三頁「援軍」
エリカと薫は、エスカレーターを駆け上がり、目的地である小説・児童書コーナーがある三階に辿り着いた。
追跡者の数は、ネズミ算式に増え続けており、人の群れがエスカレーターに敷き詰められている。
理性が失われている事が幸いし、追跡者が殺到した事でエスカレーターは、満員電車に等しい密度となり、身動きが取れなくなっていた。
エリカは、上着の右ポケットからビー玉を取り出すと、血を塗り付けて宙に放り投げた。
血が浸透したビー玉は空中で爆ぜると、ガラスの壁を形成してエスカレーターの出入り口を寸断した。
「少しは、時間稼げるかも」
エリカの安堵を否定するかのように、ガラスの壁を煌めきが刺し貫いた。
「沙月さん、全然ダメだ!?」
「これって鏡の破片? 鏡に関するワード?」
これを容易く射抜くのは、尋常な威力ではない。
さらにもう一つ破片が突き刺さり、また一つ鏡の破片が打ち込まれる。
ガラスの壁に無数の亀裂が走り、やがて人の群集がひび割れた部分を拳や足で叩き始めた。
「やばいよ沙月さん! これやばいって!」
最初は一人が、続いて二人が、そして三人が、叩く人数が増えるにしたがって、ガラスの壁の
「グリムハンズ!!」
「殺せぇ!!」
「グリムハンズを!!」
先程よりも暴徒の声に宿る殺意が増してきている。
この調子では
「行こう薫君!」
「う、うん」
二人が童話コーナーに走るその頃――。
「ゾンビ映画だな、こりゃ……」
文章館に足を踏み入れた正太郎は、眼前の光景に圧倒されていた。
意志を失った人々計三十人程が、床に散らばった鏡の破片や本を踏みつけながら徘徊している。
感覚が鈍っているのか、まだ正太郎には気付いていないようだが、存在を気取られた瞬間、血生臭い事態になるのは明白だ。
正太郎は、一旦外に出ると、ワイヤレスヘッドセットを左耳に付けて、エリカに電話を掛ける。
『先生! 着いたの?』
焦燥しながらも安堵に満ちたエリカの声が正太郎の鼓膜を揺らした。
「お前等無事か?」
『うん。でもどの本のワードか、分からなくて』
「俺も正直見当がつかねぇ。今何階にいる?」
『三階の童話コーナー。でもガラスで封鎖してるから入れないと思う』
「なんとかする。お前達は籠城してろ。いいな?」
『うん』
正太郎は、左の人差し指の付け根を噛み切ると、赤黒いイバラを形成し、腕に絡み付けた。
左腕を掲げると、イバラは文章館の屋上まで伸びて、落下防止用の手すりに巻き付き、正太郎を三階まで引き上げてくれる。
宙づりの状態でジャケットの右ポケットから特殊警棒を取り出すと、目の前にある窓ガラスを打ち破った。
店内に入った正太郎は、左腕に巻き付いたイバラを霧散させ、
「涼葉、作戦通り頼むぞ」
ぽつりと呟いた直後、
「先生!?」
正太郎の立つ通路の正面に、エリカと薫が驚きと安心が混ざった表情を浮かべながら駆け寄ってきた。
「無事みたいだな。二人とも怪我ねぇか?」
「うん。私は大丈夫」
「なんとか僕も平気。生きた気しないけど」
「よかった。それで何か分かったか?」
エリカは首を横に振り、嘆息を零した。
「全然。どの物語がモチーフのワードか、見当もつかなくてさ」
「この状況じゃ焦るなって方が無理だが、もう一度落ち着いて奴の行動を思い出せ。エリカ、事の始まりは、どうだったんだ?」
「最初は……私と薫君で入ったカフェでウェイトレスさんが転んだの。それが発端になって喧嘩が始まって……その喧嘩がカフェ中の人に広まったの。ウィルスが伝染するみたいに」
「カフェって、二階のカフェか? やたらとガラス張りの」
「そうそう。すっごくおしゃれなとこ」
「お前ああいうのが趣味か。俺にゃ分かんねぇセンスだわ」
「おしゃれなカフェじゃん!! ねぇ薫君!?」
薫は、エリカの問い掛けを受け流している。
「無視するな!!」
「いやいや沙月さん!! 今無駄話してる余裕ないだろ!?」
素気無く切って捨てながら薫が続けた。
「でさ、沙月さんが喧嘩を止めようとしたら、喧嘩してた人達が一斉に僕達を見て、グリムハンズだって叫んで追われたんだ。そしたら一人が壁に貼ってあった鏡を取り外して投げつけてきて、他の人達も操られ出したんだ。それで僕達が出口から逃げようとしたらワードが出てきて、それで……」
「ワードは、どんな姿をしてた?」
「えっと……巨大な肉の塊に鏡が埋め込まれてて、僕達の前に現れた途端、鏡の破片をばらまいたんだ。そしたら暴れてなかった人達もみんな……」
ガラスのカフェテーブルや壁に貼り付けてあった鏡。さらにワードの形状などを考慮すると、これが共通点であろう。
「ガラスや鏡と接触した人間が操られてるみてぇだな」
正太郎の推測に、エリカが満開の笑顔を咲かせた。
「そっか!! って!?」
今度は落胆に急降下していく。
「ガラスを操る私の能力使えないじゃん!! 被害増やしちゃう!!」
先程エリカがガラスの壁でエスカレーターを封鎖した時も、操られている人たちの殺意が増した。
能力が使えないのは致命的だが、不幸中の幸いで正太郎の推測の裏付けにもなる。
「まぁ私の事は置いといて。先生、ヒントが出たからワードの正体分かるでしょ!?」」
「と言いてぇところだが、鏡が出てくる物語なんて大量にあるからな。どうやって絞り込むか――」
正太郎の声を断ち切るように、ガラスの砕ける音が三階フロアを揺らし、無数の足音が向かってきている。
「くそ。あの足音分、制圧しなきゃなんねぇのかよ」
およそ数百人。それだけの人数を相手にするとなると、さすがにグリムハンズの身体能力でも厳しい。
ここからエリカと薫を連れて逃げる事は簡単だし、生徒を守るという目的だけならば、それが最善策である。
だが、このままワードを放置してしまえば被害が拡大し、ワードの存在が世間に露見する可能性に繋がる。
生徒に危険を強いるのが、どれほど愚かな事かを理解しながらも、この事態は、正太郎一人の手に余る。
「俺が操られてる奴の相手をする。お前達は頭を使え。奴の姿を見たのはお前達だ。必ず答えを導き出せる」
「グリムハンズだ!」
壮年の男がエリカを指差して、奇声を上げながら駆け寄ってきた。
その後ろから十が、さらに数十の群れが餌を前にした猛獣の眼光で迫ってくる。
正太郎は、左の人差し指の付け根を
「お前もグリムハンズ! 皆殺し! 皆殺しだ!」
「やってみろよ!」
正太郎が左腕を振るうとイバラは、鞭のようにしなりながら、壮年の男を打ち据える。
瞬間、男は、その場に倒れ伏し、寝息を立て始めた。
今度は、二人の若い男女が同時に飛び掛かってくる。
正太郎は、男の腹を警棒で打ち据えて撃墜すると、女の身体をイバラで縛り上げ、床に叩き付けた。
群衆を正確に、確実に、正太郎が制圧していく。
だが、いかに個の力が優れていようと数的暴力の前では、無力に等しい。
イバラと警棒を振るう正太郎だったが、次第に包囲網が形成されていく。
このままでは正太郎がやられてしまう。
焦燥に駆られるエリカと亀城であったが、
「大丈夫だ!! お前等は頭を使え!!」
二人の不安が杞憂であると言わんばかりに、正太郎の攻め手は精細さを増していく。
「左後方から二人!!」
何故なら正太郎の耳に届く少女の声が背後の敵を教えてくれるから。
少女の指示通りに正太郎のイバラは、背後の二人を縛り上げて無力化した。
「良いぞ涼葉、その調子だ!!」
正太郎の左肩に涼葉の分身、
童話研究会を出る直前、大勢の人間を相手取る事を予感した正太郎は、涼葉に頼んで
「先生と涼葉さん、すごい」
「沙月さん! 感心してる場合じゃないって! 正体考えないと!」
「あ、そっか」
正太郎の一騎当千の戦いぶりにエリカが圧倒されていると、スマホが鳴り響いた。
画面に表示されているのは、涼葉の番号である。
エリカは、スピーカー通話にして着信に応答した。
「もしもし涼葉さん?」
『エリカちゃん。聞こえる?』
「すごいよ涼葉さん!! 先生とのコンビネーション最強じゃん!!」
『ありがとう。ワードの正体見つけたかもしれないわ』
「ほんと!? どんな物語!?」
『雪の女王よ』
「雪の女王?」
『カイという少年とゲルタという少女の物語なんだけど、カイは悪魔が落として割った鏡の破片が刺さって人が変わってしまう。これってガラスや鏡の破片を浴びて豹変した人達にそっくりじゃないかしら?』
「確かにそうかも! よし正体が分かったなら顕現させて――」
正体が判明した喜びも束の間、エリカは、ある事に気付いた。
肝心のワードの姿がどこにもないのである。
人間を操ってこちらを襲わせてはいるが、ワード本体がこのフロアに居る形跡はない。
しかし、顕現させてしまえばワードは、存在も力も不安定となるはず。
グリムハンズへの憎悪と殺意に捉われたワードだ。
自分の正体を知っているグリムハンズを生かして帰すとは思えない。
「顕現せよ! 雪の女王の鏡の破片!」
エリカが叫ぶも、ワードは姿を現さない。
だが、正太郎を襲っていた群衆は、糸が切れたかのように次々と倒れ込んだ。
正太郎が倒れた人々の中から何名かの脈を取ってみると、拍動が伝わってくる。命に別状はないようだ。
「顕現した影響で操作能力を一時的に失ったな。でも油断すんなよ、お前等。ワードは、不安定で尚人間を容易く
正太郎の忠告がエリカの耳に届く頃、大気が水銀を含んでいるみたいに重くなった。
何かがこの場に足を踏み入れている。
食べる以外の目的で生命を奪おうとする者が発する特有の不快感、気配、憎悪。そうした感情が空気に溶け出している。
正太郎は、左肩に乗っている涼葉を見やった。
「涼葉、エリカ達の方へ行け。一緒に警戒して何かあれば教えてやれ」
「分かりました」
正太郎の左肩から飛び降りた
愛くるしい姿に微笑しながらエリカは、ビー玉を取り出し、右手の人差し指の付け根を犬歯で挟んだ。
敵は、間違いなくこちらに近付いて来ている。
音がする訳ではない。姿が見えるわけでもない。動物的な直感。
人が失って等しいそれをグリムハンズという超常が研ぎ澄まさせていると――。
『危ない!』
涼葉の悲鳴が上がり、エリカは、振り返った。
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