言、十二。
思わず感嘆の溜め息を吐いていると、伯爵が長身を屈めて囁いて来る。
「一曲踊らないか?」
見上げた先にある瞳はしっかりとわたしを見つめていた。
絡めていた右手から左腕が抜け、改めて差し出される。
「ええ、喜んで」
周りにいたユミエラ様達が微笑ましいものを見るように目を細めた。
伯爵に手を引かれてダンスを踊る人々の方へ向かう。
丁度曲が終わり、次の曲までの僅かな間が空いたので、ホールの中央へ二人で進み出る。
伯爵の左手に私の右手を乗せ、左手は伯爵の右腕に添える。右手と背中に感じる伯爵の手の感触も、胸の下から腰に感じる男性特有の固い体もこの二ヵ月で慣れたものだ。
拍を取る前奏がして曲が始まる。
この曲だけは必死で練習したから覚えている。
例え間違いかけても伯爵のリードがあれば何とか形になる。
体中に突き刺さる視線を振り払い、微笑みを浮かべ、今はただ二か月間のダンスの成果を伯爵と楽しむだけだ。きちんと支える手のお蔭で多少バランスが崩れかけても綺麗にターンが決まる。
ダンスの途中で視線が重なると伯爵がフッと小さく微笑んだ。
「二ヵ月でよく此処まで踊れるようになったな」
クルリクルリと踊りながら抑えた声で囁かれる。
返事の代わりに笑みを深めれば、伯爵も口角を引き上げる。
時間にしては五分ほどの短くも長くもない基本のワルツの曲だ。
踊り終えて元の場所に戻るとユミエラ様達に迎え入れられた。
「素敵なダンスだったわ」
「ええ、まるで小鳥が踊っているようでとても可愛らしかったわ」
サリーナ様とユミエラ様にそう声をかけられてわたしは気恥ずかしげに微笑む。
給仕より受け取った飲み物を一口飲んでから答えた。
「最近になって漸くダンスの練習が出来るようになったので、クロード様がリードしてくださらなければあんな風には踊れないのです」
「そうなんですの?」
「はい、でも、クロード様も自分以外の者とは踊るなと……」
「まあ!」
男性同士で話している伯爵に視線を向ければユミエラ様とサリーナ様も視線を辿る。
そしてこちらに気付いた伯爵が柔らかく微笑むものだから、二人は「セラフィーナ様を独占したいのね」「若いって羨ましいわ」とうっとりした表情で呟く。
伯爵がそのままわたしへ歩み寄って来た。
「私は挨拶をしに行ってくるが、お前は休んでいなさい。慣れない場所で踊って疲れただろう?」
まるで恋人にするように肩に流した髪の一房を指先で撫でられる。
一瞬、場所を忘れてしまいそうになるほどドキリとしたが、それが日常の一部であるという風にわたしは気に留めることもなく伯爵へ微笑みかけた。
これが二人きりであったなら、わたしの顔は茹で上がったタコみたいに真っ赤になっていたことだろう。
大勢の視線が突き刺さるこの状況では流石にそのようなこともないが。
「お気遣いありがとうございます。皆様と一緒におりますので、わたくしのことはお気になさらず御挨拶に回ってくださいまし」
「そうか。だが出来る限り早めに戻って来よう。……申し訳ないがセラフィーナをお願いします」
伯爵の言葉にユミエラ様もサリーナ様も笑顔で頷いた。
そして皆の夫が挨拶や男同士の会話に興じに行くのをその場で見送る。
わたしが飲み物を飲み終えるとユミエラ様が思い出した風に言った。
「此処では落ち着かないので別室をお借りして、そちらで休みましょうか。……お香についてのお話もありますから、侍女は此方に残しておいてくださいませ」
わたしは素直に頷いた。サリーナ様は残るようだ。
カーラさんに少し話があるのでホールに残るよう告げ、歩き出したユミエラ様の後を追う前にグラスを給仕へ返しながら伯爵を見遣る。離れていてもブルーグレーと視線が交わった。
何もなかったようにわたしは背を向けて歩き出す。
ユミエラ様は何度もこの屋敷に来ているらしく、ホールを出ると躊躇いなく来客が休憩するための部屋の一つを使用人に声をかけて借りた。
十畳ほどのこじんまりとした客間のソファーにユミエラ様が座った。
その隣に手招きされて座る。少ししてこの家の使用人だろうメイドがティーセットを持って来ると出て行った。ユミエラ様がそのティーセットで自ら紅茶を淹れてくれる。
「あのお香だけれど、あれは一般には出回っていない特別な品なの」
差し出されたティーカップとソーサーを受け取りながら驚いてみせる。
「まあ、ではこの前いただいたのは……」
「貴女は特別よ。可愛いお友達ですもの。それで少しばかりお値段が張るのだけれど、その、お金はアルマン卿からいただいているのでしょう?」
「はい。ですが何に使われたかは聞かれないので大丈夫だと思います」
「そう、それは良かったわ。特別な品だから大勢に知られてしまうと手に入れられなくなってしまう可能性もあるのよ。だからお香のことは秘密にして欲しいの」
頷いたわたしにホッとした表情で肩の力を抜くユミエラ様を観察する。
恐らく、この人は違法な薬物だと分かっている。
そうでなければココまで慎重に言い含めたり、金について言及したりはしないだろう。
「お香は一つで十アール。沢山買うと少し安くしてもらえるけれど、湿気を吸うとダメになってしまうから一度に沢山買うのはお勧めしないわ」
お香一つに十アールは高いな。
アールとは銀貨のことだ。この国では銅貨十二枚で銀貨一枚、銀貨二十枚で金貨一枚が通貨として使われている。それより上に白金貨もあるがこれは滅多に出回らないので今は割愛しておく。
日本円にすれば銅貨は一枚百円、銀貨一枚で千二百円、金貨一枚で二万四千円だ。
これはその時々で変動するが概ねこのような額である。
銀貨十枚ということは一万二千円。
わたしのお給金が年間八十四万前後なので、そこから見ても安い買い物とは言えない。
貴族でなければすぐに買えなくなるだろう額だ。
「分かりました。お香はどのお店か、商人に会えば買えますか?」
貴族の女性の買い物は家に商人を呼ぶか、行きつけの店に行くかだ。
「これはお店ではなく直接人から購入するのですよ。今日、此処の夜会に来てもらったのはジンデル卿に貴女を紹介するためよ」
「ジンデル卿に?」
あえて驚いた風を装う。
貴族が自ら商売を行うのは非常に稀だからだ。
「ええ、このお香はジンデル卿が作っていらっしゃるの。卿に貴女のお話をしたら是非一度会いたいとおっしゃられて。どうかしら? ジンデル卿とお会いしても問題なくって?」
「はい。わたくしもこれから購入させていただくのであればお世話になる方ですから、一度ご挨拶をしたいと思っております」
「そう、そうね、その方がきっといいわ」
自分の思う通りに進んで嬉しいのかユミエラ様が嬉しそうに笑う。
新しい顧客を紹介しないと売ってもらえない、だったか。
既に依存しているだろう彼女にしてみれば『
この国の、この世界の女性の教育は元の世界よりもずっと遅れている。
物を知らない貴族女性は薬物を売るには丁度良いカモだ。
話していると部屋の扉がノックされる。
ユミエラ様が「きっとジンデル卿だわ」と入室を促した。
部屋に入って来たのは四十代から五十代ほどの中肉中背の男だった。やけに目に痛い赤色の衣装に金の装飾品やら金糸の刺繍やらでピカピカな上に流行りのフリルやレースがふんだんに使われ、体型以上に太く見せている。伯爵家というより成金の商人みたいな外見である。
……赤って膨張色だし、装飾ゴテゴテだし太って見えるのは当たり前だな。
使用人が箱をテーブルの上へ置いて退室する。
ユミエラと共に立って出迎え、手で座るように促されて着席した。
わたしとユミエラ様の向かいのソファーに座った男が無遠慮にわたしの体を見る。
それに気付かない世間慣れのしていない娘のふりをしておこう。
「ジンデル卿、こちらがお香を購入したいとおっしゃっているセラフィーナ様ですわ」
「初めまして、セラフィーナ・シヴァ=ソークと申します」
挨拶をすると尊大そうな態度で頷き返された。
……自分は挨拶しないのか。何なんだこいつ。
少しイラッとしたが噯気にも出さずに微笑む。
「卿が心配していらしたお金のことは問題ないそうです」
「そうか。セラフィーナ殿だったか。貴女は異国の御出身だとか? この国から故郷へ連絡を取れる御家族や友人はおられるのかな?」
「申し訳ございません。故郷はあまりにも遠く、帰ることも家族と連絡を取ることも叶わない身なのです」
そう告げれば明らかに残念そうな顔をした。
本気で他国への販路拡大を目論んでいるのだろうか?
こんな危険なものを他国がそうホイホイと輸入品として扱ってくれるとは思えない。
鼻下に生えた髭を弄りながらジンデル伯爵に質問を続けられる。
「ではこの国で他に御友人は? ウィットフォード夫人から聞いているでしょうが、この香は高い。しかしこの香を欲しがる御友人や知人を紹介していただければ幾分安く出来るのだよ」
金銭の代わりに物品を安くしてるだけで簡単に言えばねずみ講じゃないか。
わたしは少し考えるように視線を斜め上に向ける仕草をしてみせ、それから
「わたくしはこの国に知り合いが殆どおりませんが、クロード様の近侍をしている兄であれば知り合いは多いはずです。兄も慣れない近侍の仕事で悩みがあると申しておりましたし……」
「ほう! では今度兄君を紹介していただけますかな?」
「ええ、勿論ですわ」
目に見えて機嫌がよくなるジンデル卿に笑いを堪えるのが大変だ。
きっと伯爵の弱みを更に握れると考えているのだろうな。
もしくは近侍から伯爵や警察の動きを探れることが出来るとか。
この瞬間に自分が騙されているとは微塵も思っていないらしい。
尻尾を掴ませないようにするのは上手かったのかもしれないが、美味しそうな餌を見つけて気が急いてしまっている。せっかく今まで逃げ隠れていたのにね。
「その、それで、今日お香を買うことは出来るのでしょうか? ユミエラ様からいただいたものはもう終わってしまって……」
申し訳なさそうに聞けば、ジンデル卿は横柄に頷いた。
「ああ、良いとも。そうだと思って用意させたのだ」
テーブルの上に置かれた箱のフタをジンデル卿が開けた。
中には四つほどお香が入っている。
これでしめて四万八千円と考えたら腹が立つ。
植物の葉と市販の花の香で作っているのだから原価はもっと安いだろうに、お香四つで五万とかどれだけぼったくる気だよ。混ぜ物入りの粗悪品のくせに。
「四つとも買います」
「それはありがたい」
ドレスの隠しに入れていた小さな袋から金貨を二枚、テーブルへ置く。
それを受け取ったジンデル卿は懐から何かを取り出した。
畳まれたハンカチを開けばお香が一つ収まっていた。箱にあるものよりも色味が白い。しかし大きさや形は同じだ。円錐形で小指の爪を倍にしたほどの長さだった。その色味の違うものをジンデル卿が摘まみ上げてこちらへ見せた。
ニヤリと嫌な笑みを浮かべて香を目の前に翳す。
「これは特別なものでして、初めての御購入の記念に一つどうぞ。他のものより効果が高いものでしてね」
それを箱に入っていたお香用の小皿に立たせ、マッチを擦る。
まさか火を点ける気か? 今ココで?
横ではユミエラ様が嬉しそうにそのお香を眺めている。
他のものより効果の強い香だとしたら、ココで吸わせることで更に依存度を高めようという魂胆だろう。依存が深ければ深いほど顧客はこれを買わずにはいられなくなる。
マッチが香に近付けられて火が移る。
残念だが、囮としての役目はココまでだ。現物もあるし、証人としてユミエラ様もいる、何ならわたしがなったって良いのだ。ジンデル卿が『
甘い香りと煙が薄っすらと立ち上がり出し、ジンデル伯爵が口元にハンカチを当てて席を立つ。
その派手な体が背を向けたタイミングでドレスのローブの下から拳銃を取り出した。
横目にユミエラ様の驚きに満ちた顔が見えたが構わず床へ銃口を向け、そして撃った。
甲高い発砲音が室内に響き渡り、耳を押さえたユミエラ様と、音に驚いて振り返ったジンデル卿がわたしを見る。わたしは目の前にいるジンデル卿へ銃口を突き付けた。
「どうか動かないでくださいまし」
「な、何を……?」
目を白黒させているジンデル卿の向こうにある廊下が
人の走る音、暴れるような鈍い音と怒声、そして扉が勢いよく開かれる。
「ジンデル卿、貴殿を違法薬物の所持及び売買の現行犯で逮捕させていただく」
わたし同様に銃を片手に乗り込んで来た伯爵が言う。
その後ろには茶髪の男性が二人、この屋敷の使用人か護衛だろう男を叩きのめしている。
室内に入って来たアンディさんが慌てて窓を開けて回り、外の寒い空気が流れ込み、香の甘い香りが流されて薄れていく。極力肺に取り込まぬよう浅くしていた呼吸を元に戻してお香に紅茶をかけて火を消す。
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