異世界でも平々凡々なら無理ゲーに変わりはない
しぐま ちぢみ
第1話 「始まり ~プロローグ~」
--ひとりの……独りの男が居た。
男は死に場所を求めて、山の中を延々と歩き続けていた。
このまま歩けば、いつか空腹で倒れ死なないかな、と期待しながら、ただ、歩いていた。
全てに絶望し、周りを失望させた自分など、どうにでもなれ、と渇いた喉の奥から自己嫌悪を垂れ流す事でしか、彼の心の渇きを潤すことは出来なかった。
下り坂になり、このまま歩き続けては山を抜けて麓に出てしまうのではないかと男が不安になり始めた矢先、無数の樹木が開けて、絶景が見えた。
山と山の間に位置する細い平地、夕闇の迫る世界の中で、僅かに視認出来る程度の陽に当たって紅に輝く小川、それらを包む緑の毛布。
しかし、彼にはそれらは見えなかった。
彼の目にはただ、断崖絶壁しか、見えていなかった。
崖の上から下を覗く、高い。下には大きな岩もごろごろある。
「ここなら……死ねそうだ」
男はそう一言呟き、躊躇いなく崖を背にして、恐怖を見ないためか、死への安堵感からか、瞳を閉じて、空にもたれ掛かった。落ちていく、堕ちていく。
幼き頃、少年時代、神童と呼ばれ、進学、世界の広さを知り、初恋、失恋、絶望、そして、失敗、失敗、失敗、失敗……
--ああ、俺の走馬灯なんかこんなものか
男は薄れゆく意識の中、ぼんやりとそう思った。
しかし、いつまで経っても落ちる感覚は無くならない。そも、落ちている感覚が無い。
いつの間にか消えている。
それを不審に思い、男は目を開いた。
そして男は、驚異の光景に目を見開いた。
「……まだ落ちてなかったのか?」
そこには、自分が落ちる前に、瞼を降ろす前にちらっと見た光景が広がっていた。
目前には岩肌をさらけ出す広場、そのすぐ先に樹木が並んでいる。
「……く、くは、ははは」
男の喉から、乾いた笑いが出た。
「まだ、死にたくないってか……」
そして、落胆したように尻餅をついた。
いや、安堵なのだろう。
それが、生き物の本能だから。
地面を殴りつけ、腹から苦汁を絞り出すように呟く。
「くそっ!こんな事でも失敗してんのか……俺はどこまで……凡骨なんだ」
「ポンコツなんて今時使う奴がおったのか」
不意に声がした。だが、顔を上げても周りには誰もいない。
こんな辺境に居る者など、猟師でも有り得ない。
顔を落とし、肩を落とす。
「とうとう幻聴まで聞こえてきたか……?」
「これこれ、とうとうスーパーウルトラプリチー美少女の声が聞こえてしまった、なんて言うではない。スーパーウルトラプリチー美少女はここにおるし、儂はスーパーウルトラプリチーじゃぞ」
幻聴とはこうも底抜けに明るい声なのか。
「だったら姿を見せろよ…………幻聴の元凶さんよぉ……」
「下ばっか見て虚しく喋る輩じゃな。そこまで堕ちてりゃ、下見ても何もないじゃろ。ほれ、上を見ろ」
「上……?」
言われるがままに、顔を上方に向けた。
するとそこには、幼女が宙に浮いていた。
翼なんてものは無く、頭の上に輪っかなんかも無い。
服は着ている。素っ裸ではない。
まずそもそも、彼の知る『天使』は、女児の姿などしていない。
「やっと見おったわ」
幼女がそう言う。
男は、頭で理解しきれなかったが、何故か、本能では悟っていた。
--死んでないのか、俺--
と。
「ようこそ、底辺うじうじ蛆虫君」
宙に浮いている幼女は、はっきりそう言った。
男には別に否定する気も無ければ、反論する気も無い。事実だと思ったからだ。
しかし、ここでこの言葉に反応出来なかった一番の理由を答えるならば、頭の中にあった大量の疑問符だろう。
脳科学や人類学等の結論から言えば、人間はマルチタスクに向いた脳の構造をしてない。
男性はそれが特に顕著であるという。
しかし、個人差があると言うのも、底辺は底辺らしくしてろ、と言われているような気がしてならない。
そんな彼は、個人差の最低限レベルを、余裕で下回ってるだろうと自己評価している。
つまり、脳の処理が追いつかなかったのである。
更に厄介な事に、人間の脳は、出来ない事さえ捨てきれずに、処理しようとしてしまうらしい。
そんな所も要領の悪さが顕著に出ている。
死と隣り合わせの中で張り詰められていた糸が、一気に緩んだ気がした。
そんな彼の脳が辿り着いた結果は--
--やけに静かな……いや、全くの無音が響き渡るような空間。
足場の感覚はあるはずの足場と自分の脚と共に消えている。自分の姿形も曖昧で模糊たるものだ。
身体というものさえ無いようだ。
勿論、耳も無い。
だが、声が聴こえた……気がする。
声を出せない。出そうとも思えない。出せないと知っているから。それに何よりも、声が届く気がしなくて。
悲鳴のような声。
哀しんでるのに、悦んでる。
怒っているのに、落ち着いている。
渇望してるのに、諦念している。
男……いや、最早、人間の形を成さない彼は、ふと感じた。
「ああ……まるで、俺の声じゃないか…………」
そう思った途端に、無いはずの身体が、何かに呑み込まれるような感覚に陥った。
沈んでいるのに浮いているような、不思議な感覚。
やがて、急速に覚醒へと向かう意識の中で、それは薄れていって消えた。
--鼻血を吹いて倒れたそうだ。
いくら彼自身、要領が悪いと自覚しているとはいえ、脳のキャパシティを超えるなどそうそうあったことは無かった。
それこそ、鼻血を吹くような程の事は。
目を開こうとするが、暗闇の帳に慣れてしまった瞳は、突然に大量の光を眼に入れる事を嫌ったようだ。
ゆっくりと、瞼を開く。
男が見たことの無い天井だ。
丸太造りといえば、もしかしたらあの山にはペンションがあって、そこの所有者にでも見つかって運ばれたのかもしれない、と男は考える。
そして思い出そうとする。
何故、気絶していたのかを。
「……アレ……?なんでだっけか……」
とりあえず起き上がろうとすれども、男の全身が疲労を頑固に主張してくる。
ベッドに寝ているのか、と今更ながらに思った。
首を回して辺りを見る。
広くも狭くもない部屋で、壁から床まで木造という、都会ではまず有り得ない部屋だ。
勿論、この部屋だけでなく、建物自体がそうなんだろう、と推測する。
「多分、死のうとしたけど失敗したんだろうなぁ……あの高さであの岩山に落ちて生きてるとかどんな幸運だよ……」
一人、呟く。
続けて、
「……なんでこんな時に……っ」
男は、悪態と嘲笑が混ざったような唸り声を腹から搾り出した。
そして男は考えた。
なんで生きてるか、はもう考え飽きたので、次は、どうしたら死ねるかを考えていた。
そしてふと、時間が気になった。
窓は部屋に無く、壁の高めの所が、綺麗な長方形に切り取られていた。
部屋の灯りは、そこから入ってくる光のみである。
またよくよく見渡せば、コンセントも照明も、電気を使う類の物は無かった。
「無駄に凝ってるな……」
明るくは無い。しかし暗闇とも言えない。
男は、およそ夕暮れ前だろうと推測する。
薄暗いというよりは、薄ら明るい天然の照明は、木の醸す雰囲気と絶妙にマッチし、人と自然との共存をそこにありありと思わせるような、そんな幻想的な風景を生み出していた。
しかしやはり、男にはそんな事を考えている余裕は無い。
刹那的な神秘性が漂う部屋に唯一ある扉を、首を回して見る。
「ドアノブ……はある、縄になりそうな物は……あった」
寝台の近くにある化粧台の上には、やや細めだが頑丈そうな縄が置いてあった。
自己主張の激しい倦怠感を押しやって、なんとかベッドから立ち上がった。
そして、膝から、前のめりに崩れ落ちた。
碌な受け身もとれず、額が木製のフローリングに激突する。
「まずい……」
男は慌てて、しかし倒れないように、しっかりゆっくりと立ち上がった。
彼を焦らせているのは、今の倒れた音で誰かしら人が来ないか、そして、そのせいで自殺が止められないかという懸念である。
自殺しようとした自分を助けて介抱するような出来た人間に、自殺幇助を期待する程、男は馬鹿ではなかった。
案の定、足音が近付いてきた。
とてとて、といった感じの可愛らしい足音だ。
男は、オーナーの娘かそこらだろう、と考えた。
流石に彼にも、子供の前で自殺する程の道徳観の欠如は無かったが、だからこそ今は余計に腹が立った。
「上手いこと言い包めて一人に……いや、それで俺が死んだ事を知って無駄に心を病まれたらたまったもんじゃない……」
寧ろ、彼の道徳観は高潔なそれに近かった。
だからこそ、現代に馴染めなかったのだろうが。
男はそそくさとベッドに戻り、横になる。
きぃ、と扉が開かれる。
思った通り少女……というよりは、幼女と言った方が差し支えない程の、幼い見た目をした女の子が室内に入ってきた。
寝たフリをして薄目で様子を伺おうとした男だったが、思わず目を見開いてしまった。
それはさながら、妖精を思わせる、純真無垢の可愛らしさがあった。
神々しく輝く、まさに金で出来ているかのように細く嫋やかで、豊かな金髪。
純白の絹のような肌には、歳相応のもっちりとしたハリが見ただけで感じられ、動作の一つ一つが天使のように愛らしかった。
男がいきなり飛び上がって起きたとも見えた筈だが、幼女に一切驚いた様子は無かった。
それも考えれてみれば、人の倒れる音を聞いて来たから男が起きているのは知っているとして、それにしても意外な程に、歳不相応に落ち着いていた。
なんと言うか、雰囲気からして落ち着いている。
そして男は思い出す。
「まさか、お前…………っ!!?」
幼女は能面のような笑顔を、ため息をつくことで崩し、
「やっと気付きおったか」
と呆れながら呟いた。
飛び降りた後で自分の意識が混濁してる際に、助けに来たこの娘が視界に入っていたのかとも予測したが、その喋り方といい発言といい、男が見ていたものが現実だったと気付くには、充分過ぎた。
しかしそれならば、不可解な事が一つあった。
「……お前は、一体何なんだ?」
本当は一つなどではないが、この質問からある程度探る事が出来よう。
そんな思惑から質問した。
幼女は僅かに考え込むような素振りを見せたが、割と早くに返答した。
「儂は……うむ、そうじゃな。所謂、女神のようなものだと思ってくれて良い」
普通であれば、異常だと思う発言でも、実際に浮いていた所を目撃した男からすれば、ある程度は想像出来ていた。
そう、ある程度は……。
「はあァ!?女神!?その成りでブゴォ!?」
思わず大声に出してしまった瞬間に、ボディブローを決められた。
怪我人に容赦のない、見事な物だった。
「ゴホッ……げほっ…………、おまっ、うぉえ…………」
「女神なんかに失礼を働いたら、そりゃそうなるじゃろう。怪我人であった事を幸運に思え」
つまりは、怪我人という事で手加減してくれていたのだろう。
しかし、手加減など微塵も感じないレベルで痛かった。
「神やら幽霊やらにに見た目を求める方が狂っていると、儂は思うがの。お主、最近の日本のサブカルチャーに毒され過ぎておらんか?女神が皆してボンキュッボンだったり、絶世のお淑やか美女だとでも思うとるんか?真に信仰ある者は、信仰対象に見た目なんぞ求めんわ。お主らは所詮、女体なぞ性の捌け口とぐらいにしか認識しておらんのじゃろう。気持ちが悪いぞ」
幼女に見下され、毒を吐かれている状況。
それこそ、一部の人間ならご褒美とも思えるような状況だが、生憎、男にはその趣味は無かった。
「げほっ……ふ、ふはは……はははっ」
無かったが、男からは笑いが込み上げてきた。
女神はドン引きしていた。
「なんじゃ、お主、そういう趣味なぞあったのか?」
幼女の塵芥を見る目も介せず、男はその両手を取り、双眸を爛々と輝かせて言った。
「俺を殺してくれ!」
「あいよ」
幼女が答えるが早いか、男の視界は上下逆さまになり、自分の背中が見えた。
頭を逆さにして落ちる光景は、何処かで見た事があったような……男は薄れる意識の中で、うっすらとそう思っていた。
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