華、二輪。
わたしもアランさんと共に伯爵の寝室へ戻る。
掃除をするハウスメイドや洗濯物を回収するランドリーメイド達は忙しなく、中には暖炉の灰を掻き出して補充するための薪を運ぶ者とも擦れ違ったが、使用人の行う仕事は厳格に決められており、他の使用人の仕事を手伝うことは出来ない。
途中で別のサービスワゴンを押す
アランさんが伯爵の寝室の扉をノックし、許可を得て扉を潜った。
その後にわたし、アルフさんの順に部屋へ入る。
モーニングティーを済ませた伯爵からティーカップと新聞を受け取り、サービスワゴンへ戻す。
ベッドから近くに置かれていたソファーへ伯爵が移動し、アルフさんが押してきたサービスワゴンの中身を慣れた手付きで出していく。洗面器とお湯と水がそれぞれ入った二つのピッチャー、剃刀、タオルなどといったものだ。
お湯と水を合わせたもので伯爵が顔を洗い、アルフさんがタオルで顔を拭う。
次に剃刀を出して、伯爵の顔やこめかみ、顎、眉の部分を慎重に剃る。
剃り終えたらお湯で濡らした蒸しタオルで顔を拭って綺麗にする。
アルフさんが洗面道具を片付ける横で、アランさんとわたしは伯爵の着替えを手伝うのだ。
立ち上がった伯爵のハウスコート――男性用のナイト・ガウンだ――の前合わせを解き、背中側から床へ落とすように脱がせる。肌着や下着を身に付けているので見たところで恥ずかしさはない。
まずはシャツ。頭から被り、肩にかけたら、袖に腕を通してもらい、襟を合わせる。襟や袖口、裾等に金糸の刺繍が施されており、そこにレースやフリルもあしらわれているため、手荒く扱えば解れたり皺が寄ったりしてしまうので気を遣う。
それから白い膝丈の靴下、ショースを履いてブリーチズに隠れる膝上で紐で留める。膝下丈の黒のキュロットは七分丈のズボンだ。これを穿いたら前合わせを伯爵が自分で留め、その前合わせを隠すようにある当て布を上げて腰の辺りでこれも釦で留める。膝辺りの裾の釦はわたしが留めた。
アルフさんが箱を持ってきて伯爵へ見えるように開くと、中には宝石があしらわれたカフスボタンが複数並んでいる。伯爵はマゼンタ色の宝石のものを選ぶ。それをアルフさんが伯爵のシャツの袖をカフスボタンで留めるのだ。
上着のジレ――ウエストコート――をやはり後ろから袖を通して着せ、下の釦を留め、シャツの襟とフリルを出して首元の釦を留め、ジレの前袷を釦を留めていく。
更に首元にクラバット――幅広のネッカチーフでネクタイの原型だ――を巻き、そのレースを柔らかく整える。その間にベッドへ腰かけた伯爵の足元でアルフさんが革製の膝丈のブーツを履かせる。
アビ――長袖のコートで前を閉じず、前の裾から後ろの裾にかけて斜めに生地がカットされたもの――をジレ同様に着せ、もう一度襟や袖、裾のレースやフリルを整えた。
わたしが渡した白い手袋を伯爵がする。これは飾り気のないシンプルで実用的なものだ。
一通り服を着せると、最後にアランさんが最終チェックをしてクラバットの裾を直したり、襟を正したりと細かく手を入れて最も美しく見えるように調整を加えた。
こうして三人がかりの着替えを済ませたらアルフさんが伯爵の髪を整え始める。
わたしはサービスワゴンを押してアランさんと二人で退室し、厨房へこれを返却するため階下へ下りた。
サービスワゴンを返すと厨房は一層慌しくなる。伯爵が食堂を訪れる頃合いを見計らう合図のようなものなので、アランさんは料理メニューの確認と食堂の食器類のチェックを行う。
食堂の壁際に立って待つこと、きっかり十分。
アルフさんを後ろに伴い伯爵が現れた。
十人以上が囲めるテーブルの、扉から一番離れた最奥の
「主よ、貴方の慈しみに感謝してこの食事をいただきます。ここに用意されたものを祝福し、私の心と体を支える糧としてください。私達の主によって斯様にあらしめたまえ」
アランさんがティーカップに紅茶を注ぎ、スッと伯爵の手元へ差し出した。
伯爵がそれを手に取り、飲み始める。
それを合図にワゴンを押した給仕メイドがテキパキと軽食をテーブルの上へ並べていく。二段のケーキスタンドには上がスコーンとジャムとクリーム、下がサンドウィッチ。別にスープ、果物の小さな盛り合わせのデザートがあった。
料理はどれも少量で、会話もせず、ミルクティーとを飲みつつ三十分ほどかけて食事を済ませた伯爵がフォークやナイフを置いて食事を終える仕草をし、空の皿を前に手を組む。
「主よ、感謝のうちにこの食事を終わります。貴女の慈しみを忘れず、全ての人の幸せを祈りながら。私の主によって斯様にあらしめたまえ」
食後の祈りを終えた伯爵へアランさんがそっと歩み寄って皿を下げた。
皿はアランさんからアルフさんの手に渡って厨房へ戻される。
ナプキンも回収し、アランさんが伯爵の今日の予定を告げる。
そうは言っても屋敷に籠っていることが多く、来訪者もまず来ないために毎日の予定は似たり寄ったりで、出掛けるのはもっぱら仕事に関することばかりだ。
予定を告げたアランさんが次に手紙が届いたことを述べて恭しく銀盆に載せた手紙を差し出した。
伯爵は銀盆にあるペーパーナイフで手紙の封を切って、取り出した便箋に目を通すと口を開く。
「セナ」
名前を呼ばれ、壁を離れて伯爵の傍へ寄る。
わたしは懐から手作りの手帳を取り出した。植物紙を手の平サイズに切り、穴を開けて紐を通しただけの簡素なものだ。一応、革の端切れで包んで綴じてはいる。
前以て警察より手渡しで届けられた書類は昨夜のうちに概要を纏めて頭に叩き込んだが、苦手な人名と地名だけは手帳に記してあった。
「ここ二、三ヶ月で話題になっている連続殺人事件はご存知でしょうか?」
「娼婦ばかりが狙われている件だな」
「はい。死者七名、負傷者一名でしたが、昨夜報告が上がり死者は八名になりました」
「警察は随分とのんびりしている」
皮肉交じりの言葉を呟き、ふむと伯爵は顎に手を添えて考える仕草をした。
「事件の概要は分かるか」
「勿論です」
事前に届けられた書類の情報を思い出す。
最初の事件は二ヶ月と二日ほど前に遡る。
王都の東、
第一発見者は教会に住み着いていた浮浪者の男で、前日から街をうろついており、翌日の早朝に帰ってきたところで教会の古ぼけた十字架に女の死体に磔にされていることに気が付いたらしい。
被害者は花街地区
第一の被害者が発見された二週間後、第二と第三の被害者が出る。
被害者達は双子の姉妹で、どうやら同日に殺されたらしい。
この姉妹は娼館では働かず、夜な夜な花街へ繰り出しては二人で客を捕まえて金をもらっていたようだ。
双子の姉妹も王都の東に位置する
第四の被害者が出たのは、第二第三の被害者から十三日後のことだった。
貴族達が王都の西にある花街
彼女は貴族の屋敷より帰宅する途中に背後から突如殴られたものの、偶然にも人が通りかかったため犯人が逃走し、頭部に打撲を負ったが軽傷で済んだ。この高級娼婦が唯一助かった人物である。
ただ頭部に衝撃を受けたせいか襲われた時の記憶が
それから十日後に第五の事件が起きた。
恐らくこの件が女王の耳に届いたのだと思う。第五の被害者はまだ二十代にも満たない少女で、下級貴族の娘が両親に反抗して娼館で働いていたのだが、無残にも全身をズタズタに切り刻まれて殺された。
死体は警察署前の通りに打ち捨てられていたそうだ。
犯人は余程捕まらない自信があるのだろうか?
「警察の目と鼻の先に捨てるとは大胆なものだ」
「……そうでしょうか?」
被害者には申し訳ありませんが、まともに捜査も出来ない方々には良い薬ですよ。
そう言えば伯爵は片眉を上げてやや呆れた口調で「本人達の前では口にするなよ」と注意してくる。
頷き返しながらこの街の警察を思い出す。
どうにも彼らは好きになれない。捜査に行き詰るとすぐにこちらへ助けを求めてくる、もとい、丸投げしてくるのだ。市民の税金で給料をもらっているのだからもっと気張れ。
そんなことを考えていれば伯爵に視線で先を促されてしまい、慌てて説明を続ける。
第六と第七の被害者は第五の被害者から十一日後に発見された。
犯行は同日に行われたらしく、第六の被害者は自宅で死んでいるところを帰って来た恋人の男が見つけたそうだ。被害者は娼館では働かずに路上で声をかけて仕事をしていたそうだ。
第七の被害者は元は孤児院育ちの者で娼館に住み込んでいたらしいが、妊娠を機に身請けされることが決まり、男と住むために引っ越したばかりの家で襲われたようだ。
第八の被害者は妊娠中の胎児。第七の被害者の子であったのだけれど、生まれる前の赤ん坊は正式な被害者として数えられないらしく、書類に記載されても被害者とは書かれていなかった。
最後、第九の被害者は昨夜
警察の報告書を読んだが今回の被害者が最も手酷く犯人に
「被害者に共通するのは娼婦、左の薬指と子宮が持ち去られていることくらいでしょうか」
わたしが全て話し終えると伯爵はアルフさんにハットと杖、コートを用意するよう言う。
「現場へ行かれますか?」
「ああ。お前も外出の支度をして玄関ホールへ来るように」
「畏まりました」
お辞儀をして一旦食堂を離れ、裏口より厩舎へ向かう。
中で馬の世話や馬車の手入れをしている御者の一人に声をかけて、玄関に馬車をつけてもらうよう伝えたら、急いで使用人通路を使って別館の自室へ戻り、コートと帽子を引っ掴んでまた使用人通路を抜けて本館の玄関ホールへ急いだ。
小走りしながらコートを羽織り、ちょっと笑ってしまいそうな
飾りは一切ないそれは随分昔に教科書の西洋の偉人が被っていたものによく似ている。
到着すると既にホールに伯爵がいた。
外出向きの服を朝から着ていたのはそういうことだったのだろう。
そのわたしよりも高い背へ駆け寄る。
「お待たせ致しました」
「ああ」
執事のアランさんによって開けられた扉を伯爵、わたしの順に潜る。
玄関前には馬車が停まっており、御者が扉を開けて待っているそれに伯爵が乗り込み、目的地を告げてから続いてわたしが乗ると扉が閉まり、ほどなくして馬車が揺れを伴って走り出した。
現場に到着するまでは小一時間ほどかかるため、その間はどうしても暇を持て余してしまう。
窓から外を眺めても、美しい街並みだが目新しさはない。
仕方なく斜め前に腰掛けている伯爵を観察してみた。目を閉じて腕を組んで座っているだけだが妙に威厳のある主人は全体的に色素が薄く、秀麗な顔立ちは冷たい印象を与える。性格も冷静沈着だが、こう見えて懐に入れた者にはわりと甘い。
思わず漏れた笑いに気付いたのか閉じていた瞼からブルーグレーが覗く。
「――……私の顔に何か付いているのか」
「はい、目と鼻と口が丁度良い
「それがない人間はいないだろう」
「そうですね、ちょっとした冗談ですよ」
すると伯爵は微かに眉を顰めて「お前は少々性質たちが悪い」とぼやいたが、そんなことは自覚済みなので今更言われたところでどうしようもない。
伯爵もそれを心得ているのかそれ以上何かを言うことはなかった。
ガラガラと石畳の道を車輪が駆け抜ける音だけが響く中、ふと伯爵に伝えていない事柄を思い出した。
「そう言えば、七人目の被害者の子についてですが、
「それは私に言う必要のあることなのか?」
「さあ、それは分かり兼ねます。ただお伝えしておりませんでしたので」
わたしの言葉に伯爵は苦虫を噛んだような顔をした。
それにおやっと思う。もしかして伯爵は意外と子供が好きなのだろうか。
そういえば伯爵家に仕える使用人の大半は身寄りがないという。ボーイ達は孤児院から引き取った子ばかりだし、行く当てのない者や事情があり家を出ざるを得なかった下位貴族の子女のメイドも多く、屋敷を警護しているのは元傭兵。
世話焼きなのか、人が好いのか、どちらにせよ伯爵は怜悧な見た目のせいで損をしている気がする。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます