雨の人、あるいは雨の人たち

進藤翼

第1話

 雨の日には必ず現れた。私は雨の人と呼んでいる。実際それは疑いようもなく人だ。十人見たら十人が人だと認識するだろう。でも人じゃない。かといってお化けとか幽霊とか、そういう類のものでもない。私が思うに彼らは単に姿があるだけの存在だ。立体映像のような。

 私が初めて雨の人を見たのは、実のところ覚えていない。だって彼らはあまりにも自然にそこにいる。仮に私以外の人に見えたとして、その判別をするのは難しいように思う。人と、雨の人を分ける境界はとても曖昧だ。

 一度に現れる雨の人は一人だけ。そして同じ人は二度と現れない。

 あるときは杖をついた白く長いひげを蓄えたおじいさん(ケンタッキーの人みたいな)、あるときはランドセルを背負った前歯の抜けた小学生(かわいい)、あるときは私と同じくらいの大学生の子(私よりすげえきれいで、特に髪の毛がつるつるだった。うらやましい)、あるときは黒い服をまとったホスト風の男性(でもあまりかっこよくはない)、あるときは作業着を着た市役所に勤めているらしき男性(ちょっと疲れた感じの顔)、就職活動中なのか地味な格好をした女性(来年も私はこうなると思うといやだ)、派手な髪の毛をした恰幅のいいおばあさん(声がでかそう)、ユニフォーム姿の学生(サッカー部)、細身のジーンズにギターケースを手に持つお姉さん(マジかっこいい)、筋肉の溢れる短髪の外人さん(私は筋肉に弱い。つまり最高)、ひげと髪の毛が伸びまくった不衛生な男性(たまにはこういう人もいる)、つまらそうな表情でスマートフォンをいじる女子高生(遅刻している友達を待っているとかそんな感じかな)。

 そこに法則性はない。老若男女問わず、彼らはいつも突然に出現する。それは私が一人でいるときに限る。

 昨日は二十代後半くらいのパンツスーツを着た女性だった。私はバイト帰りで、時間は夜の十一時。カバンに入れておいたつもりでいた折り畳み傘がなくて、非番の人の置き傘を勝手に借りていた(明日ちゃんと返す)。どこにでもあるようなビニール傘。私は傘にこだわるタイプだからビニール傘を使うのは不本意だった。置き傘の持ち主の子に言わせると、たまにしか使わないものにお金は出したくないということらしい。私は逆の主張だ。たまにしか使わないからこそ良いものを使う。それに、そうすると盗まれにくいし。とはいえ濡れたくはないから自分の主張を引っ込めてこうして向こう側が見える傘を差している。我ながらなんて身勝手なやつかと思った。でも誰にも迷惑をかけていないから別にいいやとも思った。

 交差点で信号待ちをする。濡れた地面は反射する赤の色を滲ませていた。大通りから一本外れるだけで、あっという間に人気がなくなる。霧雨というには少し雨量が多い。六月だというのに肌寒さがあった。私の前をタクシーが横切っていく。アスファルトの水がざあっと跳ねる。タクシーの背中をぼんやりと眺めて、ふと気づけば、隣にその女性が立っていた。タクシーが通る前にはいなかった。

 雨の人は傘を差さない。だけども濡れない。雨だけではなく、彼らの身体にはなんであれ触れることができない。そういう点では、幽霊っぽさがある。

彼女は私より数センチ背が高かった。片手に会社用のものかカバンをさげている。イヤホンをして、小さく首を振って口をパクパクしているということは歌っているのかもしれない。かもしれないというのは、雨の人の声は聞こえないからだ。肩にかからないくらいの髪の毛は暗めの茶髪で、細めの眉は気が強そうに見える。一重だけど目が大きい。

 雨の人は私を認知しない。それをいいことに私は彼らを一方的に見ていた。他人の顔を観察するなんてあまり良くないことだとはわかっていても見てしまう。だから私はこれまで出会ってきた雨の人たちの顔を鮮明に思い出すことができる。

 どうやら雨の人にはそれぞれ目的があるらしい。その多くが私たちと同じように歩いている。ゾンビみたいにふらふらと彷徨うことなく、明確な意思を持って歩いている(ように見える)。あるいは電話で誰かと話している(前述したように声は聞こえない)。今の彼女と同じように信号待ちをしていることもあれば、急いでいるのか猛ダッシュで駆けていくこともある。

 青に変わった。それに気づいた私が足を踏み出したとき、すでに彼女は消えていた。雨の人は数十秒から数分で姿を消す。雨に隠れるように、夜の闇に染み込んでいくように。

 私は何事もなかったかのように横断歩道を渡る。実際、なにも起きてはいない。私以外に彼らは見えないのだから。


 燕が低く空を飛ぶだとか猫が顔を洗うだとか、雨の降る気配を動物たちは敏感に感じ取る。私たち人間の場合は頭が痛くなったり(わかる)古い傷が痛くなったりする(わからない)。私は髪の毛がえらいことになる。もさっと膨らんでしまう。最悪。そのせいで講義をサボったこともある。ごめん。でもそういう経験をしたのは私だけじゃない。そうでしょう?

 動物ほど正確ではないにしろ、私にもある程度雨を予測できる力があった。それはたとえば雲の様子からその後の天気の予想するような気象学的なものでは全然なかった。ただ、私の身体のどこかが感じ取っている。しかしこれがなかなか正確で、我ながら誇らしい。

 私はいつ雨が降り出してもいいように、普段使うカバンの全てに折り畳み傘を忍ばせている。どれもこれも選びに選んだ傘だ。晴れているのに差したくなるほどかわいらしい。今の一番のお気に入りはいくつもの恐竜の絵が描かれている恐竜傘。これは行きつけのお店「クイール」で買ったものだ。現物主義者の私はお店での出会いを重視している。

 雨の日になると、人たちは苛立ち気味になる。濡れるし片手は塞がるしいいことなんかないというような具合だ。でも私にとってはいい日だ。雨の人に会えるから。私は雨の人がすきだった。一度会ったら二度と会えない幻のような存在。どうして私に見えるのかわからないけれど、私に見えるのならば、彼らのことをきちんと覚えていてあげたかった。私が忘れたら、彼らのことを知る人は誰もいない。だからこそ、失礼なほどまじまじと顔を観察する。

 仏壇のおばばに挨拶をしてから、冷蔵庫になにかあったかしらんと扉を開けた。見事になにもなかった。洗い場の下の棚を見てみるとお茶漬けの素を発見したので、これを朝ごはんとすることに決めた。梅茶漬けだ。炊飯器には昨日炊いたお米が残っているから、私は早速お湯を沸かすため電気ケトルの電源をオンにする。

 六月に突入するといよいよ気温が上がってきた。都心では真夏日を観測することも多くなり、そのことを大げさに報道している。梅雨が始まったらしいけれど、その割には湿度が低く、雨も少なかった。おかげで過ごしやすい日が続いている。昨夜の雨から一転、今日は快晴だった。

 縁側からつっかけを履いて庭に出る。ミニトマトの成長の具合を見るのが日課だ。家庭菜園というやつ。実がなるまではまだまだだろう。昨日と変化なし。ま、そんなもんだ。アジサイの葉についたいくつもの雫が輝いている。雨上がりの澄んだ空気。まだ気温が上がる前の、気持ちのいい時間だった。

 この庭も小さな畑もおばばが手入れをしていた。二年前に亡くなってからは私が引き継いでいる。

 小さいころに両親が離婚して、私はおばばのお家にやってきた。両親は子供というものに関心がなかったらしく、離婚した際に母親がそのまま私のことを預けにきたそうだ。その後一度たりとも連絡がない。私は両親の顔を思い出すことができなかったけど、思い出す必要もなかった。

 築何年なのかわからない古ぼけたお家。周囲には新築の建物が次々と建てられていく中、ここだけ取り残されたようだった。でも私はおばばとの生活が染みついたこのお家がすきだった。ほかのどこにもない安心感に満たされている。

 梅茶漬けに氷を流し込み、冷やし梅茶漬けにしたところで、それを口にかっこむ。梅のほのかな酸味は朝と抜群の相性だった。ぬか床から取り出したきゅうりの漬物もぽりぽりといっしょに食べて、洗い物を済ます。

 パパっと着替えて、おばばに行ってきますと告げてから私は大学に向かった。自転車で二十分くらいの道のり。涼しい風を切っていく。


 講義が終わり食堂に向かうと、六人掛けの席にエマとギィがいた。

「よー」とギィが気だるげに言うから、「よー」と返す。

「ちょうどよかったシカ、今日って雨降る?」

 スマートフォンを操作しながらエマがそう聞いてきた。私は腰を下ろしながら、「降らないと思う」と答えた。

「やった。じゃああの靴はいてこ」

 二人とも高校からの友人だった。エマは自分磨きに忙しい。ファッションもメイクも髪型も常にキメにキメている。どんなに疲れていても崩さないその姿勢は、いい男を捕まえることこそ幸福である、という信念からきている。そんな彼女は今日もかわいい。

「なんだっけ、サークルの先輩の、宮武さんだっけ?」

「そう! 内定決まったらしくて、そのお祝いも兼ねてごはん誘ったらオッケーもらっちゃった」

 エマは私という天気予報を大きく信頼している。雨だとお気に入りの靴をはけないから、私に確認したというわけだ。少しでもかわいくいたいという彼女の心がなによりかわいいと私は思う。

 ギィは机に突っ伏している。いつものことだった。彼女は夜遅くまで漫画を描いているせいで、常に慢性的な寝不足だ。

「ギィ、生きてる?」

「死んでる。生き返りたい」

 くぐもった声が聞こえてきた。

「なんか食べたら?」

「今食べたら吐く」

「寝なよ」

「今寝たら起きない」

 それより、とギィは顔を上げた。「読んでくれた?」

 ギィはひとつ作品を描き上げると、まず私とエマにそれを見せる。いいのが描けたという自信作で、これを漫画賞に応募するつもりらしい。

「読んだよ。でも前のほうがよかったなあ」私が感想を述べると、

「私は今回のほうがいいと思った」とエマが続けた。

 願い事をひとつ叶えられる能力を授かった主人公が事故で亡くなった恋人との再会を望むという話だ。主人公は幸せな時間を過ごすが、願いを叶えられるのは二か月間だけ。提示された道は二つ。恋人と再び別れ現実に帰るか、あるいは現世を捨て、自分もそちら側に行くかのどちらか。

 前回読んだとき、主人公は前者を選択し、新たな人と出会ったところで話は終わった。今回はそのオチの部分を変え、後者を選ぶという内容になっていた。

「最後にぽっと出てきた人なんかより、元々の恋人と幸せになってもらいたいじゃん。文字通り死んでも、すきな人といっしょにいられるほうがいい」

「私は過去に縛られないで新しい人生を歩こうとする主人公がすき」

 ギィはエンディングをどちらにするかで決めあぐねていて、私たちの意見を聞きたがっていた。

「どちらの終わり方も説得力があったから、読む人の好み次第だとも思う」

 ギィは私の意見にごもっともというように頷いた。

「でもエマが私と意見割れたのは意外。だってエマ過去の男に全然興味ないのに!」

「あのねえ、現実とフィクションは違うわけ。本心では一人の男と添い遂げたいと思ってんだから私は」

「うそっぽい」

 ギィがにやけながら言う。

「ホントだってば」

 ひとしきり笑ったあと、ギィは「締め切りまで時間あるから、もうちょい悩んでみる」と言った。それがいい、と思った。



 空に浮かぶ雲がゆっくりと動いていく。私のお家を越えて、駅を越えて、背の高いビル群を越えて、隣の県を越えていくだろう。白く輝く月だけが、その行方を追える。月にだけ許された特権だ。

 お風呂を上がって涼んでいた。網戸にした窓から風がはいりこんでくる。髪の毛を乾かすのはあとにする。首に引っ掛けたタオルで髪の毛を撫でる。

 おばばはよくウイスキーを飲んでいた。生前おじじからもらったという高価なグラスに氷をひとつだけ入れて、ゆっくりと飲むのがすきだった。

 灰色交じりの美しい白髪。身体はこぢんまりとしているけど背中はしっかりと伸びていた。左手の薬指には指輪があった。ストラップをつけた老眼鏡をぶら下げていた。いつも食卓のそこの席に座っていた。座って、テレビを見たり、老眼鏡をかけて本を読んだり、私と話したりした。今もその席はおばば用にしてある。必ず私はその向かいに座る。

 廊下の棚には梅酒の漬けてある広口瓶があって(ヒロクチビン、という名前を教えてくれたのもおばばだった)、私はときおりそれを炭酸水で割って飲んでいた。お店で飲むのとは違う、すっぱさと甘さがたまらない。そしてどことなく懐かしい感じもある。

 梅酒は毎年おばばといっしょにつくっていた。だからなのか私一人ではどうしてもつくる気にならなくて、今では減っていくばかりだった。

 溶けた氷がグラスに当たって音が鳴る。間抜けな音。それが消えると、時が止まったかのような錯覚に陥った。この世界で動けるのは私だけで、ほかのものは一切停止してしまっている。見えなくなったあの雲もきっとピタリと止まっている。私あるいは私たちは時間は止まることなく進むものだと思っているけど、それは本当だろうか。たとえば本当に世界が五秒間止まって再び動き出したとしたら、その五秒間をいったい誰が知覚できるんだろう。動いている、止まっている、を私たちは感覚的に捉えているだけで、その実その感覚は曖昧なもののように思える。

 遠くで原付の走り去る音が聞こえた。どうやら時間は止まっていなかった(ひょっとしたら動き出したのかもしれないけど)。バカバカしいことを考えたのは梅酒のせいかもしれない。私はおばばと違ってお酒に強くない。しかし構わずグラスを傾けた。すると氷もいっしょに傾いて、やっぱりまた音を立てた。

 まだ雨の人のことをよく知らない幼い頃、一時期、私は彼らを怖がっていた。いくら説明してもおばばには見えないというその人たちを、当時の私はどう理解したらいいのかわからなかったからだ。

 夏のある日、私はおばばに手を引かれて夕食の食材を買いに近所のスーパーへ行った。お買い物をしている最中に激しい夕立が降ってきて、お会計を終えた私たちは店先で雨の止むのを待っていた。私は夕立のその勢いに圧倒されて夢中で眺めていた。スーパーの入口付近には駐輪場があって、はっと気が付くと、そこに男の子がいた。自転車に跨っている。

 私はぎょっとして、繋いでいたおばばの手を引いた。

「おばば、おばば、あそこ」

 私が指を指したのは、ほかの人にはいくつかの自転車があるだけの駐輪場にしか見えなかっただろう。だけどおばばは私のことを決して疑わなかった。少し身体をかがめて、ささやくように私に尋ねる。

「あそこに、いるかい」

「うん」

 私は顔を寄せてきたおばばに頷いた。おばばもゆっくりと頷いた。そしていつもように、

「どんな人だい」

 と私に尋ねた。

 当時の私がたどたどしく説明するのを、おばばは真剣に聞いてくれた。男の子は制服を着た高校生で、坊主頭、ちょっとニキビがあって、それからカバンを背負っていて、片手にはシューズケースをぶら下げていた。

 おばばは私が雨の人と出会う度に、どんな人か教えてほしいと頼んだ。

「そりゃあきっと野球をやっているんだね。部活動の終わりで、きっと友達と寄り道でもしているんだよ。どこにだっているさ」

 私の説明からおばばは、その人を、その周辺を想像して私に話した。それを繰り返していくたびに、私は徐々に雨の人に対する恐怖をなくしていった。それは夕立の勢いがだんだんと落ち着いていくのと似ているかもしれない。

 やがてその男の子は、自転車とともに雨の向こうに消えていった。

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雨の人、あるいは雨の人たち 進藤翼 @shin-D-ou

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