チトハナ 血と華の吸血鬼譚
さゆと/sizukuoka
第1話 捨てられたバラの花束①
自分の心臓の音と、姿の見えぬフクロウの鳴き声だけが聞こえている。
ヴェントリーニ・ファミリーの吸血鬼ソレッラは息を殺し、壁に背を添わせた。赤茶けた石の壁はぞっとするほど冷たく、やがてくる季節の厳しさを物語っている。
手に馴染む短機関銃のトリガーに指を掛ける。安全装置が解除される振動がかすかに指先に伝わる。掌にしっとりと汗がにじんでいた。
半月に照らされた街は石畳に静かに影を落としていた。この街にはマフィア同士が闘争した銃痕の残る古めかしい建造物が多い。ところ狭しと乱立したサグラダ・ファミリアの尖塔のように、赤いレンガ造りの建物が競い合って建っている。
いったい何年前からあるものなのかは知らない。少なくともソレッラがこの地にやってきてから景観は大きく変わっていなかった。
今夜、この街である取引が行われるという情報が入っていた。情報では取引場所の候補がいくつか挙げられていた。その後、候補をより絞り込むため調査を重ねたところ、最終的に
最も濃厚な線だと思われたのは、現在ソレッラが密かに注視しているパブ・ガッビアーノである。地元産の野菜と海鮮を使った料理と、それに合うワインを提案してくれる店として地元では人気がある。南イタリアのうちでもマフィアの根城が多い土地柄も手伝って、この店を利用するのは「その筋」の者も多い。
予想通り、午前二時ぴったりに黒いコートを羽織った男が現れる。男に連れはなく、たった一人で店を目指しているようであった。目深に帽子をかぶっているため顔は確認できなかったが、事前に得た情報通りの背格好から当該人物ではないかと思われる。肩幅は広く、そのわりに背は低い。右手に小ぶりなバラの花束を持ち、左手に黒いアタッシュケースを抱え込んでいる。ケースのなかには大切なものが入っていますと公言しているようで滑稽にすら感じる。
男の名はエラルド・リッチ。ベ・ラーゴ製薬の営業として、南イタリアの病院や研究施設へ頻繁に出入りしている。注目すべきは営業先のリストに国連の下部組織「
ソレッラは壁にグッと添い、頭をわずかに窓へ寄せた。月の出ている屋外に比べ、ソレッラのいる室内は明かりを消していれば影になり暗くなる。潜伏場所はガッビアーノから三件隣の建物を選んだ。
窓ガラスの向こうで、リッチは周囲を見回していた。ソレッラは窓ガラスの前に出ている頭を動かさず、じっと観察する。見つかりそうだからといって下手に動くよりは、動かないほうが気づかれにくい。
この建物の持ち主が長期休みをとって旅行中であることがわかっていたので、十日前の夜に一度潜入して外からの見え方を十分に検証している。見立て通り、リッチはソレッラに気づいた様子もなく店に吸いこまれていった。
リッチが間違いなく店に入ったことを見てとると、ソレッラは壁から背を離した。目の前には三人の男女がテーブルについている。黒くボリュームのある髭をたくわえた中年の男と、赤みがかった茶色の髪を伸ばした中年の女は夫婦であった。夫の正面に妻が座り、その隣には高校生の少年が座っている。
三人はこの家に住んでいる家族である。どういうわけか旅行を途中で中断して戻ってきてしまった。理由は知らない。結果的に建物に不法侵入する計画を練っていたソレッラと鉢合わせ状態になったのは、運が悪いとしかいいようがない。
表情は一様に暗く、背筋をのばし、足を揃え、両手を行儀よく膝の上に置いている。三人の指先にはソレッラがナイフを押しつけた小さな傷がついていた。
吸血鬼であるソレッラの「血を取り込むことで他者を操作する」能力によって、彼らは拘束されている。
「先ほど申し上げた通り、私に従っていれば命を取ることはありません。私はいつでもあなたたちの命を奪えることを心に刻みなさい」
ソレッラは家を制圧するときにいった言葉をもう一度繰り返すと、三人を睨みつけた。
男は正面に座る二人をちらりと見、肩を震わせながらソレッラを見上げた。しかし、男は両手を握り締めただけで、ソレッラを殴るふりすらできなかった。女も息子も、そんな男を不安そうに見つめていた。
ソレッラは携帯電話を取りだし、別の場所に潜んでいる部下に電話をかける。
「アドルフォ、そちらの首尾は」
「俺はいつでもいけます」
頼もしい返事だ。
今日、作戦に参加する部下たちは若い者ばかりだ。下は二十二歳から最も年上のアドルフォ・ヴェルニッツィでも二十九歳。どれも二、三年前まではマフィアの末端で悪事を働いていた若造だったが、ヴェントリーニ・ファミリーの活動趣旨に賛同してやってきたのだ。彼らは経験こそ浅いが活力に溢れ、未来が有望な男たちである。男一人と取引相手の人間を確保し、盗品を取り戻す程度ならば彼らは充分やり遂げるだろう。
作戦開始を指示すると、アドルフォ以下五名の部下はすぐにガッビアーノを取り囲んだ。ソレッラは彼らが予定通りの配置についたのを見ると深夜の街に踏み出す。
ソレッラは呼吸を整えながら、ガッビアーノの正面へと移動した。薄暗い店内に人の姿がないのを確認しつつ、窓を避けてすべるように扉に近づく。周囲の建物からも隠れるように、大きな鉢植えの木の影で膝をついた。
トリガーに指をかけると短機関銃の安全装置が外れる。扉から取引を終えたリッチが出てきたらすぐ撃てるように銃を構えた。
息を殺して待つ。
屋外は昨日までの陽気が嘘のように肌寒い。乱立する建物に遮られているとはいえ、吹く風が体感温度を下げている。ソレッラの手には指先が凍えて動かしにくくならないよう黒革の手袋がはめられていた。熟練の職人によるハンドメイド品で、ほつれのない縫い目や手の形にぴったり沿ったカーブなどは熟練した職人の業が光っている。着けたまま携帯を操作することもできるし、銃の操作にも違和感がなく、日常生活にも作戦行動にも重宝していた。もちろん、戦闘になれば汚れる可能性がある。だが、他ならぬカポからの贈り物である手袋は身に着けているだけで安心感をもたらした。
リッチが店に入ってから十五分後、とうとうガッビアーノの扉が動いた。
ソレッラは扉の先に銃を向ける。店舗に近い位置に潜んでいる二人の部下は、物陰から銃口と半身を覗かせ狙い撃つ態勢を整えた。二人が持っている散弾銃には殺傷力のないゴム弾が込められている。
扉はゆるゆると開き、唐突になかから男が放り出された。叩きつけられた地面に滔々と血が流れ、石畳を黒く染めていく。手に持っていたコートが翻り、血だまりのなかに落ちる。ソレッラはすぐに男がリッチであるとわかった。リッチは目を大きく開いて驚愕の色を浮かべたまま硬直していた。死んでいる。
続いて、リッチが持っていたアタッシュケースが店から放り出された。石畳を跳ねつつ滑っていき、花壇に当たって止まった。
ソレッラの背中に悪寒が走った。今夜は一般人を二人捕らえるだけの仕事だったはずだ。部下の様子を窺うと、彼らもまたリッチと似た表情を浮かべていた。
最後にガッビアーノから出てきたのは小柄な女だった。背丈のみを見ると後ろから見ると中高生のようにも思われる。歩を進めるたびにベージュ色のダッフルコートが揺れた。袖から覗く右手は鮮血で染まっている。リッチはこの女に殺されたのだ――女はまさに、物品を受け取った側の人物かもしれない。
年齢は四十ほどだろうか。顔には浅い皺が刻まれ、ブロンズの長い髪の隙間から紫色の双眸が覗いていた。朗らかに笑えば道行く男たちにたちまち声をかけられそうなミステリアスな女である。膝下丈のスカートから白い足首が見えた。
女は左手で持っていた三本の赤いバラの花束を死体の上に投げ捨てた。
そのとき、周囲に銃声が響いた。ソレッラの視界を横切ったゴム弾は女の顔に命中した。続く銃声でソレッラは立ち上がった。作戦通り、部下たちはまずゴム弾で目標の動きを止めようとしている。当たった以上、女は昏倒するはずだ。倒れることを見越して、ソレッラは部下たちに次の指示を出そうと手を上げかけて、止めた。
女はまるで撃たれたことが嘘のように立っていた。
倒れるでもなく、衝撃に膝を折るでもなく、微動だにせず悠然と立っている。太ももの上で跳ねた琥珀色の弾丸が石畳を転がって暗闇に消えた。
部下たちは目の前で起きたことをいまひとつ理解していないようであったが、答えはひとつしかない。
――吸血鬼だ。
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