華、八輪。

 



 進行方向へ背を向けていたためわたしは大事には至らなかったが、ティア様が危うくこちらの席へ倒れそうになる。咄嗟にキースが受け止めたため彼女も怪我をせずに済んだ。


 すぐに小窓が開き御者の焦った声がする。




「お怪我はございませんか?!」




 キースとティア様を見て無事を確認し、何ともない旨を告げれば、心底ホッとした様子で「それは良うございました」と安堵の溜め息が聞こえて来た。




「何かあったのですか?」


「それが、路上に人が大勢いて進むことができないのです」


「人が?」




 二人に断りを入れてから馬車を降りると御者の言葉通り路上には人垣が出来ており、そこを馬車で通ることなど到底無理そうだった。


 御者にそのままでいるように告げて人垣へ近付くと、人々のうち一人が振り返る。全体的に線の細い気の弱そうな顔立ちの男性で、ウエスト・エプロンをつけ、手にマゼンタに近い色合いの花を持っていた。




「すみません、何かあったのでしょうか?」




 会釈をしてから聞いてみると眉を下げた男性は少し悲しそうな、困ったような顔で一度人垣の奥へ視線を投げた。




「何でもすぐそこの高級娼館で娼婦が一人、飛び降りたそうだよ」


「!」




 この辺りの高級娼館と言えば第四の被害者がいる娼館しかいない。嫌な汗が背中に滲む。


 男性へ礼を述べ、一度馬車へと戻って事の次第を告げればキースは目に好奇の色を滲ませた。しかしティア様の顔面蒼白な姿を見て、彼女を屋敷へ送ることとなった。


 これほど人が集まっているのなら既に警察も来ているだろう。


 わたしも現場そちらへ行かなければいけない。


 残念だが今日中に全ての被害者が働いていた娼館へ行くことは無理そうだ。




「今日はありがとうございました。お陰様で随分楽が出来ました」


「良いって、また仕事がない日にでも会おう」


「はい。……ティア様もお気を付けて」




 ティア様は小さく頷くとまた俯いてしまった。


 その背を優しく擦ってキースは御者に屋敷へ戻るよう言う。


 元来た道を戻っていく馬車を見送り、わたしも人垣へと近付いた。


 どこかから入れないものかと背伸びをしつつ人の隙間に体を滑り込ませて前へ進み、一番前まで何とか出て見渡せば、建物の前にいた見慣れたブルーグレーの瞳と視線が重なる。伯爵も騒ぎを聞き付けて警察と共に来たらしい。


 こちらに気付いた伯爵が傍にいた警官に声をかけてわたしを指で示す。


 するとすぐに警察がやって来て道を開けてくれた。


 一歩踏み出そうとした時、ふと覚えのある匂いが鼻先を掠めていく。


 パッと振り返ればこちらへ向かって来る野次馬達の中で、先ほど話しかけた男性が背を向けて去っていく所だった。周囲の喧騒が掻き消え、人の波に消えていく姿に目が離せない。




「どうかしましたか?」




 道を開けてくれた警察に肩を叩かれた瞬間、世界に音が戻り、我に返る。


 慌てて駆け寄れば傍にいた者と話をしていた伯爵が振り返った。


 傍にいたのは強面で体格のガッシリとした刑事さんで、その人も振り向いた。




「旦那様、御早い御着きですね」


「偶然だ。お前は娼婦に会いに行く途中だったか?」


「ええ。全く、せめて話を聞いてからにして欲しかったです」


「……伯爵、この坊主は?」




 わたしと伯爵を交互に見てから大柄の刑事さんが伯爵へ聞く。


 近侍だと紹介されたので胸元に手を当てて丁寧に名乗りながら会釈したのに、刑事さんは何とも言えない顔でわたしをマジマジと見てから伯爵に向き直った。




「こんな子供に手伝わせてるんですかい?」




 子どもじゃない。そう思っていると伯爵が頷く。




「ああ、これは良く働くし勘も鋭い。何かと重宝している」


「けど成人もしていない子供ですぜ? あんまり血生臭い事件に関わらせるのは――……」


「お話中に失礼致しますが刑事さん、わたしはこれでも十七歳ですよ。それに旦那様も子供という点を否定してくださいませんと年齢を偽ることになってしまいます」




 本人を差し置いてペラペラと会話を交わす二人に一言物申すと、刑事さんは驚いた表情でわたしを見て、伯爵は口角を軽く緩めて「そうだったな」と悪びれた風がない。


 やっぱり刑事さんはわたしを実年齢よりも下に見ていたらしい。


 わたしが若く見えることについては今はどうでも良い。




「それで何が起きたのですか? 被害に遭われた方は?」


「医師に診せている。娼婦が一人、三階から落ちたらしい。手足に派手な擦り傷や打撲はあったが、落ちた衝撃が軽かったようだ。あの分では命に関わる程の大事ではないだろう。娼婦の名は言わずとも分かるな?」


「はい、第四の被害者ですね?」


「話が早くて助かる」




 歩いて娼館に行くと三階の窓が開け放たれていて、その下の土に少し血が滲んでいた。この程度の高さなら伯爵の言葉通り打ち所が悪くない限り死ぬことはないだろう。


 が、ふと違和感を感じた。何かが引っかかる。


 もう一度騒ぎの最初から記憶を辿り、落下地点と建物を見比べ、違和感の理由に気付く。




「旦那様、今さっきとおっしゃいましたか?」


「言ったが、それがどうかしたのか?」


「わたしはつい先ほど野次馬の一人に娼婦がと聞きました」


「何?」




 地面を見つめていた伯爵が顔を上げる。


 警察がと言っているのに、野次馬はと言う。言葉の綾では済ませられないほど、この二つの単語が持つ意味の違いは大きい。

 



「それに落下地点がここなら自殺の可能性は低いと思います」


「坊主、そりゃどういうことだ?」


「坊主はやめて下さい。わたしには瀬那という名前があります」




 半ば反射的に訂正を入れるもこちらを見遣るブルーグレーの瞳にせっつかれ、伯爵に杖を借りて地面に簡単な図を描く。窓の開いた横向きの娼館を比較用に二つ。


 わたしの描いた絵を伯爵と刑事さんが向かい側から覗き込んだ。




「まず、今回が自殺であった場合はこうなります」




 片方の図の落下地点に×印を描き、そこへ窓から緩く弧を描いた矢印を付ける。




「どこから落ちるかにも寄りますが、少なくとも柵のある場所では乗り越えて飛び降りることになるので落下地点は建物から離れます。身を投げる際に勢いがついて若干距離が出来るわけです。柵などがない場所で突き飛ばされた場合も似たような状態になりますが、今回は屋上のない建物なので除外します」




 もう一つの図は窓のほぼ真下に×印を描いて真っ直ぐに下へ矢印を付け加えた。




「柵や窓枠のある状況で第三者に突き落とされたり、事故で落ちたり、とにかく無理に身を投げ出すような格好になると落下地点は建物に近くなります。これは先ほどとは逆の説明になりますね。勢いがないので余程高い場所から落ちない限り、距離はあまり開きません。柵や建物の外壁に体をぶつけることが多いため外傷も多くなります」


「……つまり、あの窓から自ら飛び降りたのならばもう少し離れた地点に落ちるということか」


「はい。様々な条件によって左右されることもありますが、手足に怪我が集中していたのは落下中にぶつけたか、被害者が柵などに掴まろうと足掻いたのではないでしょうか?」


「待て待て。飛ぶのが怖くて窓から滑り落ちるように自殺しようとしたって可能性はないのか?」




 刑事さんの言葉は確かに一理ある。


 だけど、わたしは首を振った。




「娼館を見る限り、窓からそのまま滑り落ちれば二階の窓の柵や植木鉢にぶつかってしまいます。途中で物にぶつかれば落下速度が落ちて死に難くなります。何より、人間というのは本能的に痛みを回避しようとする生き物ですよ。例えこれから死のうとしている人間だったとしても、ね」




 わたしの言葉に伯爵はふむと顎に手を添えて考える仕草をした。


 それから唐突に顔を上げて「部屋を見たい」と言い出し、伯爵と目が合った刑事さんは一度キョトンとした表情をしてから「ああ、こっちです」と頷いた。


 わたしも二人の後ろについて中へ入れば一階では泣いている娼婦が数人いて、身を寄せ合って震えている。被害者が落下する場面を彼女たちは偶然見てしまったそうだ。さぞ怖かっただろう。


 彼女たちに数人の警察が話を聞いていたが、恐らく話をするのは無理だと思う。あんな状態では思い出しても泣いてしまって話が出来ないに違いない。


 少々間を開けて気持ちが落ち着いてから事情聴取をすればいいのに。




「セナ」




 名前を呼ばれて顔を戻すと伯爵が階段の前で振り返っており、足早に近付けば上へ行く。


 そのまま三階まで一気に上がって問題の部屋へ行くと数人の警察が部屋を物色していた。


 一体警察では何を教えているんだか。ごちゃごちゃにされた室内に思わず眉を顰めてしまう。




「刑事さん、事件現場での鉄則をいくつかお教え致しましょう」


「あん?」




 今まさに火が灯されようとしていた紙巻煙草を素早く奪う。


 煙草は刑事さんが自分で巻いているのかやや歪で安っぽい感じがした。




「現場の物に素手で触れてはいけません。物に触れた場合は元通りに戻して現状維持。それから現場に匂いのある物を持ち込むのも良くありません。匂いも犯人に繋がる重要な要素の一つですよ。犯人を示す証拠があっても素手で触ったり移動させたりしては消えてしまうかもしれません。捜査をするのであれば現状を詳細に記録した後に調べてください」




 捲くし立てた言葉の中に思い当たる節があったのか、刑事さんは少しバツが悪そうな顔で返した煙草を懐へ仕舞った。声が聞こえていたようで動き回っていた数人の警官達も固まる。


 こんな初歩の初歩が実行されないんじゃあ、犯人がなかなか特定されないのも当たり前である。


 刑事さん以外の警官が部屋を出てから窓に寄る。縁にそっと触れてみるが汚れはない。もし自殺だったのならば柵を乗り越えるためにここへ足を乗せるはずだが、窓枠に土や砂は見当たらなかった。


 カーテンが片方だけ纏められておらず、纏めるための紐が床に落ちてしまっていた。


 紐を見ようと屈んだ瞬間、甘い香りが漂った。香水ではない。




「!?」




 視線などお構いなしに空気を嗅いで匂いの発信源を探すとカーテンに行き着いた。風に揺らぐそれに顔を近づけるとまた花の香りがする。瞼の裏にあの線の細い男性の後ろ姿が浮かぶ。


 バラバラだったパーツの断片が幾つか繋がり、頭を抱えて蹲(うずくま)る。


 窓際に置かれていたチェストと壁の隙間に入り込んでいたマゼンタの花弁を見つけてしまい、更に追い討ちをかけられた気分がする。


 あの時に名前くらい聞いておけば良かった……!


 昔から勘の良さだけはピカイチだという自分の長所をすっかり失念していた。




「何をしている?」




 不審げに問われて勢いよく立ち上がってしまう。


 点数の悪いテストが親に見つかった子供の気持ちが今なら分かる。




「おい、どうしたんだ坊主?」


「だから坊主ではなくて瀬那です。それどころではなくて、旦那様、申し訳ありません! 多分わたしはとんでもないしくじりをしました……!」


「お前が何を失敗したかは知らんが、どういうことだ」




 もっともな指摘にその場で数度深呼吸をする。


 遺体の発見現場で嗅いだ匂い、安置所で伯爵の手袋についていた花弁、この窓のカーテンについていた残り香、チェストと壁の隙間にある花弁と同じ色の花を持った野次馬の男性、その男性との別れ際に嗅いだ香り。そして指輪の件。それら全てを伯爵と刑事さんに話す。


 男性の特徴を述べてみたけれど、それだけでは分からないと返された。


 さすがに似顔絵はわたしも描けない。


 香りについては刑事さんも伯爵もカーテンから匂いを嗅ぎ取ることは出来なかった。


 部屋に被害者の香水の香りが充満しているのと、二人がパイプや紙巻煙草といった匂いのするものを吸う習慣も匂いが分からない理由の一つだろう。


「まるで犬だな」と刑事さんが呟いたが褒め言葉として受け取っておく。


 失態という衝撃から何とか復活し、改めて被害者の部屋の中を見回した。


 ……何故、犯人はここに来たのだろうか?


 殺害に失敗した際に顔を見られていたなら話は分かる。でも被害者は犯人の顔を見ていないし、それについては犯人も恐らく分かっているはずだ。わざわざ危険を冒してまで来る必要がない。


 それほどまで被害者に強い殺意を抱いているのか……?




「……ん?」




 ふと視線を彷徨わせていれば伯爵がベッドの下を覗き込んでいた。


 裾の長いコートが惜しげもなく床に付いてしまっている。長い腕が奥へ伸ばされたが、上手くいかないのか秀麗な顔が眉をひそめる。




「あの、代わりましょうか?」




 声をかければ伯爵は諦めた様子で頷く。場所を交代し、ベッドの前に膝をついて下を覗くと、トランクや何かが入っているのだろう箱がいくつか押し込められていた。



 

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