Episode.2-17
◇
雨が降った。その雨は、深淵の闇に閉じ込められたのではないかと錯覚する程に黒く重い雨だった。雨は大地を濡らし木々を汚した。その後、大きな振動が響き渡った。
透緑色の残滓が大地へと降りる。その光は、蛍のように小さな光を舞い上がらせ、まるで命を弔っているようだった。
騎士剣を鞘に納めどす黒い血の海へと倒れ込む。既に指一本動かすことも出来ず、意識が朦朧としかけている。先程まで感じた繋がりはもはや感じられず、誰かと繋がるための回路は全て閉じたようだった。
多量の血液と死臭の中にいるだけで気が狂いそうになる。しかし今の俺にはこの血の海から出る力すらない。
辛うじて意識は保てている。
僅かに見える視界の中に、自身の左手が映っていることに気付く。身体の感覚は未だ戻っていない。それは、俺の意志とは無関係に、
な、んだ? 何をしているんだ……?
俺の左手は、どす黒い血を欲するように、握っては感触を味わい、握ってはその血を飲み干すように貪っていた。その行為は、醜悪で、凄惨としていて、躁状態に等しいとすら感じた。気が触れそうになる、という表現すら生温い。しかしそんな光景を、俺はどこか懐かしいとすら感じていた。
異常な光景が目の前で繰り広げられる中、水の跳ねる音が聞こえてくる。動くこともできず確認を取れない俺にはその音の正体が何なのか分からない。しかしその音は少しずつ大きくなり、俺のすぐ傍まで来たかと思うと、視界に入り俺の顔を舐めた。
「グレイ……」
掠れるような声でグレイの名を呼ぶ。俺の声に気付いたグレイが、顔を摺り寄せ俺を呼ぶように高い声で鳴く。心配してくれているのだろう。グレイに申し訳ない気持ちを抱きながらも、俺は身体を動かすことができなかった。
そこに、水の跳ねる音がもう一つ近付いてくる。グレイとは異なりその音は正面から近付いて来ていたため、その音の正体が何なのかはすぐに分かった。
「ルーノ……」
ルーノは目の前で立ち止まり、しゃがみ込む。訝しむような表情をしていたが、すぐにその顔から笑みが零れ、俺に寄り添う獣……グレイに顔を向けた。
「誰にも見付からないように、という意味が、まさかこんな大きな動物を飼育していたからだとはな」
ルーノがグレイに手を伸ばす。グレイは、ルーノの手の匂いを嗅ぎ、その後その手に頭を摺り寄せた。ルーノは安心したようにグレイを撫でる。グレイもまた、嫌がるそぶりも見せず撫でられていたが、その後すぐに身体を離した。グレイは俺の後ろへとまわり、俺の服を口で噛み俺を起こそうとする。その姿を見たルーノが、グレイを手伝い俺を起こし、血の海から運び出してくれた。
身体についた泥は凝固し始めていた。とても王国騎士という立場に就いているとは思えない、暗褐色の鎧を纏っているようだった。ルーノは俺を横たえ、ラミスの村の人たちへと叫んだ。
「誰か手を貸してくれ。あと、休める場所の確保と水と拭くものを頼む」
ルーノの声は、そこにいた者たちに届いたはずだった。しかし、ルーノの呼びかけに応じる者は一人もおらず、村の人たちは遠くから俺たちを眺めているだけだった。
ルーノが立ち上がり再び呼び掛ける。それでも、先程と変わらず誰も手を貸してはくれない。そんな中、村の人の一人が歩み出て口を開いた。
「ルーノ、その人は本当に王国騎士なのか?」
「え?」
ルーノが驚きの声を漏らす。何故、今そんなことを聞かれたのか理解できない、とでも言いたげな表情をしている。
「なにを言い出すんだ急に。こいつは王国騎士だ。皆だって見ただろう。こいつの持つ騎士剣を」
それを聞き、ルーノに尋ねた人物が再び答える。
「じゃあ、その後ろのでかい動物はどう説明付ける?」
その言葉を聞きルーノが口ごもる。ルーノは、グレイに顔を向け、俺に視線を移し、その後、俯いてしまった。
恐れていたことが現実になった。ユングが言っていた『結末』。それはまさにこれを表していた。未だまともに身体は動かせない。しかし、本来停止してもおかしくない思考は、身体の状態に反し加速度的に戻りつつあった。
「同じ種類の動物ならこの近くでいくらでも見掛ける。でも今そこにいるそれは、同じ種類にしては明らかに大きさが異なる。その人が従えているその動物は、所謂、凶暴化した異常な動物じゃないのか?」
ルーノが一歩
ラミスの村の人たちの顔は険しく、一人、また一人と、次第に俺を責める声が大きくなっていく。もしこの身体が自由に動くのなら、何も言わずにこのままラミスを去っても良かった。どれだけ正しい行いをしても、それがその者たちにとって正しい手段でなければ受け入れられることはない。グレイたち動物のように、自身が救われたことを直感的に受け入れることを、人はしない。情ではなく、意が優先される。しかしそれ故の人でもある。だからこそ俺は、悩み、恐れ、そして結論を出した。その上での結果がこれ。この結果もまた最初から想定していたもの。無事にこの村を救えた以上、俺はこの村を後にしなければならない。
覚醒する意志に併せるように、全身に力を込め起き上がろうとする。しかし、依然変わらず俺の身体は微動だにしない。歯車が噛み合っていないというより、歯車が欠け落ちてしまったような感覚。糸の通っていない針で服を縫い合わせようとも意味がないように、意志という針で身体という服を繋ぎ合わせようとも、そこに糸が通っていなければただ通り過ぎるだけだ。
どうにかしなければ……。
ラミスの人たちが再び武器を握りこちらへと詰め寄ってくる。このままではルーノも疑われたままになる。そして俺に向けられている敵意を感じ取り、グレイがどんな行動に出るか分からない。ラミスの村の人たちが詰め寄るごとに、グレイから感じる気に不穏なものが混じり始めている。このままだと折角戦いが収束したにも関わらず、再び争いが起こることになる。何のために皆が傷つき命を懸けて戦ったのか、その戦いが無意味なものになってしまう。
全身に力を込めるが身体が動く気配はない。凝固した血液が石となり、まるで身体を縛り付けているようにも感じる。そういえば血の海の中にいた時、自分の意志によるものではないが、身体の一部は動いていた。それは今どうなっているんだ。
視線をそちらへと向ける。すると、俺の意を待っていたように左手が動きだす。掌に押し込むように、指先に付着していた暗褐色のそれを貪り始めた。
これは本当に俺の意志によるものなのだろうか。しかし今はそんなことにこだわっている場合ではない。手が動くということは、身体が動かないわけじゃないということ。そこに繋がる
手を動かす感覚を感じ取ることはできない。しかし、俺が感じ取ることができないだけで、何かしらと繋がっている可能性がある。
呼び掛けてみる価値は……ある。
一か八か、俺は泥を喰らう自身の左手に意識を集中することにした。しかし俺が念じようとしたところで、重く強い意志の篭った声が周囲に響き渡った。
「やめておきなさい。ラミスが消えるだけじゃ済まないわよ」
その声と共に、視界が闇に覆われ見えなくなる。俺とラミスの人々との間に何かが割り込んでくる。闇は次第に形を為し、一人の女の姿を形作った。
「エルザ……」
エルザの姿を認めるや否や、ラミスの人たちはエルザへと武器を構える。そして「なんだお前は」と声を上げ、エルザに問い詰める。エルザはその場で顔を覆う髪を拭いあげ、その目に計り知れぬ殺意を込め、村の人たちを視界に捉えた。
「随分と勝手なものね。救われたという結果を差し置いて、自分たちが受け入れられないからという理由で他者を排除しようとする。人らしい
エルザの威圧感に圧倒され、ラミスの人たちが後退る。今エルザの眼光にどんな色が灯っているのかは容易に想像がついた。
射殺すように発せられる眼光は、幾重もの死線を潜り抜けてきた者であっても恐怖を覚えるほどに恐ろしく、直視するのは難しい。肝を据えている状態でもなければ、その視線を向けられただけで腰を抜かすものがいてもおかしくない。殺気を放っているエルザは、まさに人とは異なるということを如実に感じさせた。
ラミスの人たちは怯え、互いに顔を見合わせている。しかしその中の数人は、エルザの眼光に怯えつつも此方へと再び足を進める。それに釣られるように、一歩、また一歩と、他の者たちも続いた。エルザは、(俺と初めて出会った時と同じように)間合いに踏み込まれたところで、手を前面に翳した。
「それ以上こちらに近寄るようなら、本気でお前たちを殺す」
空気が変わり、エルザを中心に
ラミスの人たちは再び怯むが、それでも今度は足を止めようとしない。手に持った武器を握り直し此方へと歩を進めた。
「この坊やには死なれては困るの。代償としてこの村の住人を引き換えにしてもね」
ラミスの人たちは足を止めない。
「素直に私たちを見逃してくれれば手荒な真似をするつもりはないんだけど」
ラミスの人たちは足を止めない。
「そう、だったら……」
村の人たちが武器を強く握る。同時に、エルザの手に黒い光が具現化した。
「死ね!!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます