聖女最後のお役目です 1
厚みのある薄灰色の殻に、小指の先ほどのヒビが入っている。
それを見た瞬間に、頭の中が真っ白になった。
「おい」
「リィエ、どうしたの?」
「たっ、た、まご、が……」
そばにいたダレンさんとジョディさんが声をかけてくれるけれど、動揺が酷くて口が回らない。
孵るところなのか、何かのアクシデントで傷が入ったのか。
自分ではそれすら判別できないうえに、「殻にヒビが入っている」その一言だってどうしてか言葉にならず泣けてくる。
「なにがあった?」
「っ、もしかして……!」
ルドルフさんたちの声も聞こえてはいるけれど、卵を抱く手は貼り付いたように固まって動かせず、足の力まで抜けてへたり込んでしまう。
倒れこむ私を支えようとしてくれたらしいダレンさんの白い手袋が、バチっと音を立てて弾かれたのが目の端に映ったが、それもどこか画面越しのように遠く感じた。
床に落ちた体はそのまま、まるで卵を温める母鳥のように勝手に丸くなる。
もう視線すら、自分では動かせない。
「……あ、」
ピシ、ピシと殻に入ったヒビが少しずつ長くなるにつれて、そこから光の筋が洩れてきた。
周囲の音と気配が遠くなって、ただ卵が、中の『魔王』が、無事でいてほしいと、その思いだけが頭を占める。
――ィエ……!
最後に聞こえた私を呼ぶ声は、誰のだっただろう。
眠りに落ちるように意識が虚ろになって、瞑った目の向こうに光が溢れた。
……ぷく、ぷくと泡が体の周りに浮かぶ感覚。
気がついたら、水の中だった。
意識が戻ると同時にありえない状況に置かれていたことに慌てるが、水の中といっても息もできるし濡れてもいない。リアルに水中ではないようだ。
不思議なはずなのに、そういうものだと納得している自分がいる。
頭上から光が差す透明な青い水底は、ずっと一緒にいた卵の気配で満ちていた。
ふと周囲を見渡すと、倒れている私の少し先に、アラクネの布が丸まって落ちているのが目に入る。
――たまご!
起き上がって駆け寄ろうとしたが、膝が立たずに転んでしまう。
四つん這いのままどうにか近づくと、布の中には割れた殻が残されているだけだった。
「……え……?」
ドクン、と心臓が音を立てる。
頭を殴られたようなショックで目の前を暗くしながら、震える手を伸ばした。
距離感がわからずに、不用意に触れた殻の尖った先で、指先に痛みが走る。
「痛っ……本物だ……あ、はは、こんなに手って震えるんだ……」
ここにあるのは殻だけ。では、
この数ヶ月、ずっと抱いていた場所がすっかり空っぽになって、心許無く薄ら寒い。
布ごと殻を持ち上げて抱きしめた時、ごう、と激しい音を立てて水の風が動いた。
「わっ!」
体を丸めて数秒ののち。
風が収まったのを感じて、閉じた目を恐る恐る開いて顔を上げる。
先ほどまでは何もなかった目の前に、淡く光る青い鱗で全身を覆われた巨大な竜と、こちらに半身を向けて立つ銀髪の女性がいた。
彼女の腕の中には、布でゆるく包まれた小さな赤ん坊が。
初めて目にした竜や知らない女性よりも、その小さな子から目が離せない。
――あの子だ。あの子が卵の、魔王だ。
生まれたてというよりは、少し落ち着いた頃の赤ちゃん。
ふくふくとした握りこぶしを頭の上に掲げ、唇を少し開いて気持ちよさそうに眠っている。
ぱやぱやとした髪色は白とも銀ともつかない淡色で、上気した頬がいかにも健康そう……うわあ、かわいい!
え、ちょっと、なんであんなにかわいいの!?
さっきとは反対の意味で心臓が壊れそうだ。
赤ん坊を抱いていた女性が、目を見開いて固まっている私を振り返る。
と、涙で潤む濃青の瞳をいかにも嬉しそうに微笑ませた。
――この人は。
『……ありがとう、リィエ』
「えっ、あの、」
『あなたのおかげで、この子は無事に生まれることができました』
耳にではなく、直接頭の中に響く声。
鈴のように優しげで儚く、甘い声は目の前の女性からに違いない。
――この人が、二百年前に竜の花嫁になったという、かつての公爵令嬢なのだろう。
眠る赤ん坊を宝物のように抱いて、ふわりと頬ずりをする。二人を守るように足元に抱く青竜は、それを見て満足そうに目を細めた。
その情景は、幸せ溢れる一幅の絵のようで、じんと心が熱くなる。
あ、わかった。
こういう時に「尊い」と言えばいいのか。はあ、尊い……。
『いろいろあったようだけれど、最後までこの子の聖女でいてくれたことに、心から感謝します』
「あっ、いえ、そんな」
『こちらに、その殻をくださる?』
言われて、彼女たちのほうへと近寄る。
一歩ごとにますますよく見えてくる赤ちゃんに、なんだかもう振り切れてはちきれそうだ。何がって、私の感情メーターと心臓が。
どうぞ、と差し出すと、白魚のような指が殻をつまみ、お腹の上あたりへと運ぶ。
灰色の欠片が吸い込まれるように消えていくと同時に、赤ちゃんの体がすぅと大きくなった。
「!!」
『そう、いい子ね』
驚く私に、ふふ、と微笑んで、女性は赤ちゃんに卵の殻を次々と与えていく。
――ああ、これが「魔王は生まれてすぐに成体になる」っていうことなんだ。
きっと全部の殻を与え終わる頃には、立派な魔王になるのだろう。この小さな体は今だけなんだ。
こんなに愛らしい姿が、ごく短期間限定なんてもったいない気がするけれど、理由と必要性があるのだろうな。せめて目に焼き付けておこう。ああ、写真が撮れれば……!
小さな欠片から始めて、三分の一くらいがなくなった頃には、ほやほやの乳児だった子は保育園児くらいになっていた。
横抱きから縦抱っこに体勢を変えて、また殻へと伸ばそうとした女性の手がぴたりと止まる。長い睫毛でぱちぱちと何度か瞬きをすると、困ったように赤ちゃんと竜を見比べた。
『……まあ、そうなの。あなた、この子がね』
『――、――――』
おっと、竜の声は私には言語化できないみたい。
残りの殻を持ったまま待つ私の耳を、海鳴りのようなゴゴ、と低く響く音が過ぎていく。
女性と竜はしばらくそのまま小声で話していたが、やがて大事そうに両腕で赤ちゃんを抱きしめた。
そして、首を下げた竜の顔にも赤ちゃんを触れさせると、女性は私に向き直ったのだった。
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