雫、九滴。
ココなら貧民街に近く、それでいて人目に触れない。
勝手知ったる我が家のようなものなので人に見付からない出入口や、人目を忍べる部屋も知っているはずだ。殺人事件のあった教会に好んで足を踏み入れる者もそういないだろう。
廃墟と化したそこが封鎖されているのなら隠れ家には打って付けだ。
先ほどまではココを目的地にしたヘレン=シューリスがアーロン元神父の不在を知って貧民街に逃げ込んだと思っていたが、貧民街に潜伏先がなく、しかしその近辺で目撃されている以上、近くに隠れ場所があるはずなのだ。
「他の可能性として、貧民街に知り合いがいて昼間は匿われている可能性もありますが、自分で買い物をしたり歩き回ったりしているところを見るにその線は薄いかと。教会近くに廃屋があればそちらの確認もした方がよろしいでしょう」
「しかし、そこに留まるだろうか? こういう状況では一箇所に留まり続けるのは目撃情報などから発見されやすくなる。出来る限り留まらないのが最善ではないか?」
エドウィンさんの言葉に
これが普通の犯人ならば教会ではなく貧民街や廃屋の方の可能性が高いんだけどね。
大切なのは一般的な行動パターンではなく、犯人の性格や気質だ。
「あの教会は彼女にとって特別な場所なのですよ」
「特別……。それもアーロン元神父が理由かい?」
「その通りです。ヘレン=シューリスはアーロン元神父に強い愛情や執着を持っております。しかし会いに行ったのに相手はおらず、行方も分からない。その行き先を調べつつ、共に暮らした教会に留まることで自分を慰めているとは想像出来ませんか? 彼女にとってはアーロン元神父が全てなのです。それはあの事件でよくお分かりになるでしょう」
理解し難いという表情でエドウィンさんが黙って考えている。
「理解しようとは思わない方がいいですよ。引きずり込まれます」
「お前はそれまでに得た情報と想像力と勘から知識を使って予測してるだけだからな」
流石、伯爵。分かってらっしゃる。
わたしは相手の今までの言動から行動や思考を予測してるに過ぎない。
その思想や感情まで理解する必要はないと切り捨てている。
そうでもしなければ飲み込まれてしまう。
人の心の闇とは不思議なことに奇妙な引力を持つ。恐ろしいと思うからこそ惹かれ、知りたくなる。しかしそれは崖から奈落の底に落ちていくのと一緒で、一度堕ちてしまえば戻れなくなる。
だからわたしは思想や感情を推し量ることはしない。
「ん? 何だ?」
ふと刑事さんが廊下へ目を向ける。
騒がしくはないがどこか焦ったような足音が響いて来た。
その足音の主は部屋を通り過ぎず、前で一度立ち止まると声を上げた。
「ア、アルマン卿は此方におられますか!」
余程急いだのか荒い息もそのままに伯爵を呼んだのは昨日の昼間に行った教会の神父だった。
殆どが白くなってしまった茶髪も乱れ、血の気の失せた顔で一度礼を取って室内へ入る。
「このような時間にどうされた?」
だが伯爵の問いに神父が逆に問い返した。
「シスター・ヘレンが何故外に?! 彼女は重い罪を犯したことで投獄されたはずでしょう! それが……まさか釈放されてしまったのですか?! あのような人物を野放しにしてはなりません!! また子供達が狙われるようなことがあれば私は……!」
「待て待て、神父さん、順を追って話してくれよ」
焦燥感に駆られて伯爵に詰め寄る神父を刑事さんが間に入って押し留める。
それに我へ返ったのか「失礼致しました……」と神父が肩を落とし、何度か深呼吸をして乱れた息を心を整えてから伯爵に向き直った。
「今より三十分ほど前のことなのですが――……」
神父が昨日の昼間と同じ落ち着いた口調で語る。
昨日わたし達が行ったあの教会にはハーパー孤児院、つまりイルフェスが元いた孤児院の子供達と教会のシスター達が移ってきている。
夕食を摂る前の祈りを子供達と共に捧げていると祭壇の間の方より人の声がした。
日没後に人目を避けて祈りを捧げに訪れる者も少なくない。
そういった者は懺悔室を使うことが多いため、神父はシスターや子供達に先に食事を摂るように言い置いて祭壇の間に行った。
蝋燭の明かりが灯るそこには一人の女性がいた。
年の頃は三十代後半から四十代くらいだろうか、その年代の女性が着るにしては少々地味な衣類に身を包んだ女性はややこけた頬を気にせずに微笑を浮かべた。優しい笑みのはずなのに背筋が冷たくなる。
女性は神父を見て、両手を胸の前で組んで一礼する。
それはシスターが行う一般的な礼だった。
驚く神父にシスターが眦を下げて言った。
「此方にアーロン神父はいらっしゃいますか?」
「いえ、彼は神父を辞めたと伺っております」
「ではハーパー孤児院に誰もいないのは……」
「ええ、神父のいない教会は存続出来ない決まりですので、あの教会と孤児院は閉鎖となりました」
女性は「まあ……」と残念そうに頬に手を当てて困った顔をした。
「アーロン様が
その問いには神父も困ってしまった。
話はハーパー孤児院とあちらの教会から来たシスターから聞いていたものの、アーロン元神父がどこへ行ったのかまでは分からない。
「すみません、故郷へ帰られたとは伺いましたが、それがどこかまでは私も聞き及んでおりません」
「そうですか……。神父をお辞めになって添い遂げてくださるかと思ったのに、どこへ行かれてしまったのかしら。ああ、アーロン様……」
結婚するために神父を辞める者も多い。
アーロン元神父のそのような考えがあったのだろうかと小首を傾げた。
しかしシスターからは教会での事件を苦に辞めたと聞いた気がしたが……?
女性は「夜分遅くに失礼しました」ともう一度シスターの礼をして帰って行った。
彼女もあちらの教会の元シスターだったのだろうか?
祭壇の間から廊下へ続く扉を開けると数人の子供とシスターがいた。子供の何人かがとそのシスターは顔を強張らせて顔色も悪く、その様子はただならぬものがあった。
「さ、さっきの女性は何か言っていましたか……?」
震える声でシスターに問われる。
「どうも貴女と同じ教会にいたシスターのようですよ。恰好からして元だとは思いますが、アーロン元神父のことについて聞かれたので少し話をしていただけですよ」
シスターの足にしがみつく子供達は修道服に顔を埋めている。
その小さな体全身で怯えを示す姿に戸惑ってしまう。
「半年前にあった子供の行方不明事件の犯人は彼女なのです……!」
「なっ?!」
「お願いです、どうか一刻も早く警察へご連絡を! 彼女の名前はヘレン=シューリスです、きっとそう伝えれば警察の方々にも通じるはずです!」
その必死な表情を見れば嘘でないことは明白だ。
女性の笑みを見て背筋が冷えたのは勘違いではなかったらしい。
「分かりました、すぐに警察署へ行って来ましょう。教会と孤児院の戸締りをして私以外の者が来ても決して開けないように。それとハーパー孤児院から来た子供達を気にかけてあげてください」
「は、はい」
そうして神父は取るものもロクに取らずに警察署まで辻馬車を捕まえてやって来たという。
まさか大量殺人鬼を相手にしていたとは思いもしなかったのだろう。来る途中になって恐ろしさで体の震えが止まらなくなり、辻馬車から降りて駆け足で伯爵を探したらしい。
椅子に座り、温かな紅茶を飲んで漸く震えが治まった神父は少し疲れた顔をしていた。
「まだ周辺にいるかもしれない」
「教会には何人か部下を寄越しておきますよ。そんで、ハーパー孤児院の方の教会辺りの巡回を密にしますかね」
「そうだな、巡回に出る時間の間隔を早めてくれ」
「分かりました」
神父の話を聞いて指示を出す三人を眺める。
もう一度地図を見直す。
……気になる。
伯爵達はココから指示を出すためにいるのだけれど、わたしは全く動かないこの状況が落ち着かない。
先ほど話していた仮説もまだ確認出来ていない。
こうしてただ突っ立ったまま時間だけ過ぎていくのは無駄じゃないだろうか。
「旦那様、お話中に申し訳ございません」
会話の途切れたところで声をかける。
振り向いた伯爵の側へ寄り、耳打ちする。
「巡回に参加してもよろしいでしょうか? 先ほど話していた仮説を確かめたいのです」
「お前一人でか?」
「はい。アンディさんは旦那様の護衛も兼ねておりますので、どなたか警察の方と一緒でも構いません」
「……」
伯爵が顎に手を添えて眉を顰めわたしを見る。
やがて息を吐くと頷いた。
「この場はデールに任せよう。ハーパーの方は私とアンディとで回る。お前は誰か警官と――……」
手の空いた者がいるか、くすんだブルーグレーが室内を見渡す。
それにエドウィンさんが一歩前へ出る。
「私が共に行きましょう。セナ君は少々突っ走ってしまうところがあって心配です」
「そうか、助かる」
猪突猛進って言いたいのか?
まあ、否定出来ない自覚もあるし、捜査に行けるのであれば文句は言うまい。
そういうことで本部には刑事さんが、廃教会には伯爵とアンディさんが、エドウィンさんとわたしは空き家の確認となった。
警官用のやや縦長の帽子とマントを着たエドウィンさんは普段より二割り増しくらい男前に見えた。これなら奥さんや子供がいるのも頷ける。
何時も通り「あまり深追いはするなよ」と伯爵に注意を受けた。
それに頷き返し、本部を出てエドウィンさんと共に警察署を出る。
厩舎に預けていた馬に擦り寄られながら地図を覗き込んだ。
「私達が調べる空き家は三箇所だ」
指で地図の上を三箇所示され、頭へ叩き込む。
「意外と少ないですね」
王都にはそれなりに空き家がある。単に借り手がいないだけの借家、人が出て行ってしまい誰も住まなくなった家、建物自体が傷んで人が越していった家。事情は様々だろう。
「空き家はもっとあるんだが、家主ではないものの住みついている者がいたり、夜の寝床として使う者がいたり、そういったものを除外してこの軒数になる」
「浮浪者を追い払ったりはしないのですか?」
「空き家の持ち主に頼まれたらそうするけれど、外にいる浮浪者は心ない者に理由もなく暴力を振るわれることもあってね、此方としても屋内の安全な場所にいてもらった方が助かるので多少は目を瞑るんだ」
「でも無断で他人の家に入った場合は家屋侵入で罪に問われるのでは?」
元の世界でも住居侵入罪――不法侵入のことだ――があった。
こちらも盗みに関する罪状に家屋侵入罪が含まれている。
「家財道具などがある家で、それらを盗まれればそうなるだろう。しかし大抵の浮浪者は人が住まなくなって大分経つ廃屋を使うから、持ち主も『人気があった方が建物に悪戯をされる心配が減る』といった感じで然程気にしないな。浮浪者達も綺麗な家には勝手に立ち入らない」
「はあ……?」
そんな緩くて良いのだろうか?
まあ、家の持ち主と住みつく浮浪者、警察の間で暗黙の了解があるなら構わないのか。
地図を折り畳んで懐に仕舞ったエドウィンさんが馬に跨る。
わたしも黒毛の馬に乗り、その脇腹を軽く足で叩いてエドウィンさんの馬に続いて走らせる。
月光に照らされた雪道は明るく、所々にランタン持ちがいるので王都の西側は特に明るい。高い場所から見下ろせばランタンの無数の灯りが西側をウロウロと動き回る様が見れるはずだ。
夜になり更に冷え込む空気に片手で顔を覆い、もう片手で手綱をしっかりと握る。
暫く夜の道を走り抜けた後、目的の空き家に近付いたのかエドウィンさんの馬の速度が落ち、それに合わせて私の乗る馬も走る速度を落とし、そして止まった。
廃屋は思っていたよりかは綺麗だった。蜘蛛の巣も張っているし、軒先や窓の雨戸には土埃が溜まっていたけれど、屋根が崩れかけたり扉が外れていたりといったことはない。きちんと掃除をすれば人が住めそうだ。
馬から降りて、待たせておく。勝手に逃げないように躾をされているので安心だ。
エドウィンさんが地図を確認して間違いなく一箇所目の空き家だと頷いた。
「セナ君は私から離れないように」
「畏まりました」
上着の内側に手を入れて拳銃を取り出し、片手で構えるエドウィンさんの斜め後ろにつく。
空き家には鍵がかかっておらず、開けた扉の向こうは暗い。
わたし用に持ってきていたランプに火を灯して室内を照らすように掲げると薄っすら埃の積もった室内が浮かび上がる。小さな家は入ってすぐがLDKで他へと続く扉は二つ。ダイニングテーブルと来客用の古びたソファーとローテーブルがあり、麻の布がかけられ、キッチンは空だ。
一つは浴室やトイレなどの水回りに通ずる扉で、もう一つは二階へ続く階段への扉だった。
お世辞にもあまり広いとは言い難い階段を上がると、部屋が一つ。
しかし中にはスプリングのないベッドの枠やテーブル、椅子、棚があるだけで、それらも麻の布が雑にかけられているだけでこれといって人影もなければ隠れられそうな場所もない。
一応床の足跡も確認したが、最近人が訪れた形跡はなかった。
「ココはハズレのようですね」
わたしの言葉にエドウィンさんも頷いた。
空き家はヘレン=シューリスのいる可能性も低めだと考えていたし、一箇所目から何か見つかるとも思っていない。むしろ伯爵達の行った教会の方が個人的には可能性が高いと踏んでいる。
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