。
モブにだけはなるな。
「咲久ッ!!!!」
「……え?」
一瞬、“モブ”たちの動きが止まった。
届いた。
全力で走りながら、ずっと言えなかったことを叫ぶ。
「好きだッ!!!!」
咲久の、大きな、でも本当は繊細な身体を抱き締めた。その耳元に低く声を流し込む。
「好きです。やっと言えました。すみません、先輩」
「守恒、くん」
「あなたが好きです。サッカーも、バロンドールも関係ないです。誰よりも、綺麗だって、初めて会った時から思ってました」
モブがどうだなんてことでもない。
「でも……でも、私は……」
あれは―――
「あなたを好きだって言わせてください」
ただの、恋だった。
「自分なんか嫌いだなんて、言わないでください」
咲久の涙腺が決壊した。
「ありがとう、ありがとう、守恒くん」
「自分なんか、なんて、なしですよ」
「うん……っ。うん……! 守恒くん、私も……」
「それはもう知ってます」
「へ?」
「気付かれてないとでも思ってたんですか?」
「あぅ……、でも、私からも言わせてよぉ」
「結構です。代わりに―――」
にべもない守恒は、こう続けた。
「先輩に憑りついた“お化け”、僕にください」
「ほえ?―――んっ」
変な声を上げる口を、守恒は唇で塞ぐ。
突然の口づけに、身体を強張らせたのも一瞬。咲久はすぐに力を抜き、守恒に身を委ねた。
「……はぁ」
たっぷり数秒。言葉よりも雄弁に想いを伝え合い、熱い吐息を互いの顔にかけ合う。
「これで……いいの?」
「さぁ?」
「へ?」
「方法なんて分かりませんよ。でも、こういうのは粘膜接触だろうと思って」
「……したかっただけでしょ」
「はい」
「……私の初めてを奪ったご感想は?」
「背伸びがちょっと辛かったです」
「気にしてることを言いよって」
「大きい先輩が大好きです」
「うっ……」
今さら真っ赤になる咲久。そんな可愛らしい少女に、守恒は言った。
「先輩、ごめんなさい。ちょっとの間、さよならかもしれません」
※※
その日、世界を騒がせた集団パニック現象“モブレイヴ”は、終了した。
そして、墨守恒は、この世界から、消失した。
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