三本目の煙草

@pieta

第1話三本目の煙草

私が三番目に付き合った女は、怠惰というその二文字を体現しているかのような女だった。

ある日は一日中テレビの録画を見続け、またある日にはyoutubeで違法アップロードをされた映画を見続けた。一度使ったものを元に戻すことが出来ず、物が無くなる日が何度もあった。浮気は数知れず、またそれを隠すそぶりもなく、ある時には唾液10mlをネットで知り合った男性に三千円で売るという商売をしていた。そして挙げ句の果てには、私との行為後の使用済みコンドームを風船のように膨らまして遊ぶという下品ぶりまで見せた。

元来軽度ではあるが潔癖症気味だった私はある時突然、汚れたレンズが急に拭き取られ、元に見ていた景色が再来したかのように正常な感覚を取り戻し、彼女に別れを告げた。

そんな碌でもない女だったが、容姿だけは群を抜いて美しかった。ぱっちりと開いた二重の目に、紅色の潤った唇、芯がきちんと通った鼻筋、そして彼女という存在そのものを形容するかのように彼女を包み込んでいる艶やかな黒髪。その姿はテレビに出るトップモデルに引けを取らず、街を歩けば私が隣にいるのにも関わらず、何人もの男が声を掛けて来た。 しかし、その度に満更でもない表情を浮かべる彼女を見て、私は心の中で何度も舌を鳴らしたのを覚えている。

私が彼女に別れを告げた日、彼女は「いいよ」とも「嫌」とも言わず、荷物をまとめて出て行った。その翌日、彼女のLINEのアカウントは削除されており、電話番号やメールアドレスを知らない私は彼女と連絡を取る術を完全に失った。そして今になっても、風呂場の排水口に詰まった彼女の黒髪を、何故か私は掃除することが出来なかった。 自分から振った相手を忘れられない、それはそれで私も自分勝手なものだと少しは思ったりした。


深夜の二時、煙草の火が夜の暗闇に浮き出す、そんな夜が本来の静けさを帯び始めた頃、インターホンの音が私の鼓膜を揺らした。深夜に鳴るインターホンの音と携帯電話の着信音には一本の心霊番組と同様の種の恐怖を私にもたらす。家賃は間に合っているし、騒音を立ててはいないし、この時間に引っ越しの挨拶など来るわけもなく、誰が何の要件で訪れて来ているのか見当がつかなかった。

妙な不安感を胸に抱え、煙草を咥えたまま私は玄関のドアを開けた。そこに立っていたのは、栗色の髪にパーマを当てた小柄な女性だった。

「こんばんは。指名していただいたはるかです」

その時吹いた風が、栗色の彼女の髪を揺らした。

「指名?何のことですか?」

私の口から出た煙草のケムリに彼女は顔を顰めた。

「先程お電話で予約していただいた、朝倉風俗店のはるかですが」

彼女は怪訝な表情を浮かべ、私を見ながら言った。どちらかと言えば、私がそんな顔を浮かべたいと思った。なんせ、そんなものを頼んだ覚えは私の人生で一度もないからだ。

おそらく、誰かが悪戯で言った住所が偶然私のところだったのか、それとも彼女が単純に行く家を間違えたのかのどちらかなのだろう。

「多分、それ間違えていますよ。僕はそんな電話はしてません」

すると、彼女は肩に掛けていたシャネルのバッグからスマホを取り出し、せっせとそれを弄り始めた。

「あ、ほんとだ。すいません、一個下の階の方でした」

そう言うと、彼女は二度頭を下げ急いで階段へと歩いて行った。

風に揺られた彼女の髪からしたブルージャスミンの香りが、やけに鼻についた。

ドアを閉めようとした時、満月が雲の隙間から見えて私は外に出た。満月を見るのはあの碌でもない女とうす汚い居酒屋で出会った日以来だった。

煙草を吸いながら、私は今までに関係を持った女のことを思い出していた。舌ピアスを開けた女に、唾液を売る女、ホス狂いの女、ペットに自分の性器を舐めさせる女、様々な女がいた。

今思えば、くだらない恋愛ばかりで、何一つまともな恋愛をやってこなかった。しかし、それが時間の無駄と言われれば、それはそれで何か違うように思える。自分を構成する大事なピースの一つに彼女らの存在があるような気がしているのだ。

そんなことを頭の中で延々と逡巡させていると、下の部屋のドアが開く音が聞こえた。もう一試合分の時間が終わったのかと、それが早いのか遅いのか私には分からなかった。ただ、私の部屋の下で淫らな行為が行われていたという事実だけをその音が私に知らせた。

暫くすると、「横いいですか?」という声が階段の方から聞こえてきた。

そこには、先程の栗色の髪をした彼女がいた。

「どうしたの?」

「いや、煙草の匂いがしたもので、まだいるのかと思って。火、いいですか?」

彼女はバッグの中から自分の煙草を一本取り出し、それを口に咥えた。

「へぇ、吸うんだ」

「どうしてですか?」

「いや、最初会った時煙草のケムリに嫌そうな表情してたから」

そう言いながら、私は彼女が咥えているそれの先端に火をつけた。

「私の職業上、煙草を吸っているとそれだけで指名が減っちゃったりするから、吸っていない素ぶりをしている方が何かといいんですよね」

長く溜め込み、盛大に彼女はケムリを吐いた。そのケムリは満月に吸い込まれるかのように、空に高く昇っていった。

「仕事は何やってるんですか?」

彼女は満月を眺めながら言った。

「学生だよ」

「ダウト」

「よく分かったね。教師だよ、隣の町の高校の」

「私、嘘を見抜くのだけは上手いんですよね、唯一の特技です。それより、全くそんな風に見えないですね。反面教師ならもってこいのように見えますけど」

もう一本目を吸い終えた彼女は二本目を口に咥えて、さっきと同じようにその先端を私の方に、クイクイ、とやった。

「君は、なんで風俗なんてやってるの?」

私はさっきと同じように彼女の咥えるそれに火をつけた。

「ただ、どこにも居場所がなかったんですよね。私友達なんていないし才能ないしバカだし雇ってくれる会社なんてなかったんですよ。親とは絶縁状態ですし。それである日路上でスカウトされて始めたんです」

「その仕事終わったらどうすんの?」

「どうしましょうか。お兄さん養ってくれないですか?」

「無茶言うな、教師なんて今のお前の給料の半分くらいしかもらってないぞ」

「それ結構貰ってますよ」

「じゃあ君めちゃめちゃ貰ってんじゃん」

つい笑いが漏れると、それにつられて彼女も笑った。その時、彼女の耳に付ていた深青色のピアスが月の光りを吸い込んでいるように輝き美しく見えた。

満月が雲に隠れ、辺りが暗闇に満ちた。煙草の先の真っ赤な火が、より鮮明に宙に浮かんだ。

「ねえ、もしこのまま地球が真っ暗で、でもあなたにはどうしても会いたい人がいる時、あなたはどうしますか?」

彼女は煙草の先端を地面に押し付けながらそう言った。一つの、宙に浮いていた灯火が消えた。

「別に、そういう時に限って会わなくてもいいんじゃないかな」

「会いたいのに?」

「そう。だから、邂逅っていう言葉のように、たとえ相手が既知の存在であっても運命的に好きな人、大切な人とは会うべきなんだ。会いたいから会いに行くのではなくて、いつか必然的に会う時を待っているのが必要だと思うんだ」

「私、馬鹿だから何言ってるのか全く分かんないです」

空に覆われていた満月が姿を見せ、暗闇の中に何筋もの光を放った。

「まあ、君が将来何も考えていないように、今だって何も考える必要なんてないんだよ。ただ赴くままに運命に従えばいい。友達なんていなくてもいい。どうせ努力は報われないんだ。君がこれからする挫折なんてとっくに他の人は経験している。眠れない夜は君だけのものじゃない。失恋なんて何億回もこの星じゃ起こっている。でも、人は生きていく。それは悲しみや苦しみを乗り越えたからじゃない。背負っていかなければならないからだ。優等生ぶって生きていくなんて人生つまらないだろう。つまり、全て終わるんだ。誰も、何もかも全て終わる。だから、君は君のままで今を楽しめばいいんだよ。もがくなんて時間の無駄じゃないか」

私の煙草の火が、下の階へと落ちていった。

「やっぱり、お兄さん反面教師に向いてますね」

そう言って、彼女は三本目の煙草を吸い始めた。

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