言、十七。
それは演技ではない焦りであった。
本当に予想外のことなのか、柵に手までついている。
もしや乗り越えるのではないかと兵士が剣の柄に手をかけたので、ジンデル卿は慌てて柵から手を離したものの、出来る限り身を乗り出したまま陛下と殿下の顔を交互に見た。
「リーニアス、それを皆に見せて差し上げなさい」
「畏まりました」
女王陛下の言葉に、怒り冷めやらぬといった声で殿下が頷き、持っていた書類の上下を両手で持って謁見の間にいる貴族達からもよく見えるように掲げてみせた。
離れているため文字は読み取れないが一番下に独特な形の判が押されているのは分かる。
書類を見たジンデル卿の顔が瞬時に青くなった。
「なっ?! その
その言葉にざわりと一際大きく貴族達がざわめいた。
「ええ、これは貴方の家紋の印です。そして此処にある書類には『
女王陛下は声に変化はないはずなのに背筋がヒンヤリとする。
とても静かで落ち着いた口調、艶のある柔らかな女性の声が恐ろしく聞こえた。
それを向けられたジンデル卿はこの比ではないだろう。
「そんなっ、いえ、私はそのような書類など知りません!!」
「それでは何故、領主である貴方しか持つことを許されず、貴方にしか押せないはずの印がこの書類に押されているのでしょう。まさか王家より賜った印を紛失したというのですか?」
「いいえ! そのようなことは天地が返ってもございません!!」
自分のものだと認めてしまったために今更違うとも言えず、紛失や盗難に遭ったなどの逃げ道も塞がれてジンデル卿の顔色が更に悪くなり、遠目に見ても分かるほど脂汗を浮かべている。
ココで仮にその印が偽物だと述べたとしても、実物と比べればすぐに事実はバレてしまう。これが偽造されたものであれば賜ったものを偽造されて気付かなかった責任も追及される。
逆にそれが自分の印で間違いないと断言してしまえば悪事の動かぬ証拠となる。
何より女王陛下から賜ったものを紛失した、もしくは盗難に遭っていたと釈明してもジンデル卿に対する陛下の信頼が失われることとなり、貴族社会での地位や名誉も失墜する。
認めても認めなくても地獄なのは想像に難くない。
必死に言い訳を考えているのかジンデル卿の瞳が忙しなく動く。
何とか言葉を紡ぎ出そうとしても見つからないらしく、酸欠の金魚の如く口を開閉させるばかりだ。
暫しその様子を眺めていた女王陛下が深く息を吐く。
明らかな失望を含んだそれにジンデル卿がビクリと体を竦ませた。
「へ、陛下、私は――……」
ジンデル卿の声を遮るようにパチンと女王陛下の扇子が閉じられる。
「もう結構。王たるもの臣下の言には耳を傾けねばなりませんが、ジンデル卿、私は貴方の弁を信じることが出来ません。才ある者を失うのは国にとっても大きな損失。故に貴方が己が罪を認めるのであれば減刑も
「私も侮られたものですね」そう呟いた陛下の声だけは僅かに怒りが滲んでいた。
女王陛下が全てを知っていたと理解したジンデル卿が柵の中で呆然と立ち尽くす。
「有力貴族を薬物に依存させて己の派閥に取り込もうとしたことも、爵位が上の者達の妻子を薬物に溺れさせて利用していたことも、そうして自身の発言力を高めようとしていたことも。金銭だけには留まらず、人の心や命まで好き勝手に弄ぶ行いは赦せるはずもありません」
美しいエメラルドグリーンの視線が罪人へ鋭く向けられる。
「ハワート・リアム=ティンバーレイク、現ジンデル伯爵家当主。その爵位を剥奪した後、刑場にて法に則した罰と七日間の磔、親兄弟、妻子と共に公開処刑。親兄弟と妻子は斬首、罪人は火刑に処します。没収した全財産は罪人が広めた薬物にて苦しむ人々への救済へ当てるとしましょう」
その声は有無を言わせぬ強いものだった。
貴族の処刑は与えられた毒を服用することで死を迎える。それは苦しみの少ない毒で行われ、自死という形になるため家の体面や貴族としての矜持が守られるのだ。
しかし公開処刑は違う。貴族という特権階級であった者がその地位を剥奪されるだけでなく、自身よりも身分の低い平民達の娯楽の一種として見物されながら処刑人――墓守や処刑人といった人の死に関わる職業は人々から差別を受けている――の手によって殺される屈辱的な死だ。
中でも車輪刑や火刑は処刑の中でも苦痛を伴う方法だ。
それも親兄弟と家族も処刑となれば、先にそちらの刑が執行される。
親族の死を目の当たりにして最後に自身も処刑とは精神的にも相当な罰となるだろう。
「ああ、どうかお慈悲を!! し、真実を申し上げます!! だから、どうか……!!」
決定が覆らないと知り、ジンデル卿が柵を掴んで叫ぶ。
「慈悲ならば何度もかけました。私から信頼と慈悲を失わせたのは貴方よ」
「せめて妻子だけでも……!!」
……へえ、自分の命よりも奥さんと子供の助命を乞うとは思わなかったな。
いけ好かない人物ではあるが家族の情には厚いのかもしれない。
けれども女王陛下は冷ややかな眼差しでジンデル卿を一瞥した。
「『
これで話は終わりだと言いたげに扇子が広げられ、女王陛下が口元を隠す。
殿下の「ハワート・リアム=ティンバーレイクの裁判は閉廷とする」と宣言した。
柵から引っ張り出されたジンデル卿は真っ青な顔で「……そんな、そんな……」と呟いていたが、全て自業自得なので
罪人が引っ立てられると女王陛下が立ち上がり、貴族が礼を取る。
ゆっくりとドレスの擦れる音が遠ざかって消えると顔を上げる。
女王陛下と共にリーニアス殿下も謁見の間を後にしたようだ。
爵位の高い者から順次下がっていく。わたしも伯爵にエスコートされながら謁見の間を出る。その際に大勢の貴族の視線を全身に受けたものの、気付いた伯爵が長身で遮ってくれたこともあり、何とか失態を犯さずに済んだ。
歩き続ける伯爵に促されるまま王宮の廊下を暫く進むと見覚えのある場所へ出る。
そこは以前にも一度訪れた女王陛下の私室だった。
分厚い木製の扉は豪奢で、美しく、相変わらず左右を衛兵が固めている。多分同じ顔ぶれだ。今よりもずっと緊張していたのでハッキリと顔を見ておらず、髪の色で判断するしかないが、確かあの日も同じ色彩の人達が扉を守っていたと思う。
伯爵が自身の名を告げると話が通っていたのか衛兵の一人が無言で扉を開けた。
中に入ると、やはり前と同じく侍女が出迎えた。
違うのはその部屋に殿下とチャリスさんがいるということか。
「やあ、お疲れ様」
ソファーに座った殿下が紅茶片手にひょいと空いた方の手を上げて気楽に挨拶をし、斜め後ろでチャリスさんが静かに礼を取る。
伯爵とわたしが礼を取る背後で扉の閉まる音がした。
「陛下がクロードに話があるそうなので君は奥へ。ああ、セラフィーナ嬢は此処で待つように」
「分かった」
一瞬こちらを見た伯爵に目だけで返事をすれば、ソファーへエスコートされる。
わたしを座らせると伯爵は殿下に一言声をかけて女王陛下の私室へ入って行った。
何とはなしにそれを見送り、顔を戻すと、目の前に紅茶の入ったカップが置かれる。侍女はわたしに紅茶を淹れると静々と部屋の隅に下がっていった。
殿下もティーカップとソーサーをテーブルへ戻すと顔をこちらへ向ける。
「今回は協力してくれて助かった。お蔭でこの国の汚れを一つ拭えたよ」
労いの言葉に座った状態でドレスを少し広げて上半身を前へ浅く傾ける。
「勿体ないお言葉でございます。わたくしのような他国の出の者でもこの国の平和のため、親切にしてくださるクロード様のために役に立つことが出来たのであれば、それに勝る喜びはありません」
「……君達は本当に献身的だね」
苦笑混じりのそれに黙って微笑み返す。
わたしにとっては最大級の誉め言葉だ。
「君の労に報いるために何か褒美をとらせたい。望むものはあるかな?」
「公にはしない功績だけどね」と殿下が肩を竦めてみせる。
予想外のことに思わず目を瞬かせてしまう。
テーブルの上からティーカップとソーサーを持ち上げ、紅茶を一口二口と飲みながら頭の中で欲しいものについて考えてみたものの、これといったものは浮かばず自分でも小首を傾げた。
そもそも今回の件は仕事の一環と捉えていたから褒美と言われても困る。
どうしよう、と思っていれば殿下にまじまじと見つめられた。
「もしかしてないのかい?」
「はい、特に欲しいものはございません」
「ええっと、ドレスや宝石、装飾品や報奨金、美術品などでも良いんだよ……?」
どうやらわたしの反応は殿下も予想外だったらしく、困ったように頬を掻く。
うーん、普段は使用人生活だからドレスも宝石も要らないし、美術品なんて置いても部屋が狭くなるだけだし、衣食住に職も満たされてる現状で報奨金を渡されてもなあ。
服も基本はお仕着せだし、休みも少ない仕事柄、今持っている服で事足りる。
そもそもチェストの収納スペースでは確実に収まり切れずに溢れる。
欲しいもの。欲しいものねえ……?
「何でもよろしいのでしょうか?」
「此方で用意出来るものであれば」
「それでは植物紙と日持ちのするお菓子や干した果物などをいただきたく存じます」
「…………え?」
まるで珍獣でも見つけたみたいな顔をされた。
「兄の使っている手帳の紙が少ないと申しておりましたが、やはり紙はお高いでしょうか? 伯爵家で働く皆さんにもお世話になってばかりで何かお返しをしたいと常々考えていたので、せめて日持ちのするものだけでも……」
わたしが言葉を続けていくうちに殿下が眉を寄せていったので不安になる。
尻すぼみになったわたしの表情を見て、美しい
「あ、いや、そうではなくて。紙も保存の利く食べ物も用意出来る。そこは問題ないよ。でも、それは君の欲しいものとはちょっと違うんじゃあないかい? なあ、ブライアン?」
「そうですね、私も少々それは違うのではと感じました」
「え?」
「……そこで驚かれる方が私は驚きなんだが」
殿下がチャリスさんに話を振って、チャリスさんがそれに同意する。
二人に見つめられて驚くわたしに殿下も途方に暮れたような声音で呟いた。
他に欲しいものと言われても仕事で使う道具類しかなかったからだ。しかし、そういったものは伯爵家が備品として購入しているため、わざわざ褒美として賜るのも考えてみればおかしな話である。
……植物紙はやめた方がいいだろうか?
沈黙したまま三人で顔を見合わせているうちに奥の扉が開いて伯爵が戻って来る。
この何とも言えない微妙な空気に気付いたのか不思議そうに殿下とチャリスさんの顔を見て、最後に小首を傾げながらわたしの横に腰掛けた。
壁際にいた侍女が音もなく動き出し、伯爵の分の紅茶を淹れると元に戻る様は機械仕掛けの人形のように精密で無駄のない所作だった。
その紅茶をチラと見たが伯爵の視線はすぐにわたしを見る。
「何かあったのか?」
むしろ何もないからこその気まずさなんだけども。
眉をハの字に下げた殿下が伯爵に告げる。
「いや、褒美の話をしたんだけどね、セラフィーナ嬢もセナ君も望むものがちょっと変わっていて……。用意は出来るから本当にそれで良いと言うのなら構わないんだが」
歯切れの悪い殿下に伯爵がわたしを見る。
「一体何を望んだんだ?」
「植物紙と日持ちのするお菓子や干した果物ですわ」
「……一応聞くが、それを選んだ理由は?」
「兄の手帳に紙を足したいのと、屋敷で働く皆さんに日頃の感謝を込めて何か贈りたいと思いまして」
「…………それは欲しいものとは言わないだろう」
伯爵が訝しげに、不可解そうに首を傾げて視線を斜め上に移動させた。
その仕草は記憶を探るような動きだったが何を思い出したのかは分からない。
殿下と似たようなことを返されて、わたしは苦笑する。
「ですが、他には思い浮かばないのです」
わたしの生活は今で充分満たされている。
それに、本当に欲しいものは自分の力で手に入れるからこそ価値が出る。
簡単に手に入れてしまったら、思い入れも価値も半減しそうなのだ。
申し訳なく思いながら殿下を見遣れば、また肩を竦めて微苦笑をされた。
「そうか、それじゃあ仕方がないね。紙と保存の利く食べ物を伯爵家に送っておこう。だがこれだけでは王家からの褒美として体裁が悪いので、きちんと欲しいものを思いついたらクロードを通して言うように」
用意出来るものなら何でも褒美として与えよう。
そう言った殿下の声は、どこか含みを持たせた甘い響きを持っていた。
……
愉快そうに細められたエメラルドグリーンにわたしは頷き返すだけに留めていた。
# The ninth case:The voice that the devil tempts.―悪魔の囁き― Fin.
* * * * *
・題名について
# The ninth case:The voice that the devil tempts.―悪魔の囁き―
耳障りの良い言葉や依存性の高い薬物をやめられなくなる、といったものの例え。
昨今、違法薬物に関するニュースも多いですが、そういったものは知り合いや友人から勧められて使ってしまうケースをよく耳にします。苦しくてつらい時にそれを緩和出来ると言われたら手を伸ばしたくもなるでしょうけれど、それは地獄の始まりです。
惑わされてはいけない甘言なので悪魔の囁きという題名にさせていただきました。
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