第22話 猫の声
*
また新しい太陽が昇る。今年も蝉達は夏日を讃頌するように万歳斉唱をしている。私は居間の作業用に改築した、木製のカウンターテーブルで書物をしていた。すると、蝉に負けず劣らずの猛省の声が背中に響いた。
「
「だっておコメが!遊んでくれないから!」
全く作業に集中出来ん。思わず筆を持つ手を止めて、呆れた顔をして振り返った。見れば、両腰に手を当てた月夜さんの下で、玩具を片手に小さく縮こまる陽三の姿があった。そしてそのすぐ傍ではおコメが悠々と自身の前足を舐めて毛づくろいをしている。
「おい。おコメにだって自分の意志があるんだぞ。いくら猫だからって、猫の意志を無視したら猫神様に怒られるぞ」
私が叱ると陽三はぱちくりと母親譲りの大きな瞳を二、三瞬きさせて。
「猫神様ってなに?」
「猫神様は猫の神様の事。いいか?猫神様は猫に不思議な力を与える凄い神様なんだ」
「ふーん」陽三はおコメの方を向く。
「心の耳できちんと猫の声を聞いてごらん。そうすればお前にも猫の言葉が聞こえるかもしれないよ」
「……心の声で?」
おコメはみゃーと鳴いて鼻先をつんと、陽三の小さな足元にくっつけた。陽三はしゃがんで、おコメの親譲りのべっ甲飴のような両目を見つめて、うんっうんっと頷いた。それから思いついたように急く急く歩くと、散らかした玩具を自ら玩具箱へと仕舞いだした。その光景を見て、月夜さんはくすりと肩を小さく揺らした。
「陽三、先生の血が入ってるのかな。なんかパンちゃんと陽二さんを思い出すなあ」
「おコメはパンの子だから、パンに性格も似てるんだろう」
「貴方にはもう猫の声は聞こえないの?私はもう聞こえなくなっちゃったけど」
そういえば、いつの間にやら私は猫の声が聞こえなくなった。いや、元からパンの声しか聞こえなかったのだが。パンの死を看取った時、最期に鳴いた声は猫の鳴き声だった。それでもか細く消えるような鳴き声は、何を伝えようとしているのか私には伝わった。アサヒ、ありがとう。お前はきっとそう言いたかったんだ。
私が作業を再開しようと机に向き直すと、後ろから月夜さんがやってきて一枚の絵を差し出してきた。
「ねえ、ちゃんとパンちゃんに似てる?」
黒のインクで描いたパンの絵は、まるで踊っているように躍動感があり、瞳は生き生きと人間味を帯びている。
「うん、そっくりだ。生きて帰ってきたみたいだ」
私は例の出版社にどうしてもこの作品を完筆させて出版したいと頼み込んだ。現実味の帯びない子供じみた、余りにありふれた物語で売れる見込みは無いだろうと、見切られたが私は床に頭を擦りつけてお願いした。旭田陽一の作家人生を終わらせてでもこれを完筆させたかったのだ。
今、私は月夜さんと共同で作品を作っている。私の物語に月夜さんが挿絵を描く。月夜さんの絵は全て無彩色で描かれていたが、不思議と色がさまざまと想像ができた。
「天国でパンちゃんは喜んでくれるかな」
「あいつなら、吾輩はもっと格好よく気品に溢れているにゃ、とか何とか宣いそうだが。私は似ていると思う」
「そ、良かった。先生の大事な作品に今度は私が色を付けられるといいな」
月夜さんは穏やかに微笑んだ。私もそれにつられて、頬が解けた。
筆を机に置いて伸びをする。書き終えた文字の羅列に深く息を吐ききる。私は縁側に足を向け、昼間の白い陽射しを仰いだ。あいつは相変わらず堂々と私を嘲り笑っている。
今でも幸福の形など到底分からぬ。私は自分の中の憎しみに立ち向かう時、大嫌いな太陽を眺めてみる。あいつも自分を燃やして生きているのだから、私も自分を燃やそうと。
他人が自分の孤独を癒やしてくれるとは思わない。私は常に孤独だ。これから先も一生。灰になる頃には一人で骨となって棺桶に入るのだ。それでも心の隅に取っ掛かりがあるのならば、一秒また一秒と生き延びよう。そう思う。人間は皆孤独を感じる者同士なのだ。太陽や月ですら。故に臆する事はない。全ては儚い一筋の糸で繋がっており、容易く千切れていく。そしてまれに深く絡まり強固として結ばれる。目を凝らして見るも良し、見ないのもよし。
あなたが真に幸福を感じたいと望むのなら、猫に耳を傾けてみる事だ。そうすれば不思議な猫があなたにも語りかけてくるかもしれない。家の庭か、はたまた近所の歩道か、それとも。
おわり
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