辺境村の双子幼女③


 柔らかな朝の陽射しが目蓋を刺激している。けれどそんなものではヴィレッサの眠気を打ち払えない。布団を強引に剥がされ、身体を引き起こされても、ヴィレッサはすぐに枕を抱えて丸まろうとする。


「ほらお姉ちゃん、腕上げて」


「ん~……」


 ルヴィスの声に辛うじて反応して腕を上げる。寝間着を脱がされると少しだけ目が覚めてきたので、もそもそと着替えを始めた。腕を引かれながら部屋を出て、顔を洗って、髪を梳かされる段になってようやく半分ほど目が開いてくる。


「おはよう。八歳になっても、ヴィレッサはお寝坊さんみたいね」


「そうなんです。お姉ちゃんってば、大人になった〝じかく〟が足りないんですよ」


「うん……私は、変わらず、いい子」


「ふふっ、そうね。まだまだ子供で構わないわよ」


 三人は朝食の席に着いて、挨拶と笑顔を交わし合う。

 つい昨日、ヴィレッサとルヴィスは八歳になった。正式な誕生日とは言えないのだが、二人がこの修道院で拾われた日を毎年祝っていた。シャロンだけでなく、村人全員から、ささやかながらもお祝いの言葉や品が贈られていた。

 とはいえ、村での長閑な生活に変わりはない。


「ん~……今日も授業で、午後からは森でのお手伝いだっけ?」


「そうだよ。あ、シャロン先生は帝都に行くんですよね?」


「ええ。でも薬を届けるだけだから、すぐに帰ってくるわ」


 このウルムス村から帝都までは、馬を使っても一ヶ月以上は掛かる長旅となる。商人でさえ訪れる者は少ない。

 しかしシャロンは転移魔術を使えるので、帝都への買出しなども頻繁に行っていた。


「帝都かあ。いいなあ、私も早く行ってみたいです」


「十歳になったら連れていってあげるわよ。約束通りに、ね?」


「ん。その時には、私も一緒」


 優しい眼差しを向けてきたシャロンに、まだ眠い目を擦っていたヴィレッサは頷く。

 この村の子供たちには、十歳になると帝都へ連れていってもらえるという慣例がある。外の世界を知るための授業であり、大人に近づくための儀式みたいなものだ。


 ヴィレッサとしても、帝都には多少の興味がある。辺鄙な村とは比べ物にならないほど人も物も溢れていて、運が良ければ『魔導遺物』まで手に入ると聞かされていた。

 子供の小遣いで買える物ではないが、身を守る力として是非とも欲しいところだ。


 それに、情報も集めたいと思っている。

 周辺国に対して圧倒的な国力と軍事力を誇っている帝国だが、どうも最近はキナ臭いと、村を訪れた商人達が口にしていた。

 しかし帝都を訪れるためには、ヴィレッサにはひとつ課題が残されていて―――。


「まあともかく、ご飯にしましょう」


 シャロンに促されて、ヴィレッサたちは胸の前で静かに手を組む。

 日々の糧に感謝しつつ、平穏が続くようにと祈りを奉げた。






 帝都へと向かうシャロンを見送ってから、ヴィレッサたちは村の近くにある森へと足を運んだ。

 新しい家を建てるための手伝いなので、大工の棟梁が先頭に立ち、数名の大人も同行している。それと、棟梁の息子であるカミル少年も張り切っていた。


「いいか、どんな木でも切っていい訳じゃないんだ。どれを切っていいのか、ちゃんと俺の言うことを聞くんだぞ」


「分かってるわよ。森は大切にしろって、シャロン先生にも言われてるもん」


「あとな、ふらふらするなよ。奥に行ったら魔獣だっているんだからな」


「ん。大丈夫。前にカミルが迷子になったのも覚えてるから」


 容赦無い双子の返答に、カミルは泣き出しそうなほど顔を歪める。ひとつ年上の少年としては、格好良いところを見せたくて仕方なかったのだろう。。

 けれどヴィレッサもルヴィスも、森にはもう幾度も入っている。木材運びは初めてだが、果実や野草を採るのは手馴れたものだ。

 それでもカミルはすぐに立ち直ると、まだ新しい手斧を強く握り締めた。


「と、とにかく、二人を守るのが俺の役目なんだ! 絶対に離れるなよ!」


「分かったってば。あんまりうるさいと、お酒を飲んだおじさんみたいだよ。格好悪い」


 ピシリ、と。

 カミルが頬を引き攣らせて凍りつく。数歩前を行く棟梁もガクリと肩を揺らした。

 言葉の矢で二人を射抜いたルヴィス当人は、そのことに気づいてさえいない。

 子供って怖いなあ、とヴィレッサは素知らぬ顔をして足を進めた。


 伐採の手伝いと言っても、子供が斧を振るう必要はなかった。

 ルヴィスが魔術で作る風の刃は鋭くても、太い生木を切り倒すほどの威力は出せない。カミルは身体強化術を発動させ、得意気に手斧を振るったが、一本を切り倒したところで魔力切れを起こしていた。


 一方、こういった作業に慣れた大人たちは、疲れも見せずに太い木々を素早く倒していく。力を入れる瞬間だけ強化術を発動させたりと、効率の良い魔力の使い方を会得しているのだ。

 シャロンの教えの賜物である。


 しかしそうでなくとも、帝国民であれば魔術の扱いを覚える機会は多い。火を起こす程度の生活魔術は一般家庭にも普及しているし、身体強化術を使えるのは兵士の最低条件だ。帝国が強兵によって領土を広げた要員のひとつに、誰でも扱えるほど簡単な身体強化術と防護術の発展があった。

 より高度な魔術の研究も盛んに行われている。

 とはいえ、帝国は魔術に拘泥しているのではない。なによりも武を重んじる風土があって、その手段のひとつとして魔術が使われているに過ぎない。他国と比較をするなら、むしろ剣の技術や武具の製法、集団戦術などの方が優れている。


 逆に言うならば、その武力によって魔術も身近なものになっている。

 誰でも魔術を習えて、扱えるというのは、帝国の豊かさを表す証左でもあった。

 ただし、何事にも例外はある。


「……やっぱり、武器にするのは難しいか」


 木の幹に僅かについた傷を見つめて、ヴィレッサは口元を捻じ曲げた。その手には青白く輝く剣が握られている。膨大な魔力を固めて剣の形にしたものだ。

 無尽蔵とも言える魔力量を持つヴィレッサだが、まともな魔術はひとつも使えなかった。

 強引に魔力を固めて盾や剣を作っても、ちょっと気を抜いただけで消え去ってしまう。盾は軽すぎて衝撃を受け止めるのが難しく、剣の方も包丁以上の役目は果たせそうにない。

 だからといってヴィレッサは落ち込んではいない。

 なんとかとハサミは使いよう。そんな諺も、ヴィレッサの知識には刻まれていた。


「あ……おじさん、ちょっと待って!」


 ヴィレッサは高い木の枝に腰掛けていた。しかしあるものを見つけて、新たに木を切り倒そうとしていた棟梁を制止した。

 そうして空中に踏み出す。

 魔力の塊を足場にして、空間を歩けるのだ。こちらも油断すると崩れてしまうのだが、練習を繰り返して、シャロンから使用の許可も貰っている。


 高所から周囲を見渡して魔獣などを警戒するのが、ヴィレッサの役割だった。

 けれど見つけたのは、魔獣よりももっと無害なものだ。


「鳥が巣を作ってる。雛もいるから他の木にしよう」


「おう、よく見つけたな。それじゃ、あっちのヤツにするか」


 棟梁が指示を出し、作業を再開する。それからヴィレッサも呼ばれたので地上に降りて、枝を落とすのを手伝う。細い枝くらいなら、軽すぎる魔力剣でもスパスパと切り裂けた。

 切り株は地面を泥にして埋めて、最後に皆で揃って自然に感謝を奉げる。


「おい、カミル! なんでテメエが丸太を持とうとしてやがる」


「お、俺だって持てるよ! これくらい……」


「テメエはさっきも魔力切れ起こしてただろうが。大人しく枝を集めてきやがれ」


 父親に窘められて、カミルは渋々と従う。ヴィレッサとルヴィスはすでに同じ作業を始めていた。小枝も乾かせば薪になり、冬に向けて必要になる。

 大人達は強化術を発動させ、丸太を抱えて運ぼうとしていた、が、


「ん……? おまえら、ちょっと待て」


 棟梁が足を止め、森の方へと振り返った。

 それに気づいたのは、長年、森と付き合ってきた大工の勘だろう。

 見つめる先で、草むらが小さく揺れて―――低い呻り声が響いた。


「っ、魔獣か! テメエラ、武器を構えろ!」


 直後、草むらから大きな影が飛び出してきた。

 幌馬車ほどの大きさのある、口元から鋭利な牙を生やした黒々とした影だ。全員が呆気に取られて、それが巨大な猪の魔獣だと理解するのに一呼吸の間を置いてしまった。


「ブルド・ボアだと―――」


 驚きながらも真っ先に我に返った棟梁は、カミルを抱えて横に跳んだ。その場所へ巨大な猪が突撃し、通過していく。もし一瞬でも判断が遅れていたら、カミルは叩き潰されていただろう。

 重猛鋼猪

ブルド・ボア

―――見た目通り、猪が変異した魔獣だ。


 魔獣とは、野生の動植物が高濃度魔素の影響で凶悪に変わり果てた姿だとされている。謂わば突然変異種という訳だ。だから基本的には個体でしか生まれないが、その個体が繁殖したり、稀に多くの個体が魔獣へと変わったりもする。

 総じて凶暴で、人を襲う。目の前に現われたブルド・ボアも、その巨体に似合わない素早い突撃で動くものすべてを叩き潰す。死体を喰らうとも言われている。

 しかし森の奥にでも行かなければ遭遇しない魔獣のはずだった。

 以前、村近くに現われたのは十年以上前で、その時はシャロンが倒したが、村の柵は破られ、家屋が何軒も打ち壊された。


「こいつは大物だな……おい、テメエラは子供たちを連れて逃げろ!」


「で、ですが棟梁……」


「さっさとしろ! 猪の一匹くらい、俺一人でなんとかしてやる!」


 そう短い遣り取りをしている間にも、ブルド・ボアは急停止し、くるりと身を翻した。鋭い眼光で全員を睨みつけ、力を蓄えるように地面を踏み鳴らす。

 黒々とした巨体の背後には、突撃の勢いで起こった土煙が竜巻みたいに上がっていた。

 圧倒的な暴力を見せつけられて、全員が息を呑む。


 ヴィレッサも畏怖を覚えていたが、混乱はせず、むしろ冷静に思案していた。

 ブルド・ボアの体には並大抵の刃物では傷すら付けられない。黒々とした毛は針のように硬く、身体強化を使った剣撃でさえ弾き返してしまう。強力な魔術を使うか、あるいは弱点である額を叩き割るしかない。

 この場には、ヴィレッサはもちろん、強力な魔術を使える人間はいない。斧で額に一撃を喰らわせればなんとかなるかも知れないが、それは猛烈な突撃と正面衝突するということだ。無事で済むはずがない。

 けれど、突撃を止められれば―――。


「―――よし」


 小さく拳を握って頷くと、ヴィレッサは駆け出した。棟梁を追い越し、ブルド・ボアの正面へと向かう。


「な、何してるの、お姉ちゃん!」


「ばっ、ま、待てっ! 嬢ちゃん!」


 ルヴィスと棟梁が声を上げる。

 同時に、ブルド・ボアが地面を蹴った。土煙を上げてヴィレッサへと迫る。


 ヴィレッサは恐怖で閉じそうになる目を懸命に見開き、全身から魔力を放った。

 正面に盾を作り、さらに身体強化術も発動させる。


 まともな魔術は使えない―――けれどヴィレッサは、まともじゃない身体強化術なら使えた。

 通常の強化術には二つの効果がある。筋力や瞬発力などを強化する効果と、その強化された力で自分自身を傷つけないよう肉体の耐久力を上げる効果だ。魔力を体内で巡らせるだけで発動できる強化術だが、この二つの効果は上手くバランスが取れるようになっている。まともな強化術は、自然とそうなるのだ。

 けれどヴィレッサが使える強化術はまともではない。

 魔素の組み合わせによって魔術は効果を発揮するのだが―――ヴィレッサが持つ魔素には、魔術の効果を打ち消す種類も含まれていた。だからどんな魔術も使えずに、自分の力によって打ち消してしまう。


 ならば、本来の効果を発揮する魔素だけを体内で巡らせれば?

 打ち消す魔素を排除するか、休眠状態で抑えられれば?

 そう考えたヴィレッサは幾度も試してみたが、上手くはいかなかった。

 魔素はとても小さな粒子体だ。例えば大気中に漂う水素や酸素、窒素などを人間の感覚だけで分別するなんて不可能に決まっている。

 けれどそんな特殊な魔素と生まれた時から付き合っていれば、自然と感覚も磨かれる。

 辛うじて、奇跡的なレベルで、ヴィレッサは無効化魔素の抑制に成功した。


 そう、抑制だ。消去や排除ではない。

 魔力を体内で巡らせた際に励起状態になる効果魔素と無効化魔素、その比率を、体感で一〇:九程度に抑え込めるのだ。あるいは一〇〇:九九かも知れないが、ともあれ大量の魔力を使えば強化術だけなら発動できる。

 無尽蔵の魔力を持つヴィレッサにとって、魔力消費量は問題にならない。普通の人より十倍、あるいは百倍の魔力消費を強いられても疲労すら覚えない。膨大な魔力の制御さえ適えば、いくらでも自身を強化可能だった。


 問題があるとすれば、ふたつ。

 ひとつは、光ってしまうこと。

 大量の魔力を奮い起こすために、全身から眩いほどの光を放ってしまう。まあ、そちらは大した問題ではない。ヴィレッサがちょっと恥ずかしいだけだ。


 問題は、もうひとつの方にある。

 身体を巡らせる魔力に含まれる、強化と無効化の魔素はどうにか制御可能になった。けれど自身の耐久度を上げる効果までは制御が追いついていない。

 強化と耐久度上昇、この二つの効果を持つ魔素は、ほとんどの人間の体内では同程度の量が作られている。だから魔力を巡らせるだけでバランスの良い強化術が発動するのだ。しかしヴィレッサの場合は、自分でバランスを取らねばならない。


 結果―――下手をすれば自身が砕ける、危険な強化術しか使えなかった。

 それでもヴィレッサは足を踏み出した。

 危険があろうと、相手が恐るべき魔獣であろうと、そうしたいと思えたから。


「止まれぇ―――っ!」


 ヴィレッサが作り出した魔力盾に、真っ直ぐに突き進んできたブルド・ボアが衝突する。まるで巨大な金槌を叩き合わせたような轟音が響き渡った。

 衝撃が盾を通して伝わる。ヴィレッサの細い腕を震えさせる。

 空中で足場にする魔力の塊と同じく、魔力盾もその場所へ固定される。大人が殴ってもビクともしないくらいには、衝撃をやわらげる効果もある。

 幼い体も、熊と殴り合えるくらいには強化されていた。


 しかし突撃を受けた瞬間、盾を支える腕に雷撃を受けたような痛みが走った。

 腕が折れた。そう悟ったヴィレッサだが、肘を曲げ、全身で衝撃を受け止める。盾に注ぐ魔力も切らさないよう懸命に意識を傾けた。


 ずりずりと体が背後へと押される。折れた腕が痙攣したように震える。

 ヴィレッサが歯噛みした瞬間、足からも鈍痛が響いてきた。

 それでも、どうにか、辛うじて、突撃を食い止めた。


「ルヴィス! コイツの足元を泥化して!」


「え……? で、でも!」


「私には魔術は効かない! コイツだけだ! だから早く!」


「わ、分かった!」


 上擦った声で答えながら、ルヴィスは目の前に魔法陣を浮かべた。

 まだ強力な魔術は扱えないルヴィスだが、基礎の魔術は即座に発動できるほどに練習を重ねている。シャロンの指導もあるし、元より才能もあったのだろう。


 ブルド・ボアを中心にして青白い光が降り注ぐ。切り株を埋める時にも使った魔術だ。光が降り注いだ地面は泥と化し、ブルド・ボアの動きを鈍らせていく。

 黒毛に包まれた脚が埋まったのを確認して、ヴィレッサは盾を解いた。

 即座に牙を掴み、暴れるブルド・ボアを力任せに押さえつける。


「おじさん、コイツの頭を狙って!」


「お、おう! 任せろ!」


 ヴィレッサの周囲は泥化していない。棟梁は勢いをつけて踏み込むと、思い切り斧を振り下ろした。

 甲高い音が響く。金属片と、ほんの僅かに獣の血が飛び散った。

 全身を覆う剛毛は額部分で薄くなっているが、それでも並の刃物など弾き返す硬さがある。棟梁は二度、三度と続け様に斧を叩きつけた。


 暴れようとする獣を、ヴィレッサが懸命に押さえ、六度目の攻撃で―――、

 獣の額に、刃先が大きく食い込んだ。


「わ、ぁ―――!」


 直後、ブルド・ボアは咆哮を上げ、一際激しく暴れ始めた。

 ヴィレッサの小さな体が地面から浮きかける。なんとか腰を沈め、牙から手を離さずに押さえつけようとしたが、体ごと横に引っ張られた。

 泥化した地面に引き込まれ、足を取られてしまう。


「くそっ! ダメだ、嬢ちゃん、手を放して逃げろ!」


 そう言われても、もうヴィレッサには逃げる力は残っていない。牙を掴んでいるのも精一杯で、折れた膝が泥に沈んだ。

 ブルド・ボアの巨大な頭が迫る。獣臭い息が、綺麗な金髪を揺らした。


 その瞬間―――ヴィレッサは強く腕を引き、足を跳ね上げた。


 突進してくる猪の下に滑り込む形で蹴り上げたのだ。限界以上に強化した脚力で。咄嗟に出た行動だったが、上手く相手の力も利用する形になった。

 魔獣とはいえ、生物である以上は咽喉もまた弱点だ。そこを蹴り上げられたブルド・ボアは、正しく豚みたいな悲鳴を上げ、空高くへと飛ばされる。

 小さくなっていく影を見上げながら、ヴィレッサは大の字になって地面へ倒れた。

 荒い息を吐き出す。


「はっ……ぁ……はぁ……」


 一拍の静寂を置いて、ズゥンと、ブルド・ボアの巨体が頭から落下してきた。

 やや離れた位置に落ちた魔獣を確認するため、ヴィレッサは身体を起こそうとした。けれど満足に力が入らない。代わりに痛みが全身を貫く。

 仕方なく、歯軋りしながら、ヴィレッサは首だけを回した。


 周りにいた大人たちも警戒しながら様子を窺う。しかしブルド・ボアは全身をビクビクと痙攣させて泡を吹いていた。完全に気絶している。

 まだ安心はできないが、ひとまず逃げるだけの時間は稼げたようだった。


「お゛ね゛え゛ち゛ゃ~~~ん゛!」


 ルヴィスがくしゃくしゃに顔を歪めて駆け寄ってくる。涙と鼻水まで垂らして、ヴィレッサの胸に抱きついた。

 鼻水は勘弁して欲しいヴィレッサだったが、抵抗する余力もない。

 仕方なく、口元をそっと緩めておいた。


「よし、今の内に村へ戻るぞ! 荷物は全部放っておけ!」


 皆に指示を出す棟梁の様子を眺めてから、ヴィレッサは静かに目蓋を伏せた。

 もう動けない。とにかく疲れた。体のあちこちから痛みも走ってくる。

 だけど、みんなが無事でよかった。

 そう安堵して、ヴィレッサは意識を失った。




 ◇ ◇ ◇



 目が覚めると、いきなり抱き締められた。


「お姉ちゃん! よかった! 本当に無事でよかっだよ゛ぉ゛ぉ゛~」


 ヴィレッサは自室のベッドで寝かされていた。体のそこかしこに包帯が巻かれて、片腕と片足には添え木もされている。

 ブルド・ボア騒動の後、ヴィレッサは意識を失ったまま修道院へ運ばれた。

 何日も眠り続ける姉を、ルヴィスもずっと付き添って見守っていた。

 その表情には疲労が見て取れる。

 大方の事情を理解したヴィレッサは、姉としてルヴィスに抱擁を返したいところだった、が、


「い、たっ! ルヴィス、痛い痛い! これたぶん、腕とか足とか折れてる」


「あ、ご、ごめん。でも目を覚ましてくれて、本当によかったぁ」


 瞳に涙を浮かべたまま、ルヴィスは慌てて身を引いた。けれどまたベッドに手をつくと、頬を膨らませて詰め寄る。


「すっごく心配したんだからね! もう! 二度とあんな無茶しないでよ!」


「あんな魔獣と何度も戦いたくないなぁ」


「そういう問題じゃないの! 死んじゃってたかも知れないんだよ!」


「いや、だから、好きであんなことした訳じゃ……」


 ぎゃあぎゃあと怒鳴り声を上げるルヴィスを、ヴィレッサが困り顔で宥めようとする。そんな声が聞こえたのか、部屋の扉が開いてシャロンが入ってきた。


「おはよう。やっぱりヴィレッサはお寝坊さんね」


「えっと……おはようございます、シャロン先生」


 シャロンは優しい声を投げた。けれどその顔は心なしか蒼ざめている。

 心配させてしまったことを察して、ヴィレッサは歯切れ悪く挨拶を返した。


「三日も目を覚まさなかったのよ。その間、ルヴィスはずっと付き添ってくれてたんだから。ちゃんとお礼を言いなさいね」


「そんなに……ルヴィス、ありがとう」


「ううん、私は何にもしてないよ。シャロン先生こそ、ずっと治療してくれてたんだよ」


 ヴィレッサはベッドの上で身体を起こすと、重ねて感謝を述べた。

 二人は優しい笑顔で受け止める。


「ルヴィス、村の皆にも伝えてきてちょうだい。眠り姫が目を覚ましたって」


「あ、そうですね。すぐに行ってきます」


 ルヴィスが席を立って、入れ替わりにシャロンがベッド脇に腰を下ろす。そうして部屋の扉が閉じられると、一呼吸を置いて、シャロンは険しい表情を見せた。


「皆も心配してたわよ。とりわけガステンなんて、地面に頭を擦りつけて謝ってきたの。もしものことがあったら、命でも償えないって」


「棟梁のおじさんが、そんなことを……」


「……何故、あんな危険な真似をしたの?」


 シャロンは真っ直ぐにヴィレッサを見つめる。眼差しに非難の色はなく、物分りの悪い子供を諭す教師のそれだった。

 ヴィレッサは項垂れたが、さして考える必要はなかった。正直な言葉を返す。


「あの時は、ああするのが一番だと思った。私が戦わないと、みんなが危ない目に遭って……死んでたかも知れない。そんなのは嫌だったから」


「そうね。貴方は頭のいい子だもの。理屈に合わないことはしないわよね」


 だけど、と。シャロンはヴィレッサの頭に優しく手を乗せた。


「貴方はまだ子供なのよ。もっと甘えてもいいの」


「でも……私には力があった。怯えて逃げてたら、きっと後悔したよ?」


「それでも許される後悔よ。繰り返して言うけど、貴方はまだ子供なの。確かにその魔力は大きな力になるけど、まだ持て余しているでしょう? もっとたくさんのことを知って、たくさんの経験をして、重荷を背負うのはそれからで構わないのよ」


 ふわふわの金髪を撫でながら、シャロンは小さな頭を胸に抱き寄せた。


「貴方が優しいのも分かってる。だから、もっと自分を大切にしなさい」


 親が子供を愛するように。何処にでもありふれた、当たり前の行為だった。

 けれど―――その言葉は、ヴィレッサの胸に深く刻まれた。


「貴方が何をしても、私が許すわ」


「……うん」


「それと……よく頑張ったわね」


 くしゃくしゃと頭を撫でられて、ヴィレッサは微かに頬を染める。子供扱いされるのには慣れたつもりだったのに、やはり気恥ずかしかった。


「それじゃ、横になって。治療術を掛けるから」


「うん……えっと、やっぱり寝てる間は無効化されちゃってたのかな?」


「そうね。頑張ってみたけど、貴方の魔力に消されちゃうのよね。だけど意識すれば抑えられるんでしょう?」


「ほんの少しくらいなら。いっそ、自分で治療術を練習した方がいいかも」


「ほら、またそうやって無理しようとする。いいから任せなさい」


 軽く額を突つかれて、ヴィレッサは渋い顔をしながら横になった。意識を集中して魔力を抑え、治療を受け入れる。それでもかなりの魔法効果を打ち消してしまうので、完治するには時間が掛かりそうだった。


「そうだ。あの魔獣はどうなったの?」


「大丈夫よ。私がちゃんとトドメを刺して……まあ、その必要もなかったけどね」


 報せを受けたシャロンと村の男達が見に行った時には、ブルド・ボアは痙攣して倒れたままだった。ヴィレッサの一撃で、すでに首の骨が折れていたのだ。


「あんな真似、本職の魔獣狩りでもなかなかできないわよ。自滅するのも、ね」


「今度は自滅しないように上手くやる」


「だから、そういう無茶はしないの。少なくとも一週間は魔法禁止ね。治療にも時間が掛かりそうだから……と」


 治療術を一旦止めて、シャロンはベッド脇に手を伸ばした。そこに置いてあった一本の杖を取ってみせる。

 脇に挟んで使えるようになっている、怪我人用の杖だ。


「棟梁が作ってくれたわ。それと、カミルくんも。使い難かったらすぐに手直ししてくれるって」


「なんだか重傷患者みたい」


「みたい、じゃないて本当に重傷なのよ。大人しくしてないと怒るからね?」


「何をしても許してくれるんじゃ……」


 シャロンは優しく微笑みながら、ヴィレッサの頬っぺたを摘み上げる。

 ヴィレッサは涙目になってごめんなさいしようとしたが、ちょうどそこで、ぐぅ~と、お腹が鳴った。

 二人ともぱちくりと瞬きをして見つめ合う。


「そういえば何も食べてなかったわね。待ってなさい、スープ作ってくるから」


「……うん」


 ヴィレッサは微かに頬を染めながら、部屋を出て行くシャロンを見送った。

 一人になって、ベッドで横になりながらぼんやりと天井を見上げる。

 まだあちこちが痛む。でも気分は悪くない。

 小さな体の内にある膨大な魔力を感じながら、ヴィレッサは口元を綻ばせた。


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