第三章-05 転校生は暗殺者


 ミカは数日前のことを思い出す。

 ミカが優の暗殺任務を降り、一転、優のボディーガードするようになってからすぐのことだ。

 夜、ミカはトレバーに呼ばれ、彼の寝室に来ていた。


「組織の連中を退ける方法を考えていた」


 トレバーはミカに告げる。

 その表情は、日本に来る前には何度も見た表情だった。ミカと暗殺(しごと)の打ち合わせをする時のもの。暗殺の実行は常にトレバーがして来たが、ミカは毎回そのバックアップを担当して来た。情報収集や、移動経路の確保等。作戦実行前の打ち合わせ時に、トレバーはこういう表情をよくしていた。


「仮にこのまま優のボディーガードを続けても、根本的な解決にはならない」


 ミカもそれには同意だった。

 物心付く頃から厳しい訓練を受けて来たミカ。1ヶ月以上の期間、父の仕事のために銃弾の飛び交う戦地で過ごしたこともあった。明日死ぬかもしれない極限の中での生活。その程度の修羅場を何度も体験して来た自分には負担にはならないが、優にとって今の状況は大きな負担となっているだろう。当たり前ではあるが、誰かに命を狙われるというストレスは生半可なものではない。自分たちのような特別な訓練を受けていない普通の高校生なら尚更だ。

 今すぐにでもこの状況から優を救わなければならない。

 いずれ精神が持たなくなる。


「方法は二つある。一つ目。組織のボスを殺すこと」


 優暗殺の命令を下したのは組織のボスだ。その命令を発した本人を消せば狙われなくなるという非常に単純な話だ。トレバーやミカのことは組織に知られていないし、身内による犯行だと気づかれなければ優への報復の恐れもない。

 しかし、ボスの正体は謎に包まれている。

 それを暗殺することなど――少なくとも現状は――不可能だ。


「そして二つ目は、優が殺されない理由を作る。オレたちが目指すのはこちらの方だ」

「……パパ、そんなこと出来るの?」

「ああ。オレに考えがある。そもそも、マイクロチップの存在が優の命が狙われる原因だった。組織のボスにとってそれほどマイクロチップと、その中に納められた『情報』は大事なものなんだ。だから逆にそのマイクロチップを利用するんだ」

「どういうこと?」

「組織からマイクロチップを奪い、それを優が持った状態にする」


 ミカにはトレバーの言っている意味が分からなかった。優が命を狙われている根本的な理由はマイクロチップの存在だ。そのマイクロチップを持っていれば、結局、命を狙われることになるではないか。


「いいか? 組織にとって最も重要なのはマイクロチップそのものではなく、マイクロチップの『中身』だ。ボスの正体に迫る唯一の情報。『機密文書・黒』。その流出を組織のボスは恐れている。そいつを『人質』にするんだ。匿名でやつらと取引する。優を狙えばマイクロチップの『中身』を世間に公表するとな」


 現在の優が命を狙われている理由は、マイクロチップの情報を知っている穴熊(バジャー)と接触したから。優もその情報を知ってしまった可能性があるから処刑の対象となった。トレバーは、優を殺せばその知ってしまった情報を公開すると、脅しを掛けようと言うのだ。


「我々はマイクロチップの中身を知らない。こちらが中身の情報を知っていなければ、取引には応じないだろう。そのためには実際にマイクロチップを手にする必要がある。そして、マイクロチップがこちらの手にある以上、やつらは優を殺せない。殺してしまえば全世界に公開すると脅しをかけるからな」


 マイクロチップ。これを手に出来れば、組織に対して大いに有利に立ち回れるだろう。その中に納められた『機密文書・黒』は、謎に包まれた組織のボスの正体を示す手掛かりという触れ込みだし、それが手に入ればいざとなればボスの暗殺すら可能となるからだ。


「でも、組織の直属のエージェントだった穴熊(バジャー)がそれを奪った結果、すぐに見つかり処刑されてしまった……」

「その通りだ。簡単に奪えるような代物ではないし、入念な計画と少なくない時間が必要だ。だからひとまずは『優が所持していること』にすればいいんだ。それだけでもやつらへの十分な牽制となる」


 ミカが理解出来ないといった表情をしたので、トレバーは補足するように説明を続ける。


「『保険』を作るんだ。やつらに偽の情報を流すんだよ」


 その後、宣言通りトレバーは組織に偽の情報を流した。

 トレバーが流した偽の情報により、組織は優がマイクロチップを所持していると思い込んでいる。正確に言えばマイクロチップのコピーだ。穴熊(バジャー)から渡されたマイクロチップの中の情報を優は別の記録媒体に移し、所持しているという『設定』にしたのだ。

 これは大きな抑止力となる。マイクロチップのコピーを優が所持しているのであれば、殺したとしても、死後、誰かの手に渡ってしまう恐れがある。それを防ぐにはもう一度奪い返す必要がある。

 マイクロチップの外部への流出。それが組織のボスが最も恐れていること。組織の手の者は優に接触し、何としてもマイクロチップのコピーの在りかを聞き出そうとするはずだ。

 こちらの目論見通り、組織の暗殺者であるニコルは、すぐに優を殺そうとはしなかった。拉致監禁し、マイクロチップの隠し場所を聞き出そうとしている。

 だが、ニコルがどんな方法を使おうが、優からマイクロチップの情報を聞き出すことは出来ない。こちらがマイクロチップのコピーを持っているというのは嘘だからだ。コピーなど存在しないし、たとえ尋問しようとも、居場所が分かることなど絶対にない。何をどうしようが、マイクロチップの在りかを聞き出せないので、ニコルが優を殺すことは出来ない。

 とはいえ、これはその場しのぎに過ぎない作戦だ。もしもコピーを持っていることが嘘だと感づかれれば、その時点で優は殺されるだろう。優さえ死ねば、機密文書の内容は闇の中。

 そうなる前に、トレバーは裏で組織への『攻撃』を行っている。現在、組織の幹部が潜伏中の中国に現地入りしている。本物のマイクロチップの奪取と、組織への交渉を行うためだ。この交渉が上手く行けば、優は組織のターゲットから外れる。

 そして、その間の組織への『防御』はミカの役割だった。

 トレバーによる組織への『攻撃』が完了すれば、優の安全が保障されるが、それまではミカが優を守らなければならない。

 この計画、優には伝えていない。余計な心配を掛けさせないためと、もしも尋問された時、素人の優ならボロを出してしまうかもしれないからだ。簡単にはこちらの計画がバレる心配はない。

 それでも優に危機が迫っていることに変わりはない。

 痺れを切らせたニコルが優殺害に踏み切る可能性もゼロではない。

 だからミカは急ぐ。

 兄を救うために。

 大切な家族を守るために。

 走りながら、ミカはGPSの反応を確かめる。

 常に移動しているものの、向こうは拉致した相手を運んでいるので、やはりこちらの方が速い。最初に離されてしまった距離をミカは段々と詰めていく。

 50メートル……。40メートル……。30メートル……。


「っ!?」


 後少しで追い付くというところで、ミカは足を止めた。

 繁華街から離れた細い路地。

 閑静な地域。他に人通りはない。

 そこで急にGPSの動きがピタリと止まったのだ。

 ニコルがGPSの存在に感づき、優のスマホを捨てたのだろうか。

 いや、曲がり角から人の気配がする。こちらの追跡に気づき、待ち伏せしているのかもしれない。角を曲がった途端、こちらに攻撃を仕掛けて来るつもりか。

 そう思ったミカは、ゆっくりと曲がり角から様子を窺う。


「え……?」


 見知った顔がそこにあった。

 それは確かに見知った顔ではあった。

 しかし、探し求める優でもニコルでもなかった。

 ミカは困惑しながら、その人物に歩み寄る。

「あれ? ミカちゃんじゃない。奇遇だね、こんなところで」

 そこにいたのは、阿澄 加純だった。

 今日は日曜日だが部活の帰りだろう。制服姿で吹奏楽部のバッグを担いでいる。

 加純がここにいること。それ自体は別におかしくない。確かこの界隈は彼女の通学路だったはずだからだ。

 だが、どうしてだ。

 どうしてGPSが加純に反応しているのだ。


「ねえ、ミカちゃん。さっきニコルちゃんが凄い勢いで走って行ったけど、もしかしてそれと関係あるの?」

「ニコルを見たの!?」


 ミカが普段見せないような激しい剣幕をしているので、加純は戸惑いを見せている。


「う、うん……。すごく急いで走ってたし、呼び止める暇もなかったけど……」

「兄さんは一緒じゃなかった!?」

「え、加賀美くん? ……ううん、ニコルちゃんしか見なかったけど」


 馬鹿な。

 ニコル一人しかいなかっただって。そんなはずがない。あの場から優を連れ去ったのはニコルだ。ニコルしかあり得ない。だったら優はどこに消えたのだ。


「あっ。もしかしてこれってさ、やっぱり加賀美くんのなのかな?」


 そう言って加純が見せて来たのは、優のスマホだった。


「兄さんの……。どうしてカスミがこれを……?」

「これ、ニコルちゃんが落として行ったの。見覚えあるなあと思ったけど、やっぱり加賀美くんのだったのね。加賀美くん、いつもこれでゲームしてたしよく覚えてるよ。けど、何でニコルちゃんが加賀美くんのスマホ持ってたんだろう……」


 加純は首を傾げながら、ミカにスマホを渡して来る。手に取って改めて確認してみるが、間違いなく優のスマホだった。GPSが反応しているのが何よりの証拠だ。

 何ということだ。ニコルが逃走中にGPSに感づいて捨てたのか、たまたま落としたのかは分からないが、これでは二人の行き先が分からなくなってしまった。

 しかし、それなら優はどこに行ってしまったのだろうか。

 加純によれば、ニコルは一人でここまで走って来たという。

 だとすればどこかのタイミングで優の身柄を隠し、優のスマホだけを持って走り回っていたということになる。

 いや、そうではない。

 ミカは思い出す。

 優を狙う暗殺者は二人という話だ。

 貂熊(ウルヴァリン)と浣熊(ラクーン)というコードネームの二人組。

 ニコルが最初からGPSの存在に感づいていたとすれば、どこかのタイミングで優の身柄をパートナーに渡し、自分はGPSを持ってオトリとなったというところだろうか。

 そうだとすれば、ミカはまんまと見当違いの方向を追わされていたことになる。


「……カスミ。ニコルがどっちの方に行ったか分かる?」

「南町の方向だと思うけど」

「そう。分かった」


 優を連れているであろうもう一人のパートナーを探すか。

 先にニコルを捕まえて居場所を吐かせるか。

 どちらにせよ、この場に留まる理由はない。

 優を救うためには動くしかないのだ。


「ちょ、ちょっと待ってよ、ミカちゃん! 加賀美くんに何かあったの!?」


 だが、ミカの思いとは裏腹に、加純が腕を掴んで止めて来た。

 この時間のない時に……。

 振り払うのは簡単だが、大事な友人に乱暴はしたくないとミカは思った。そっと手を添えて離すように意思表示をするに留める。


「……ゴメンね、カスミ。今度ゆっくり説明するから。今は行かせて……!」


 遠慮しつつも、強めの語調で言う。

 それでも加純はミカから手を離さなかった。


「ううん。ちゃんと今、説明して。ここ最近、何だかずっと二人に除け者にされている気がするの。……私だって、加賀美くんのこと心配だもの。何かあったなら教えてよ」


 ミカは加純の目と手を順に見比べる。説明するまでは絶対に離さないという強い意志を感じさせられた。

 こんな強情な雰囲気の加純は初めて見る。

 除け者にしているつもりなんてなかったが、ミカが組織とのいざこざに加純を巻き込まないために、ここ最近はなるべく側にいないように努めて来たのは事実だ。それが加純にとっては避けられているように感じてしまったのだろう。


「私が力になれることなら何でも言って。私たち友達でしょ? 何か変なことに巻き込まれてるの? 悩み事があるなら言ってよ」


 そうだ。ミカにとって加純は友達だ。

 日本に来て、いや、これまで生きて来た人生の中で、初めて出来た友達だ。

 ずっと血肉で汚れた世界しか知らなかったミカにとっては、平穏な世界の象徴でもあった。自分が戦士ではなく、一人の少女であることを実感出来る存在だった。

 だからこそ、巻き込みたくないのだ。暗殺者とか犯罪組織とか、そういう平穏とは対極の世界のことには。

 何より説明したところで理解してもらえるわけがない。彼女たちの世界(なか)では漫画や映画といったフィクションの話のこと。冗談はやめてと笑われるのが関の山。


「……私じゃ役に立てないのかな? 頼りにならないかな?」


 加純は今にも泣き出しそうな表情で尋ねて来る。

 はっきり言ってしまえば、その通りだ。状況を説明して仮に理解してもらったところで、加純では優を救うことは出来ないし、彼の役に立つことは出来ないのだ。


「ゴメンなさい。加純では兄さんを助けられない」


 変な優しさはいらない。今は一刻を争う。そう思い、ミカははっきりと言葉にして告げた。

 それから極力優しく加純の手をそっと引き離した。


「そっか……。私じゃ加賀美くんの役には立てないんだね……」


 加純は引き離された手を見つめながら、残念そうに言う。


「あ」


 その瞬間。

 ミカは気づいてしまった。

 今までの違和感が一気に収束したような、難解なクイズに正解したような、そんな気分だった。

 だが、達成感や爽快感などはなかった。


「……ねえ。カスミ。電車でチカンされた日のこと、覚えてる?」

「え? どうしたの、急に?」

「いいから答えて」


 加純は友達。

 それは間違いない。

 だからこそ、はっきりさせなければならないことがある。

 ミカの真剣な様子に戸惑いながら、加純は質問に答える。


「……もちろん覚えてるよ。痴漢されて怖かったことも、痴漢さんをやっつけた時のミカちゃんがカッコ良かったことも。あんなすごい出来事、一生忘れないよ」


 優とミカと加純。学校への登校の時、電車がよく一緒になるのだが、あの日はいつもとは違い、加純が痴漢されるという大きな事件が起こった。

 嫌な思い出だが、大切な思い出でもある。優とミカ、大事な友達二人に助けてもらったことがとても嬉しかったからだ。

 加純はそう語った。


「じゃあ、その日の放課後のことは覚えてる?」

「放課後……?」

「放課後、クラスのみんなで映画を観に行ったの。その時、カスミも誘われていたけど、一緒に来なかったよね」

「ああ、うん。そうだったね。それも覚えてるよ。ホントは私もみんなと映画行きたかったんだけど、どうしても無理だったから断ったの。とても残念だったの覚えているよ」

「どうして来なかったの?」

「え? あの時、ミカちゃんにも言わなかったっけ? あの頃は、吹奏楽部の大会が近くて、部活が忙しかったからだよ。みんな必死で練習してるのに、私だけ遊びに行くわけにはいかなかったし」


 ミカは首を横に振る。


「それは嘘だよね、カスミ。その日は部活がなかったんだから」

「……え?」


 それは、ミカが後で調べて分かったことだ。

 あの日の放課後。部活に所属している生徒たちは早く帰るように通告がされていた。表上は、学校設備の一斉点検で業者を入れるため、とされていた。

 真実は違う。

 組織が裏切り者の穴熊(バジャー)を学校で処刑する作戦が行われるために人払いをしていたからだ。

 つまり、あの日、加純の所属する吹奏楽部も活動はされていなかった。

 とすれば、加純は嘘をついていたということになる。それ以外の理由で映画の誘いを断ったのだ。


「ねえ、カスミ。どうしてそんな嘘をつく必要があったの?」

「………………」

「あの日の夜、本当はどこで何をしていたの?」

「――アハハハハハハハハッ!」


 加純は突然笑い出した。

 クラスメイトたちとの会話でも見せるいつもの笑い方だった。学校で毎日のように見て来た友人の笑顔だった。

 けれど、ミカの瞳にはいつもの加純は映っていなかった。

 ――誰なんだこの子は。


「……ふーん。ミカちゃんって凄いんだね。運動神経だけじゃなくて、勘までいいなんてさ。『確かにあの日、部活はなかったけど、私は一人黙々と自主練をしていた』とか、まだまだ言い訳は思いつくんだけどさ、これ以上誤魔化してもきっと無駄だよね。あなたは今、私を疑ってしまっているんだから」


 そう言い終わるか終わらないかの刹那。

 加純は持っていた吹奏楽部のバッグを大きく振りかぶった。


「っっ!」


 ミカは咄嗟に反応してそれをかわす。

 空を斬ってバッグは路地脇にあったパイプ管にぶつかり、そのパイプ管は無惨にへし折れた。常人ならば反応出来ずに顔面を無惨に砕かれていただろう。

 そのまま加純は、衝撃で引き裂かれたバッグから金属製の何かを取り出す。

 ミカは楽器というものに馴染みがない。それでも、加純の取り出したそれが、吹奏楽部で使う楽器のどれでもないのは一目で分かった。

 武器だ。

 音を奏でる道具などではない。人を殺すための道具だ。

 全てをミカは理解した。

 積み重なった疑惑が確信へと変わった瞬間だった。


「……やっと分かったよ。教室で私を兄さんから引き離そうとしたのは、そういうことだったのね」


 ミカは思い出す。教室で優とミカがくっ付いているのを加純が力づくで引き離して来たことを。優とミカが一緒にいると妙に不機嫌になっていたことを。

 そのことをクラスの女子がこう言っていた。「加純ちゃんは加賀美くんが好きだから、ミカちゃんにヤキモチ焼いているんだよ」と。

 いいや、そんな理由なんかではなかった。

 加純は狙っていたのだ。

 優の命を。


「うん、そうだよ。ミカちゃんが邪魔だったから、二人を引き離そうとしたんだよ」


 加純は「邪魔」という単語を強調して言う。


「あなたも組織の人間だったのね……。ニコルと同じ……」

「……へえ、ニコルちゃんのことも気づいていたんだ。それに、どの程度までかは分からないけど、ミカちゃんも組織のことを知っているんだね。組織ってね、全国各地にエージェントを潜り込ませているの。『駒』って言った方がいいかな。私もその一人でね、普段は普通の高校生として生活しているんだけど、裏では組織のエージェントとして働いているの。あの日の夜も、裏切り者の穴熊(バジャー)を掃除するために私は派遣された。私の潜伏先である学校に穴熊(バジャー)をおびき寄せ、組織の兵士たちを使ってね。その作戦準備もあって、あの日、映画には行けなかったの。けど、あの程度の嘘で私の正体に行き着くなんて、ミカちゃんって本当に凄い子なんだね」

「ううん。確信を持ったのはたった今。あなたは私に明確な『殺意』を向けた。ずっと隠して来たそれを、あなたは発してしまった。それさえなければ、私はあなたが暗殺者だとは思わなかったでしょうね」


 ミカは加純に疑念を抱いていた。部活についての嘘。映画に行けなかった理由を嘘をついてまで隠したこと。しかし、そんなのは些細な疑念に過ぎなかった。思春期の少女なら隠し事の一つや二つくらいあるものだとミカも座学で学んでいたので知ってはいる。

 些細な疑念が疑念以上に発展した理由。

 それは『匂い』だ。

 プロの暗殺者は訓練によって、ほんの少しでも変化を感知すれば、相手が殺意を持った者かどうか見抜くことが出来る。視覚と聴覚で相手がプロなのか、あるいは敵なのかどうか判断出来るのだ。そして、逆もまた然り。暗殺者だちは皆、表情の変化や声色の変化で正体が見抜かれないようにする訓練を徹底している。

 加純やニコルもそうだ。完璧に一般人を装っていた。いかに訓練を積んだ人間でも容易には見抜けない。それほどに彼女たちの演技は完璧なものだった。視覚や聴覚では絶対に正体が見抜かれることはなかった。

 しかし、どれほど訓練しても、隠し切れない人体の変化が存在する。

 匂いだ。

 感情に変化が出た時、ストレスを感じた時、人間は脳内や身体に化学物質を生み出す。アドレナリンが代表的なものだろう。常人には嗅ぎ分けられないレベルのものだが、人間はその匂いを無意識に発してしまう。目で見える変化や音は訓練で隠すことが出来るが、匂いの変化は必ず起こる。どれだけ訓練しても完璧に消すのは不可能。

 匂いの変化を防ぐ方法は、化学物質を生む原因となる精神の変化を起こさないように努めるしかない。

 今まで加純は、ミカや優の前ではその感情を抑えて来た。だから、匂いの変化を起こさなかったし、ミカも彼女が暗殺者であると見抜くことが出来ずにいた。

 加純はミカの前で晒してしまったのだ。

『殺意』という感情の変化を。

 それによって、彼女は微妙な匂いの変化を発してしまい、視覚でも聴覚でも見抜けなかったが、ミカは嗅覚で彼女がプロだと見抜くことが出来たのだ。


「……そっか。注意はしてたんだけど、ターゲットの前で感情を表に出してしまうなんて、暗殺者として失格だね。けど、そんなレベルの変化を嗅ぎ分けるなんて、ミカちゃんも『プロ』なんだね。あの日、痴漢さんを倒したあの動きを見た時、ひょっとしてとは思っていたけど。組織のことを知っているのもこれで納得出来たよ」


 言いながら、加純はバッグに隠していた武器を両腕に装着する。


「それじゃあ、容赦する必要はなさそうだね」


 加純が吹奏楽器のバッグに隠し持っていた武器。それは単純な銃火器の類ではない。

 金属製の手甲(アームカバー)だ。それを装着することで、加純はあたかもパワードスーツを腕周りにだけ着込んだようなフォルムとなった。

 その状態で、ミカに向けて攻撃体勢を取る。


「まさか、ミカちゃんもこっち側の人間だったなんてね。私以外にこんな身近に存在するなんて、未だに信じられないよ」

「それは違うよ、カスミ。私は暗殺者(そっち)側の人間じゃない。私のこの力は兄さんを殺すためのものじゃない。守るためにあるのだから」

「………………」


 途端、加純の表情が変わる。

 今まで見せたことのない冷たいものへと。

 隠す気などない。匂いで探る必要もない。視覚だけではっきりと確認出来た。

 はっきりとミカに対して殺意を向けているのだ。


「……そう。だったら、止めてみなさいよ。この暗殺者(わたし)を」


 地面に衝撃が走る。

 加純が装着した手甲で殴り掛かって来たのだ。

 ミカがそれをかわし、さっきまで立っていた地面に加純の拳がめり込んでいた。


「――私のコードネームは浣熊(ラクーン)。組織にとって邪魔な存在を綺麗に洗い落とすのが役割。これは充電式炸裂手甲。原動力は電力のみ。火薬も弾丸も持ち要らずに相手を破壊する武器。証拠は何一つ残さない」


 再度、殴り掛かって来る。

 ミカが再び攻撃をかわすと、今度は背後の塀に加純の拳がめり込んだ。

 加純が殴った部分。塀のピンポイントだけが、跡形もなく消し飛んだ。それほどの破壊があったのにもかかわらず、ほぼ無音。破壊を一点にのみ集中することによりのみ起きる現象。ノイズキャンセリングの一種。

 これ程の破壊と衝撃を発する装備。相当のフィジカルがなければ使用者は負荷に耐えられないはずだ。ミカの動体視力があるからこそ避けられたが、拳を繰り出す動きの速さも凄まじい。いかに彼女が鍛え抜かれた人材なのかが見て取れる。

 先ほどミカが倒した二人組の男とはまるで違う。

 彼女は正真正銘のプロ。


「これが私の暗殺術だよ。この拳を喰らえばどんなに鍛えた人体でも耐えられない」


 圧倒的な力で速やかに破壊する。

 普段の加純のイメージとは対極に位置するような戦い方だった。

 ただ対象を破壊する。

 そのために加純はまた手甲を構える。

 攻撃をかわしながら、ミカは冷静に分析・解析をしていた。

 確かに恐るべき攻撃(あんさつ)だが、強力な一撃故に、どうしても一瞬の予備動作がある。

 見てかわすことも、反撃に転じることも、ミカには容易だった。

 しかし。


「……カスミ。あなたとは戦いたくない」


 ミカは反撃を躊躇していた。

 加純は敵だ。優を狙う組織の暗殺者だ。これはもう揺るぎようのない事実だ。

 それなのに、ミカは彼女と戦うことを躊躇してしまうのだ。

 日本に来るまでは、こんな気持ちになったことはない。

 目の前の敵との戦いから逃げ出したい。

 こんな気持ちには。


「……戦いたくないですって? ……私もだよ、ミカちゃん。同じクラスで、いつも

仲良くして来た友達なんだから、そんなの当たり前だよ。けどね、『この世界』でそれは通用しないよ。個人の感情なんて関係ない。殺せと命じられれば親でも殺す。それが当たり前なんだよ」

 そう言って加純は攻撃を再開した。

 ミカは理解していた。

 加純の――浣熊(ラクーン)の目的は時間稼ぎ。

 ニコルが優からマイクロチップの在りかを聞き出すまでの。

 そして足止めの最高の方法は。


 ――息の根を止めることだ。

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