第一章-02 俺の妹が暗殺者のわけがない

「おはよう、加賀美くん、ミカちゃん」


 学校への登校途中、駅のホームで俺たち兄妹に声を掛けてきたのは、俺たちのクラスメイトにしてクラス委員長の阿澄加純あすみかすみだった。加純は吹奏楽部に所属しているが、今日はどうやら朝練がないので登校が一緒になったようだ。


「ういーっす。加純、おはよう」


 肩のところできっちりと切り揃えた黒髪。飾りっけのない学校指定の手提げカバンや、校則ぴったしのスカート丈の長さ。見るからに性格の真面目さがにじみ出ている。こう言っては本人に失礼だろうが、加純は地味な見た目の女の子である。

 それに比べてだ――。


「おはよう、カスミ」


 流暢な日本語の挨拶をしながらミカはペコリと会釈する。たったそれだけのことなのに、駅のホームにいる周囲の人たちの注目を集めてしまう。赤髪の派手な見た目。西洋人形のような端整で可愛い顔。着ている日本の制服がアンバランスで、コスプレにさえ見えてしまう。

 そんな目立ちまくりなミカと、俺、加純の三人は、並んで電車の到着を待つ。


「ねえ、ミカちゃん。昨日の国語の宿題、難しくなかった?」

「ううん、問題なかったし、ちゃんと全部解けた。漢字も全部読めたよ。カスミが教えてくれたお蔭。ありがとう、カスミ」


 俺の前では表情を変えることがレアなミカだが、こうして加純と喋っている時は決まって表情が少し緩くなる。

 加純はミカにとって、クラスで初めて出来た友達だからだろう。クラス委員長である加純は、転校したてで孤立気味だったミカに最初に声を掛けてくれた女子で一番仲が良い。

 俺にとって妹のミカは、何というか『ほっとけない』子だ。見た目が可愛いからという邪まな感情もあるにはあるが、海外での暮らしが長く、日本の文化や常識をほとんど知らなかったからだ。さすがに四六時中、俺がミカの面倒を見ることは出来ない。だから、面倒見のいい加純がミカと仲良くしてくれていて大助かりなのである。


「……サンキューな加純」


 仲睦まじい様子の二人を見ながら、俺はポツリと言った。

 いきなりのことだったので、加純はぽかんとした顔で俺の方を見ている。


「え? な、何? 急にどうしたの加賀美くん……?」

「いや、いつもミカと仲良くしてくれてさ。ミカが学校で分からないことがあった時も、いつも面倒を見てくれているだろ? クラス委員の仕事や部活だって忙しいだろうに。一回くらいちゃんと礼を言っておこうと思ってな」


 転入当初のミカは、クラスになかなか馴染めずにいた。日本語は話せるものの、物静かなうえ人見知りな性格で、自分から誰かに話し掛けることなんてしない。さらにはハリウッド映画に出ていてもおかしくないルックスが逆にネックになり、浮世離れした見た目のミカに対して、クラスの女子たちの方も話し掛けることを遠慮してしまったのだ。

 しかし、クラス委員長の加純の手助けがあって、少しずつ周囲に馴染むようになった。加純がそれとなくみんなに働きかけたのだ。その甲斐あってか、女子たちに誘われてお昼の弁当を一緒に食べている姿を見るようになった。

 そんな訳で、ついつい俺は、加純への日頃の感謝を口に出してしまったのであった。


「そ、そんな! 私が好きでやっていることだから! それに、そんな風にかしこまってお礼を言われたら照れちゃうよ……」


 加純は宣言通り、照れて顔を赤くしてしまった。


「……兄さん、カスミ。電車が来たよ」


 無言で俺と加純のやりとりを見ていたミカが、俺たちの会話を遮るように言う。線路の方を見てみるとミカの言う通り、電車が駅のホームに入って来るところだった。

 それから俺たち三人が乗車し、学校のある駅へと向かって電車が発車して少し経った時だ。


「兄さんはたまによく分からないことを言う……」

「え?」


 ミカの口から聞こえて来た呟きに俺は反応する。


「何がだ、ミカ?」

「どうしてカスミが私と仲良くしていたら兄さんがお礼を言うの?」


 ミカは俺を上目遣いで見ながら尋ねる。密閉された電車の車内。距離が近いので不覚にもドキドキしてしまう。

 馬鹿野郎。なに妹相手にドキドキしているんだ、俺は。


「……そ、そりゃあ、当たり前だろ。お前が妹で俺がお前の兄貴だからだよ」

「うん、やっぱり意味が分からない。どうして私が妹だったら兄さんがお礼を言うの?」


 ミカは俺を至近距離で見つめたまま、俺からの回答を待つ。


「んーと……。それはだな……。――って、うおおおおお!」


 次の駅で一気に乗客が電車に乗り込んで来た。ものの数秒。乗車率100パーセントを余裕で超える満員車両があっという間に完成した。

 人々の波に押され、俺もミカも加純も、車内で分断されてしまった。当然、会話も中断せざるを得なかった。次が俺たちの降りる駅。それまではこの状態が続く。

 ……どうして妹だったらお礼を言うのか、か。

 電車を降りるまでに、ミカからの質問の答えを考えておくか。

 と、俺が思った時だった。

 電車の中で事件が起こった。

 俺はまず、目線の先にいる加純の様子がおかしいことに気づいた。

 加純は車内の端に追いやられていて、壁の方を向いて身体をキュッと固めているのだが、たまに肩を身震いさせている。


「……あっ」


 俺は人と人との隙間から目撃したのだ。

 加純が後ろに立っているスーツ姿のおっさんに尻を触られているのを。

 おいおい、マジか。

 痴漢なんて実際に見るのは初めてだぞ。

 加純の近くにはミカがいるが、別のおっさんの身体で死角になっていて気づいていないようだ。それにしてもミカではなく、見るからに真面目で大人しい加純の方を狙うとは、卑劣なやつだ。

 助けに行ってやりたいが、みっちりと埋められた人の壁で、俺はここから一歩も動けない。

 加純すまん、少しの間だけ、耐えてくれ。

 やがて、電車が駅に到着した。電車のドアが開き、俺は身体の自由を取り戻す。

 下車と同時に、俺は同じ駅に下りた痴漢野郎の腕を掴んだ。


「……痴漢してましたよね?」

「は?」


 痴漢野郎は恰幅のいい40くらいのサラリーマンだった。自分の腕を掴んでいる俺のことを怪訝そうな表情で見ている。


「……ええと、君は何を言っているのかな? 痴漢? 言い掛かりも甚だしいのだがね」


 はあ……。こいつ惚ける気だぞ……。

 バッチリと俺はこの目で見た。間違いなくこいつだ。

 この痴漢野郎め。絶対許さねえ……。

 別に俺は正義漢ぶりたいお年頃でもないし、進んで面倒事に関わりたい性質でもないが、この事態を黙って見過ごすことは出来なかった。

 加純の瞳には涙が浮かんでいる。あの一瞬で、加純がどれほどの恐怖を味わったのか俺にも伝わって来た。


「謝れよ……。今すぐ謝れ……!」


 怒りを露わにする俺を見ながら、痴漢野郎は肩を竦めてため息をつく。


「やれやれ。証拠があるのかね? まったく、朝っぱらから今日は厄日だよ」

「それは加純の方だ! さっさと認めて加純に謝れよ!」


 俺の怒声を聞いて、痴漢野郎は舌打ちし、何やらブツブツ言い始める。


「……はあ……。るせえんだよ……。こちとらうっとおしい上司と馬鹿な部下に毎日、毎日、イライラ、イライラ、させられてるっつーのによぉぉ……」

「はあ? あんた、何言って――」

「うるせぇっつってんだよぉぉぉッ! ガキがあああああああああぁぁぁぁぁッ!」

「っ!?」


 唐突に放たれた痴漢野郎の奇声にも似た怒声に俺がたじろいだ瞬間だった。


「あっ!」


 痴漢野郎は俺の手を振り払い、一目散にその場から駆け出し、ホームで電車を待っている人たちを押し退けながら逃げやがったのだ。


「くそっ! あいつ!」


 駄目だ。追いかけようと思った時点で、大きく距離を離されてしまった。しかも、おっさんのくせに意外と足が速い。これではもう追い付けないだろう。


「誰かそいつを捕まえて下さい!」


 俺がそう叫んだのとほぼ同時だった。


「……え?」


 一陣の風が吹くと。

 痴漢野郎は腕を掴まれ、逃走する足を止めていた。

 俺は自分の目を疑った。

 痴漢野郎を捕まえたのはミカだったのだ。

 信じられない。ミカは今の今まで俺のすぐ横にいたはずなのに、ホームにいる誰一人にぶつかることもなく、軽快なステップで人々を避け、2、30メートルは離れていた痴漢野郎に瞬く間に追い付き、その腕を掴んでいたのだ。

 ミカが体育の時に走ったり、球技をしたりしている姿を見たことは何度もあるのだが、特別運動が得意な感じではなかった。俺の知る限り、ミカは平均的な女子の動きしかしていなかったはずである。

 だというのに、何なんだよ、今の動きは。

 どこの漫画のキャラクターだよ。

 大袈裟じゃなく、残像が見えていたぞ。


「な、なんだ、お前は!? 離せッ! 離せよッ!」


 痴漢野郎はミカの手を振り払おうとして身体を揺すっているようだが、掴まれている側の腕は微動だにしない。

 華奢なシルエットの女子高生に片手で掴まれているだけなのに、おっさんとはいえ割と体格のいい成人男性が身動き出来ずにいるのだ。

 あのおっさんの方が非力なのか。

 それとも――。


「カスミに謝りなさい」


 ミカは痴漢野郎を睨みながら言う。

 静かだが、確かな怒りを感じさせた。


「う、うるせええんだよおおおおッ! ガキがいっちょ前に大人に命令してんじゃねええええええぇぇッ!」


 あろうことか、痴漢野郎は動かせるもう片方の手を使って、ミカの胸倉を掴んだ。

 最低過ぎる。痴漢だけでは飽き足らず、女の子に暴力を振う気か。

 俺は焦った。

 このままでは大事な妹が傷つけられてしまう……!


「やめ――」


 俺はミカたちの方に向けて走り出そうとした。

 だが、次の瞬間。

 またも目を疑うような光景が広がっていた。

 痴漢野郎が空を飛んだ。

 ミカが頭上に投げ飛ばしたからだ。

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