新訳グリムハンズ ～彩桜高校童話研究会活動録～

第五章：ヘンゼルとグレーテル

一頁「決別」

　この日の月明かりは、眩しい位だった。街灯がなくても、歩くのに苦労しないだろう。

　灰色のレディーススーツ姿の若い女が背後を窺（うかが）いながら、人気のない道路を走っている。

　女性を追う二つの影が駆けていた。

　それは、紛う事なき異形だ。

　身体的な構造は、人間と大差ないが、人と一線を画す存在であるのが一目で分かる。

　月明かりでも真っ赤と分かる口内に、釘のような鋭い牙が二列並び、表皮の鉄（くろがね）の光沢は、月光を艶（なま）めかしく受け止めていた。

　一体は、頭部に鋭利な角が三本あり、一体は、白い髪を腰まで伸ばし、胸には、二つの豊満な膨らみがある。

　髪の長い異形は、一足跳びで距離を詰め、女性の喉に食らいつき、水音を立てた。

　吹き出す血で異形の顔が染まり、鉄の擦れ合うような咆哮は、嬉々とした響きを奏でる。

　答えるようにもう一体の異形は、女のシャツを剥ぎ、柔らかな腹の肉をさくりと噛み千切った。

　咀嚼（そしゃく）した肉を飲み込むと、二つの異形は、顔を合わせて首を傾げた。

　彩桜市 上谷区 雄志麻町（ゆうしまちょう）にある三島通りは、最寄り駅から徒歩三十分かかる辺鄙（へんぴ）な場所で、昼夜を問わず人通りは多くない。

　だが今日に限っては、警察官と野次馬で埋め尽くされている。

　本日の午前七時頃、道路に大量の血痕があると通行人から通報があり、県警が現場を封鎖。昼になっても鑑識作業が続いていた。

　規制線の外で作業を眺めるダークグレーのスーツを着た男が一人いる。

　精悍な顔つきをしており、無精ひげとライオンの鬣（たてがみ）のような髪は、会う者に威圧感を与えるだろう。

　警視庁捜査一課の刑事である倉持（くらもち）健吾（けんご）は、県警のベテラン鑑識官、堂島（どうじま）勇作（ゆうさく）を手招きで呼んだ。

「どうです?」

「この出血じゃまず助からんだろうな。だが遺体はどこにもない。東京で起きている例の事件と手口が似ているな」

「関連があるかもしれないと、そちらの中松警部から連絡が。それで俺が確認に来たんです。同一犯だとすると、これで五件目か」

　最初の事件は、一週間前。

　新宿駅構内に大量の血痕が残されていた事から始まった。

　いずれの現場も致死量の血痕が残されていたが、遺体はどこにも見当たらない。

　当初動物の血を使ったいたずらではないかとの見方もされたが、鑑識によって血痕は、人の血液である可能性が高いと結論付けられた。

　以来、同様の不可解な事件が立て続けに四件起き、東京のベットタウンである彩桜市で五件目となる事件が発生し、管轄外である倉持が現場に赴（おもむ）いたのである。

「どこに消えたんだ。まるで霞だ」

　堂島の問いに、倉持は口を噤（つぐ）んだ。

　倉持と堂島の間に沈黙が流れると、スマホの着信音が倉持のズボンの左ポケットから鳴り、

「失礼」

　堂島に会釈してから、倉持は、着信に応じた。

「はい。徳永刑事部長。ええ、同一犯かと」

『そうか。なら正太郎に連絡を取ってくれ』

　徳永から告げられた名前に、倉持の眉尻が跳ねた。

「あいつに?」

『恐らくは、彼の範疇（はんちゅう）の事だ』

「受けますかね?」

『ちょうど借りを作った所だ。君も会いたいだろう?』

「向こうがどう思ってるかは……」

『私から連絡しようか?』

「いえ私から電話します。それでは失礼します」

　倉持は、徳永との通話を終えると、電話帳アプリを開き、如月正太郎の名前を見つめた。

　瞳には、懐古と苛立ちを混ぜた灰色が浮かんでいた。

　正太郎が事件現場に着いたのは、県警による鑑識作業が終わり、倉持以外の捜査員が撤収した正午過ぎだった。

　正太郎は、朱色のジャケットの襟（えり）を直しながらアスファルトに染み込んだ血痕を日常的な光景であるかのようにしばし眺め、倉持に視線を移した。

「三十四歳で警部か。出世したのな」

「見立ては?」

　素っ気ない対応に、正太郎の眉尻がわざとらしく下がった。

「旧友との再会を喜ばねぇの?」

「親友が十年近く姿をくらまして去年帰ってきたと思えば、会いにも来ないし、連絡も寄越さない。三十男でもすねて当然だ」

「男がやっても可愛くねぇ――」

「見立ては?」

　倉持の視線が鋭さを増して正太郎に突き付けられる。

　正太郎は、嘆息を交えながら後頭部をかいた。

「腹空かせたヒグマが犯人じゃねぇなら、まぁワードだろうな」

「嬉しくない予感程当たるもんだ」

「これで五件目だっけ?」

「他の現場もここと似ている。血痕は、人間の血液の可能性が高い。どの現場にも動物が居た痕跡はないという点もな」

「じゃあ、ほぼ決まりだ」

「討伐を頼めるか?」

　倉持の纏う気配が一層重みを増した。

　旧友を命の危険に巻き込む罪悪感。濃厚な後悔が香ってくる。

「任せろ。だが一つ頼みがある」

　正太郎は、飄々（ひょうひょう）とした声音で言った。

　しかしその表情は、強張っている。

「今度一杯奢らせてくれ。色々と謝りたいんだよ」

　正太郎の固い面差しと反比例するように、倉持の表情から険しさが抜けていった。

「奢られてはやるが、謝る必要はない。ちょっとお前を困らせたかっただけだ」

「必要あんだろ!　俺は、あんたの――」

「一生分謝ってもらった。お前のせいじゃないのに、お前は謝ってくれた。俺は、最初からあの子の事は、お前のせいじゃないと思ってる」

まっすぐ見つめてくる倉持の瞳に、正太郎はバツが悪そうに背を向けた。

「……ありがとな、倉持」

　正太郎が規制線へと向かって歩き出したが、

「正太郎」

　倉持の呟きが足を止めてくる。

「新しく仲間を作ったんだってな?」

「仲間じゃない。生徒だよ」

　振り返った正太郎の表情は、汚泥のように淀（よど）んでいた。

「お前、仲間を作る資格はないとか、また馬鹿な事を思ってるのか?」

　倉持の眼光がこの日一番の鋭さを見せる。

「正太郎。俺は、今でもお前を親友だと思ってるし、仲間だと思ってる。お前がそう思っていなくてもだ」

「あんたは、相変わらずまっすぐだな」

「皮肉はよせ」

「違ぇよ。本当にそう思ってるんだ」

　正太郎は、規制線のテープをくぐると、倉持に背を向けたまま、逃げるように現場を立ち去った。

　放課後、童話研究会をエリカ、薫、涼葉の三人が訪れると、正太郎が靴を履いたまま長机に両足を乗せて、アンデルセン童話集の文庫本を読んでいた。

　汗ばむ事の増える季節となり、エリカ達は、半袖シャツとノータイの夏服に衣替えしたが、正太郎は、春の頃から一貫して朱色のジャケットを羽織っている。

「先生、昼間どこ行ってたの?」

「ちょっとな」

　いつも通りの日常と受け答え。そのはずなのに、エリカは、正太郎の反応を訝しんだ。

　付き合いの浅い人間ならば、普段と変わりないと思う程度に平静を装えている。

　しかしエリカは、今の正太郎が平静ではないと察していた。

「ワード絡みでしょ?」

　エリカの指摘に、正太郎は、嘆息で同意した。

「ねぇ、どんな奴?」

　正太郎は、アンデルセン童話集を閉じて本棚に戻すと、エリカと向かい合うようにして立った。

「俺一人でやる。お前達は、関わるな」

「何言ってんの?　先生のグリムハンズは、殺傷力皆無じゃん」

「今回は、必要ない」

「まーたまた。雪の女王のワードを倒せたぐらいで調子乗っちゃってさー」

「何度も言わせんな。必要ねぇって言ってんだ」

　――その言いぐさは、何?

　必要がある。

　必要がない。

　必要云々。

　まるで物に対して使うような言葉がエリカには、ひどく腹立たしかった。

「なんで今回は、私ら入れたくないの?」

「エリカちゃん」

　このままでは、エリカが爆発すると思ったのだろう。涼葉が肩に手を置いて宥（いさ）めてくる。

　しかし燻（くすぶ）った不快感を無視する事が出来ず、エリカの語調は激しさを増した。

「おかしいよ!　今までだって危険だったけど、一緒に戦ったじゃん!」

「今回は、今までよりも相手が悪りぃんだよ」

　対する正太郎も、折れる気配を見せない。

　普段の軟派さは、微塵もなく、目の前に居るのが本物の如月正太郎なのか、疑いたくなる。

　今までよりも危険だというなら尚の事、一人で行かせる事は、憚（はばか）られた。

「危険だったら、余計にみんなで一緒にさ!」

「エリカ。勘違いするなよ」

　エリカには、直感があった。

　きっと一番言われたくない言葉をぶつけられてしまうのだと。

「俺達は、仲間じゃない」

　――やっぱりだ。

「俺とお前達の関係は、教師と生徒だ。その一線だけは、明確にしとくぞ」

　――こんなセリフを言われると思っていた。

『俺が最後の瞬間まで隣に居てやるよ。その瞬間をみとってやる』

　あの言葉は、嘘だったのか?

　エリカを救ってくれた大切な言葉が嘘だったとしたら――。

「分かった……もういい」

　きっと、ここに居たら、もっと嫌な事を言われる。

　正太郎への信頼が嫌悪に変わってしまうかもしれない。

　エリカは、逃げる事を選び、部室を飛び出した。

　涼葉は、エリカの背中を見送ると、侮蔑を込めて正太郎を睨んだ。

「如月先生。今の言い方は、酷すぎます」

「悠木先輩、とりあえず沙月さんのとこに行こう?」

　薫は、そう言って涼葉の夏服のシャツの袖を引っ張った。

　納得がいかないのか、薫も睨む涼葉だったが、薫が苦笑すると、渋々頷いた。

「先生。終わったら僕達にも報告してよ」

「ああ。悪いな」

　正太郎は、視線を合わせようとしなかった。

　部員の中では、薫が正太郎との付き合いが一番長い。

　正太郎の手酷い言葉の裏には、彼なりに思う所があるのだろうと察し、そして追求するべきではないと判断したのだ。

　薫が涼葉の背中を押して、部室を後にしようとすると、

「悪いついでに、エリカの事、頼むわ」

「了解」

　薫は、素直にこれを受け入れて、涼葉と共にエリカを追った。