第二章-02 暗殺妹 ミカ・ミラー
※
時節は12月。
場所はアメリカ、シカゴ州。
とある大衆食堂で食事を取っている時だった。
ミカ・ミラーは、父のトレバー・ミラーから、衝撃の事実を打ち明けられた。
「暗殺者稼業を辞めて日本に行く……?」
ミカは、たった今、父から言われた言葉をそのまま口にした。
「ああ。前に話していただろ? 生涯を共にしたい素敵な人と出会ったって。パパはその人と結婚して新しい人生を送る。もちろん、ミカにも日本に付いて来てもらうぞ」
トレバーは愉快そうに笑いながら言う。相手の女性の人なりの良さや、これからの生活の展望を楽しげに語っている。
だが、娘のミカには簡単に受け入れられる話ではなかった。
結婚。それ自体はまあいい。抵抗がゼロではないが、父がそれで幸せになれると言うのならそれでいい。
問題は『暗殺稼業を辞める』という部分だ。
ミカにとってトレバーは、父であると同時に、尊敬する師匠でもあった。ミカは物心付く頃より、偉大な暗殺者のトレバーから直接、暗殺術を仕込まれて来たのである。
あらゆる銃火器類の使い方。毒物劇物の取扱い。各種車両の運転技術。語学力と交渉術。ハッキング技術。スニーキング術。変装術。その他諸々。
暗殺に使う、ありとあらゆる能力を身につけて来た。
全ては『世界最強の暗殺者』である父の跡を継ぐためだ。
トレバーは世界的に『有名な』最強の暗殺者ではあるが、個人も組織も含め、顔や名前はおろか、その存在すらもほとんど『知られていない』。
有名なのに誰も知らない。一見、矛盾しているようだが、それこそが暗殺者として有能な証拠。
暗殺には大きく分けて2つの主旨がある。
対象を見せしめとして殺すこと。
対象をこの世から抹消すること。
前者であれば、殺す方法は問われない。対象が『殺された』という結果さえ示せればそれでいい。だが、後者であれば、誰にも悟られずに対象を消すことが重要視される。
自然死。事故死。病死。自殺。消息不明。
殺した相手が『他殺ではない』と装うことが、最も必要な能力なのだ。依頼した人間以外に『殺した』と知られた時点で、それはもはや『暗殺』とは呼べないのだ。
誰も知らない。
故に、最強の暗殺者なのだ。
トレバーが殺しの依頼を請ける時は、仲介役を何人も挟む。そうやって己の存在は隠しきって来た。
『隠された兵士(ハイドアンドソルジャー)』
『見えざる脅威(ファントムメナス)』
『混沌より這い出る悪夢(ディープ・ザ・ナイトメア)』
トレバーを指す言葉は、世界中に何通りも存在する。
その全てがトレバーを指す呼称ということすら知らずに依頼をして来る者がほとんどだ。
世界中の指導者、有力者、識者たちの多くがトレバーを頼る。彼によって裏で消された人間は後を断たない。依頼した者が、後にターゲットになるケースなんかもあった。
彼の娘のミカは、トレバーのような暗殺者を『必要悪』だと捉えている。
時にトレバーは、紛争地域に潜入し、紛争の火種を暗殺する。そうやって紛争を早期解決させたことが何度もある。そのことで救われた兵士や民衆は何万人といるが、誰一人、トレバーに救われたという事実すら知らない。
ミカにとってトレバーは『英雄』だった。娘のミカだけが、トレバーが英雄だということを知っている。
知られざる英雄。
ミカも将来、そうなりたいと思っていた。そうなることが当然のことで、生まれた時から自分に与えられた運命であり目標だった。
暗殺者の父と共に、暗殺者として生きること。
それが自分の全てだと思っていた。
――だが、その憧れのトレバーが暗殺者を辞めてしまう。
ミカにとってはあり得ない話だし、頭が付いて行かなかった。
「ミカ。お前はこれからオレと一緒に日本に行き、普通の女子高生として生きてもらう」
やはり、トレバーの言う言葉に頭が付いて行けない。
私が普通の女子高生として生きる……?
今までトレバーは、ミカに暗殺者として生きるための教育しかしてこなかった。それなのに今更「普通の女子高生として生きろ」とはどういうことなのだ。
そんな話にいきなり「はい、そうですか」と納得出来るわけがない。
今までの厳しい訓練は何だったのだ。父の後を継いで暗殺者になると決心した幼き誓いは何だったのだ。
……ああ、そうか。そういうことか。
やがてミカの頭の中で一つの結論が浮かんだ。
きっとこれもいつものトレバーからの訓練の一環なのだろう。
日本へと渡り、現地で身分を偽り、普通の女子高生として振る舞う。そういう暗殺者としての潜入訓練。
そして、父はただ暗殺者を辞めようというわけではない。
現役を退き、娘の自分を正式に後継者にしようとしているのだ。
父の強さは、娘であるミカが一番よく知っている。まだまだ現役で戦える。だが、それでもいつ何時、命を失うか分からないのが暗殺稼業。慎重な父のことだ、大事を取って、今のうちに娘の自分に全てを受け継がせようというのだろう。
そう結論付けたミカは、先ほどまでと一転し、父に対して心の底から感激した。それほど父が、自分のことを信頼してくれていることと、自分の力を認めてくれていたことにだ。
だからミカは、笑顔でこうトレバーに返答した。
「分かったよ、パパ。行こう、日本へ」
「おお、そうか! 良かったよ、ミカ! お前が素直ないい子で本当に助かる」
ミカからの快い返事を聞いて、トレバーは嬉しそうに笑っていた。
大きな手でミカの頭を優しく撫でる。
――見ていてパパ。
――必ずパパの期待に応えてみせるから。
「よ、よろしくお願いします!」
ミカの目の前で、同い年の男の子が緊張の面持ちで挨拶をしている。
ここは日本のレストラン。豪華で煌びやか飾り付けをされていて、つい先日まで滞在していた合衆国にある店とも遜色がない。トレバーからの指示で、普段しないようなおめかしをして、ミカは客席に着いている。普通の女の子を演じるために。
そこでミカは、トレバーから『新しい家族』を紹介された。
たった今、自己紹介をしている少年の名前は、加賀美 優。
トレバーの結婚相手の息子。ミカにとっては、これから『兄』となる人だ。
素朴な少年。どこにでもいる普通の日本の男の子。
第一印象は『頼りなさそうな人』だった。
もちろん、父より強い人間なんていないし、比較するのは可哀相だが、どうしてもそう感じてしまう。身体能力も知識も何もかも、父には遠く及ばないことだろう。
何より筋肉が足りない。父のような男性としての魅力は微塵も感じなかった。
そう。
ミカ・ミラーは筋肉フェチだった。
「よろしくね、ミカちゃん」
これから母となる人は、ミカに優しい笑顔を向けた。
母。
生まれてからずっと、ミカには存在しなかった。
どう向き合えばいいのかさっぱり分からなかった。
父が愛する人を、これから自分も愛せるだろうか。
様々な思いを巡らせながら、その日、ミカは『加賀美 ミカ・ミラー』となった。
年が明け、春になり、ミカとトレバーは正式に日本へと移住した。
新居に引っ越し、家族四人での生活が始まり、トレバーはカメラマンという『表』の仕事を。ミカは日本の高校に通うようになった。
ミカにとって日本での生活、もっと言えば『普通の少女としての生活』は戸惑いの連続だった。日本の家庭で暮らすことも初めてだし、一般人に混じって学校に通うということも、ミカにとっては初めての経験だった。
社会的常識。立ち振る舞い。その全てを座学による『知識』でしか持たないミカは、いざ実践となった時の難しさに驚いた。
周りから見て、何かおかしな行動をしていないか、気が気でなかった。いきなり暗殺のぶっつけ本番だったなら、失敗もあり得ただろう。やはり父のやることはいつも正しい。こうやって、潜入訓練を受けさせてもらえて正解だった。
初めのうちは、ただの演技として過ごす日々だった。
ミカにとっては、あくまで暗殺者の訓練であったし、いわば仕事の延長上に過ぎなかった。
しかし、ミカは意図せず、徐々に『普通の少女としての生活』に充実感を覚え始めてしまう。
いつの間にか、加純を始めとして、同世代の友人を多く得ていた。
ショッピングと言いながら何も買わずに店を回るだけの行為が楽しかった。屋台で買ったどこにでもあるソフトクリームの味が最高に美味しかった。
友人たちが側にいる。
たったそれだけのことなのに、どうしてこんなに心が弾むのだろう。
ミカには分からなかった。
そんなある日のことだった。
ミカの仕事用のPCに連絡が入った。
暗殺の依頼だ。
3年前からミカは、父の連絡係を担当している。仲介人からの依頼の連絡は、このPCに届くようになっているのだ。特殊な暗号通信を使っているので、身元を特定される恐れはない。
ミカはトレバーに伝える。仕事の依頼が入ったことを。
とある大きな組織からの暗殺依頼だった。何度かトレバーは、その組織の仕事をこなしたことがあった。
「……ミカ。オレはもう暗殺の依頼を請ける気はない。そう言ったはずだが?」
依頼が入った旨を伝えると、トレバーはそう答えた。
トレバーは本当に暗殺稼業を引退したのだ。宣言通り、日本(こちら)に来てから、一度も暗殺(しごと)をしていない。
なるほど。父がその気なら、ミカのやることは一つだ。
部屋に戻ったミカは、仲介人にこう返信した。
『依頼をお請けします。詳細を送られたし』
ミカは決断した。
これからは、父の代わりに自分が全てを殺(や)ると。
トレバーが依頼を請けないということは、後継者の自分に一任するということなのだろう。ミカはそう考えたのだ。
尊敬するトレバーが自分に暗殺者稼業を継がせたというのは、光栄である以上に畏れ多かったが、それでも父の期待に応えたいという思いで自らを奮い立たせた。
その後もミカは、一人で組織との交信を続けた。仲介人を挟み、身元が特定されないようにしたうえで、依頼人との情報交換を行ったのだ。
それはいつもと同じ作業だった。
だが、今回はいつもと違うことがある。
実際に仕事(あんさつ)をするのは、ミカ自身ということだ。
何度かのやり取りを通じて、ミカは依頼の詳細を知った。
それは『組織の重大な機密情報に関わった一般人を抹殺して欲しい』という内容だった。
発端は、コードネーム・穴熊(バジャー)という男が、組織を裏切ったことだ。穴熊(バジャー)は逃亡中に抹殺されたが、死に際に日本の男子高校生と接触。組織の重大な機密情報の詰まったマイクロチップを渡していた。マイクロチップはすぐに回収され、その少年は一時は解放されたものの、中の機密情報を知ってしまった可能性がある。だから、その少年を秘密裏に消して欲しいという依頼である。
ターゲットの情報収集・諜報活動。これも父から学んだ能力。ミカにしてみれば、あらゆる情報機関へのハッキングも容易い。たかだが日本の1億人規模なら、二、三日あれば、どこの誰であるか特定可能。
たとえ、暗殺対象が身を隠し、潜伏していようとも、必ず見つけ出して始末してみせる。ミカにはそれが出来る自信があった。
だが、その依頼は、ミカの想像よりも圧倒的に簡単な内容だった。
ターゲットの身元調査。
それは、送られて来た写真を見た時点で達成したからだ。
暗殺のターゲットは、自分の兄。
加賀美 優だったのだ。
「――どうした、ミカ?」
その日の夕食の時間は、異様に時間が長く感じられた。
「何か俺の顔に付いてるか? さっきからチラチラ見てたけど」
「……ううん。何でもないよ、兄さん」
ついつい、視線を送ってしまう。
加賀美 優。
今回の暗殺のターゲット。
ミカは思う。自分にとって彼はどういう存在だろうか。
特別な人ではない。『家族』とされてはいるが、形式上、表面上というだけ。ひとつ屋根の下で一緒に暮らしているというだけの間柄。
だが『正体がバレないように注意しなければならない相手』という意味では、常に気にはしていた。家でも一緒。学校でもクラスが一緒。特に優の前でボロを出さないように常に気を張っていた。
初めの頃は、警戒のためになるべく距離を取ろうとした。会話も最低限に努めた。
しかし、こちらの思惑に反して「兄だから」というよく分からない理由を立てて、いつも自分の近くにいようとして来た。頼んでもいないのに勝手に世話を焼いて来た。「町を案内するよ」と外に連れ出されることもあった。拒否すれば余計に怪しまれると思い、しょうがなく同行するようにはした。
一緒に街を歩いている時、ミカは知らない男性に声を掛けられることが頻繁にあった。よく分からないが、優が言うにはミカが可愛いのが原因らしい。その気になれば簡単に『口封じ』出来るが、普通の少女を演じなければならない。どう処理していいものかいつも困った。
そんな時は、頼んでもいないのに、決まって優が庇ってくれた。
優より大柄で怒らせると面倒そうな人物にも彼は立ちはだかった。もしも喧嘩を売られでもしたら勝てるのか訊いたら「全然弱いし多分負ける」と優は答えていた。なのにどうしてそんなことをするのか、ミカによく分からなかった。
そう言えば、前に加純に聞いたが、ミカがクラスに友人が出来るようになったのは、優のお蔭らしい。彼は加純と一緒になって、クラスのみんなに声を掛けてくれたのだそうだ。「妹と仲良くなって欲しい」と。
それだって頼んでいないし、勝手に全部この人がやったことだ。友人が増えればそれだけ正体がバレないように警戒しなければならない相手が増えてしまう。
こっちの都合なんてお構いなしだ。
迷惑千万。
ただただ、邪魔な存在。
優に消えてもらえれば、この先の隠蔽生活は楽になるだろう。
そう思いながら、ミカは優を見つめる。
……しかしだ。
この人を暗殺することを想像すると、手が震えるのは何故だろうか。
胸がムカムカして来るのは何故だろうか。
出来ることならいなくなって欲しくないと思うのは何故だろうか。
……殺したくないと思うのは何故だろうか。
やはりミカには分からなかった。
ミカは、兄、加賀美 優への暗殺計画を開始した。
一度、依頼を請けた以上、途中放棄するようなことをして、父の顔に泥を塗るわけにはいかない。たとえ暗殺対象が兄であろうと、父のように、冷酷に冷静に実直に仕事(あんさつ)をこなそう。そうミカは決意を新たにしていた。
この初任務、絶対に失敗するわけにはいかない。これからの暗殺者人生の最初の一歩を踏み外すわけにはいかない。父の後を立派に継ぐためにも。
とはいえ、あまりに簡単な仕事だった。
戦闘能力のない一般人のうえ、優は完全に自分に気を許している。あまりに隙だらけだし、おまけに面倒を見ようと何かと近くに来る。
食後、ミカはリビングでテレビを観ている優の隣に座ってみた。
ぴったりと横に付く。
拒絶はない。優はその状況を受け入れている。
……ほら、簡単に懐に入れた。
この場で今すぐ殺せるが、慎重に行動しよう。家の中には無関係の母がいるし、目撃される可能性がある。やるにしても、絶対に気づかれない状況でだ。
「ねえ、兄さん」
「な、何だ……?」
「兄さんの好きな食べ物って何?」
ミカは優に好物を尋ねてみた。こんなことは初めてだった。
「……え、えっと、ハンバーグ、かな? 基本的に好き嫌いはないぞ。けど、どうしてだ?」
「ううん。何でも。ちょっと訊いてみただけ」
料理や飲み物に毒を盛れば、100パーセント殺せる。そのための下準備だ。好物に盛れば警戒心もなく口にしてそのままあの世行きだ。
ミカは内心でほくそ笑む。
「……おい、ミカ」
「なに、兄さん?」
「ふっ……。俺はいつでも歓迎しているぜ?」
「……っ!?」
優の不敵な笑顔を見て、ミカは思わずソファーから立ち上がり、逃げるようにしてリビングを後にする。
どういうこと?
歓迎している?
何を?
まさか私の思惑に気づいて……?
ミカは首を横に振る。
いや、そんなわけがない。優は自分とは違い、特殊な訓練を受けていない一般人。仮に気づいたとしたら、あんな余裕を見せられるはずがない。
念のために毒殺は避けることにした。
翌日からミカは、優の側に付きまとった。
もちろん、暗殺の機会を窺うためだ。
幸いと言うべきなのか、自分と優(ターゲット)は兄妹の関係だ。家の外だろうと、一緒にいても不自然ではない。チャンスは24時間、常に存在した。家の外で事故に見せかけて殺すもよし。家の中で殺害し、遺体をどこかに遺棄するもよし。
最終的にミカは、家の中で優を殺害することにした。母にさえ気づかれなければクリア出来るからだ。夜に仕留め、夜の間にどこかに遺棄し、失踪したように見せ掛ければいい。
一般人の高校生が急死することは、どうしても周囲から疑惑が向けられてしまう。死んだということすら発覚させない。これが一番穏便にことを済ませられるだろう。
計画実行は深夜で決まりだ。
次に決めるのは殺害方法だ。
寝ている間に殺るのもいいが、何かの拍子に急にターゲットが目を覚まして悲鳴でも上げられたらマズイ。
絶対に失敗出来ないこの初任務。
必要なのは完全無欠な暗殺だ。
自分にしか出来ない完璧な計画――。
ミカは思い出した。
これまで父から多くの暗殺術を習って来たが、唯一父が自分に教えるのを渋った暗殺術が存在したことを。
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