二頁「鏡の世界」
最初に喧嘩を始めたカフェの店員がエリカと薫を凝視している。
「グリムハンズだ」
――今なんて?
「殺せ」
今度は、男の声が呟いた。
「グリムハンズを殺せ!!」
「グリムハンズだ!!」
「グリムハンズ!」
グリムハンズという単語が先程の暴力のように、カフェ中に
カフェにいる人々は、一人の例外もなくエリカと薫をグリムハンズと認識しているようだ。
「なんで私達の事、知ってるの?」
「分かんないけど……やばいのだけは確かだよ」
グリムハンズとワードの存在は、各国の政府の手で情報操作され、世間に知られていない。
ワードに対する人類の認識が広まる事でワードがより強い力を得てしまうのを防ぐためである。
この場に居る全員がグリムハンズか、グリムハンズについて知っている特別な人間?
否と断じてよい。
このカフェに、グリムハンズを知る人間が偶然集まるなんて、天文学的確率だ。
なら可能性は一つしかない。その答えを口にしたのは、薫だった。
「まさか……ワードの仕業かな?」
「この人達に、ワードが何かしらの影響を与えているって事?」
「こんな不可解な事を起こせるのワードしか居ないよ」
日常を一変させうる力は、尋常のそれではない。
先程まで談笑していた人々の瞳に宿る鋭い感情がエリカと薫の肌を刺し貫いてくる。
二人は、互いを
この場に居たら数秒で撲殺される確信を共に抱いたからである。
さらに彼等は、ワードの影響を受けているだけだ。
罪もない人々へ向けて、グリムハンズを使うわけにはいかない。唯一残されたのが逃げるという選択。
哲学書コーナーの本棚を縫うように走り抜けながらエリカが後方を見やると、狂気の一団が奇声を纏って迫りくる。
書店で買い物を楽しんでいた人々は、異様な群れを前に困惑を浮かべ、悲鳴を上げた。
しかし操られた一団は、他の客など眼中にないのか、目もくれない。あくまで狙いは、エリカと薫の二人なのだろう。
全速力のエリカと薫が一階へ続く下りのエスカレーターに辿り着くと、速度を落とさないままヒョウのような身のこなしで駆け降りる。
一団の先頭を走っていた壮年の男は、エスカレーターに乗った途端、左手の壁面に張り付いている鏡に手を伸ばした。
男が鼻息を一つ鳴らして力を込めると鏡が壁面から引き剥がされ、エリカと薫目掛けて投げつけてくる。
エリカは、薫の後頭部を掴んで庇うように押し倒して
光を反射した破片が新雪のように舞う中を人々が逃げ惑う。
エリカと薫が立ち上がり、エスカレーターから降りた瞬間、
「グリムハンズだ!」
「殺せ!」
「グリムハンズ!」
漫画コーナーに居た人々までもが狂気に身を任せ、襲い掛かってくる。
エリカは、薫の手を引いて、漫画の並んだ本棚の列を突っ切って出口を目指した。
本棚や平積みされた本を蹴散らしながら、数十の狂気が追跡を諦めない。
とにかく外へ出なければ。
傷つけられない以上、最善手は、逃げの一手以外にない。
出口まであと十メートル。
ようやく見えてきた希望への扉を阻むように、頭上から虹色の光が墜落してくる。
エリカと薫は、反射的に後方へ飛び退き、墜落してきたモノと距離を取った。
それは、二メートル程もあろうかという
数百を超えるひび割れた鏡の破片を、
腐肉が鼓動する度に鏡のひび割れは広がっていき、一際大きく脈打つと、ひび割れが消え失せ、真っ新な鏡面を取り戻した。
腐臭と酸の刺激臭に
異形は、
歩みは亀のように遅いが、数センチ距離が詰まるだけで圧迫感が倍々に膨らんでいく。
後方や左右は、狂気に駆られた人の壁が形成されて、徐々に押し迫っていた。
前も後ろも左右も抑えられ、エリカと薫を中心として完全な包囲網が完成している。
「操られてる人達は、全部このワードの仕業かな?」
薫の推測に、エリカは相槌を送った。
「許せない……何の関係もない人を操って争わせて傷付けるなんて。今すぐこいつを倒さないと――」
エリカの提案に、薫の顔色が曇る。
「何言ってるんだよ! どんな物語から発生したワードか分からないんだぞ!」
「そっか……意味を理解して倒さないと――」
「力を増して復活する。人を洗脳するか、あるいは狂わせる力。これが強化なんかされたら大惨事だよ」
とは言え、このまま放置するわけにもいかない。
また敵が姿を見せた事は、エリカ達にとって好機でもあった。
ワードの姿は、人の深層意識の影響で
ワードの正体が鏡に関係した物語である事は分かるし、能力も加味すればワードの正体にも推察が届くだろう。
とにかく今は、迫る追っ手を撒く事の方が先決だ。
問題は、包囲網のどこを破るか?
「薫君」
「仕方ない……正面突破しよう」
倒しさえしなければ、ワードにはグリムハンズを使えるし、操られている人々の相手をするよりずっといい。
並の人間相手では、常人の数十倍以上と言われるグリムハンズの身体能力強化は過剰であるし、手加減すれば物量の差に押し潰される。
エリカと薫が右人差し指の付け根を噛み切ると、ワードは腐肉を震わせた。
身構える二人だったが、ワードからは、攻撃の意志が感じ取れない。
ただシャランシャランと音を立て、身体を揺らしているだけだ。高い確率で攻撃ではない。
しかし相手の能力が分からない以上、無闇に仕掛けるのも得策とは思えなかった。
時間にして一秒にも満たない迷い。極小の時間の切れ間へ刺し込むように、ワードの腐肉から鏡の破片が剥がれ飛んだ。
エリカと薫は、咄嗟に両腕をクロスさせて防御姿勢を取る。しかし鏡の破面が二人に突き刺さる事はなかった。
破片は、月夜に降る雪のように輝きながら一階のフロア全体に降り注いでいく。
吸い込んではいけない毒のような物?
エリカは、警戒して息を止める。
それとも触れるだけで致命的な何か?
肩に降り注いだ破片に恐る恐る触れるも何も起きない。微細な鏡の破片だ。
では、この行動の意味は、一体?
エリカが考察する事を許さぬように、
「グリムハンズ!」
「殺せ! 殺せ!」
ある者は、エレベーターや階段を駆け下りながら叫び、
「グリムハンズだ!」
「我が怨敵!」
先程まで赤子を抱き、怯えていた母親達も加わり、
「グリムハンズの肉を裂け!」
「骨を砕け!」
一人また一人とエリカと薫の包囲網に加わっていく。
すでにその数は、百人超にまで膨れ上がっている。
文章館に存在する全ての人々をワードの放つ狂気が飲み干したのだ。
とにかくワードを叩かねば、状況が好転する事はない。
エリカが右手にビー玉を構えると、ワードを守るように人々が立ちはだかり、壁を作った。
「くっ!?」
ワードを攻撃して怯んだ隙に、外に出る策は消えた。
他の出口を探すのも、百単位の人間が敵と化した現状では、最善とは言えない。
だが不思議な事に洗脳された人々は、走って距離を詰めてこようとはしない。
一歩一歩、獲物の精神をいたぶるかのように、包囲網の輪が縮んでいく。
「沙月さん、どうする?」
「どうするって……桃太郎の力で操るのは? 人間操れるんでしょ?」
「考えたけど、僕の血をこの人数に、しかも同時に経口摂取させる方法が思い付かない」
「他に策は?」
「なし。そっちは?」
「気が合うね。私も」
この状況における最も優れた手は、なんだろうか?
追いつめられた状況でエリカの思考は、却って冷静さを保っていた。
まず当初の目的である外への逃亡。これは愚策である。
このワードと操られた人々を放置してしまったら、どんな事態が起こるか分からない。
エリカや薫を追って書店の外に出るのか。
それとも共通の敵であるグリムハンズが居なくなった事で、先程のカフェみたいに操られた人同士で殺し合いを始めるのか。
少なくとも二人が逃げ出す事が起死回生の一手でないのは、間違いない。
ワードを倒してしまえれば一番だが、正体が分からない以上、それも出来ない。
人間を操る能力を持ったワードが力を増して復活したら、今よりも厄介な状況になる。
そうなると取れる選択肢は、一つしかない。
「薫君。上に行こう」
「え!? 逃げ場ないよ!?」
「ここだって同じ。それに三階は、童話とか小説のコーナーがあるでしょ。そこでこいつの事を調べれば……」
「でもさ!」
「薫君、覚悟決めて!」
「……くそ。どうせ逃げられないなら、戦う術のある場所の方がいいかもね……」
二人は、頷き合うと地面を蹴って跳躍し、人の輪で作られた包囲網を飛び越える。
グリムハンズの強化された身体能力が助走を付けずに高度二メートル超、幅十メートル弱の跳躍を容易く可能にした。
ワードが身震いして、鏡をシャラシャラ鳴らすと、操られた人々は、エリカと薫を目指して一斉に駆け出した。
エリカは、薫と共にエスカレーターを跳ぶように登りながら、スマホを手にする。
「もしもし先生!!」
『遅いぞエリカ。何してんだ?』
「助けて! ワードに襲われてる!」
エリカの救援要請に、電話越しの正太郎の声が張り詰めた。
『今どこに居る!?』
「本屋さん!」
『どんな形状だ? あとワードの能力は?』
「鏡を貼り付けた肉の塊の形状をしていて……人を操る能力があるみたいなの」
『厄介だな。何人操られてる?』
「数十人か……百人以上。もっと増えるかも。どんな物語のワードか分からないから倒せなくて――」
『分かった。すぐに俺が行く。本来の目的じゃねぇが、対人戦なら俺のグリムハンズは使い勝手がいいからな』
「でも凄い数で持ちこたえられるかどうか……」
『すぐに着くから持ちこたえろ! 絶対に諦めんじゃねぇ!!』
正太郎の怒声は、今まで聞いた事のない熱と悲壮を帯びていた。
――この人も、こんな声出すんだ。
もし、エリカと薫が死んだら、あの世まで来て、拳骨をくれそうだ。
諦める事を決して許さない。正太郎の想いに応える義務がエリカにはある。
「……分かった! 頑張る!」
『必ず助けるからな。待ってろよ』
「うん!」
エリカとの通話を終えた正太郎は、朱色のジャケットを羽織りながら涼葉の肩を叩いた。
「涼葉。ここにある本を調べてくれ。あとインターネットでも。キーワードは、鏡と人を操るだ」
「わ、分かりました」
正太郎が部室のドアの前に立つと、
「それからもう一つ頼む」
「もう一つ?」
「お前にしか出来ない事だ」
涼葉に振り返り、破顔した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます