第6話



 うっかり大切な本をテーブルの上に置いたまま、明日香あすかは休憩室から出た。

 無造作むぞうさに置かれた本を、やって来た誰かがぺらぺらと暇つぶしに捲ってみた。

 朝霞あさかさんかなと思いながら、後書きの最後のページを開くと、明日香あすかへという手書きの文字が目に入る。

 その彼女は驚きのあまり、椅子まで倒した。あまりにも物騒ぶっそうな物音に、お茶を入れていた同僚は慌てて戻った。

 ひっくり返った椅子はそのまま、彼女は手招きをした。首を傾げながら覗き込んだ彼女も、同じように驚き、ぽかんと放心ほうしんまでした。

 こんな身近に居たとは。

 つついてはいけないとわかっていても、突きたくなる好奇心により、しばらくして戻って来た明日香あすかは、しっかりふたりに捕まった。

 朝霞あさか明日香あすかという同僚は、不思議な印象が強い。

 仕事は出来るけれど大人しく、自分から輪に入ってくることはあまりない。周りと常に一線を引き、付き合いもあまり良くない。しかしその印象は悪いものではなく、ひがみやけむたがるやからはいない。

 明日香あすかはいつも微笑んでいるけれど、自分の話をほとんどしないから、私生活がわからない。

 突っ込んでほしくなさそうな雰囲気を明日香あすかが出しているから、深く色々聞くことは躊躇ためらわれたが、これは好機だと、謝罪ついでに彼女らは迷うことなく尋ねた。

「古い友人なの」

 ひかえめに答えた明日香あすかは、少し困ったようにまゆを下げて、しかし教えてくれる気はあるようだった。

「でもね、最近は会ってないんだ。本が出るといつも送ってくれるの」

 照れくさそうにはにかんだのを機に、ふたりは一番知りたい核心かくしんに迫った。

「で、彼氏ってこと?」

 仲良く声をそろえて聞いたふたりに明日香あすかは苦笑いを浮かべた。

 苦笑いの意味は色々考えられるけれど、自分たちの予想が外れるとも思えない。

 そして明日香あすかが続けて言った一言に、ふたりは呆気あっけに取られた。明日香あすかの言葉に、というよりはその表情に。

「彼氏とか、そういうのじゃないよ。でも大切な人、とっても」

 幸せそうに微笑んだその顔は、今まで同僚たちに見せたことのないような、やわらかいものだった。


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