新訳グリムハンズ ～彩桜高校童話研究会活動録～

三頁「童話研究会」

　童話研究会は、校舎三階にある北側の角部屋を使っている。

　日当たりは非常に悪く、まだ午前中だというのに電灯を点けないと薄暗い。

　元々物置だった頃の名残か、色あせたカラーコーンや年代物のブラウン管モニター等、活動内容と関係ない雑多な品が床のあちらこちらに点在している。

　けれど童話研究会の名に恥じず、部屋の壁一面に本棚が備え付けられていた。

　棚にはハードカバーや文庫本、エリカが見てもそうと分かる年代物の本が窮屈（きゅうくつ）そうに詰め込まれており、背表紙のタイトルは日本語や英語だけでなくエリカが見た事のない言語もいくつかある。

　部屋の中央にある長机の上は、電気ポット・インスタントコーヒー・ティーバックが申し訳程度にある以外、本で埋め尽くされていた。

　部屋にある全ての本は、千冊か、あるいはさらに膨大だろうか。

　視界を埋め尽くす本の海に、エリカは圧倒されるばかりであった。

「これ全部先生の?」

「趣味と実益を兼ねてな」

　趣味はともかくとして、実益とはどういう意味か?

　同好会の活動や授業で使う以外のニュアンスが込められているように思えた。

　詳しく尋ねてみたいが、それ以上の関心事は、あの赤黒いイバラである。

「あのイバラは、なんなんですか?」

　尋常の物でない事だけは確かだ。

　秘密を簡単に答えてくれるだろうか？

　エリカの懸念を余所に正太郎は、あっさりと口を開いた。

「俺のグリムハンズだ。物語をモチーフにした異能だよ」

　素直に教えてくれたが、説明を理解出来るかは、別問題だった。

　普通なら空想癖を疑う所だが、あのイバラが正太郎の話が嘘偽りでない証だ。

　ならば強引にでも彼の言葉を噛み砕いて飲み込むしかない。

　どれほど奇怪に思えても常識を逸脱しようと、沙月エリカが欲しいのは真実だ。

　探究心の渇（かわ）きに支配されたエリカの貪欲（どんよく）さが伝わったのか、微笑ましげに正太郎は続けた。

「百年程前から生体単語（ワード）と呼ばれる存在が現れ始めた。こいつは特定の物語を象徴する単語が現実に顕現（けんげん）したもんでな」

　あまりにも想像していなかった方向に話が向かった事で混乱が生じる。

　上手く疑問を言葉に出来ず、エリカのもどかしさは膨らんでいった。

　対する正太郎は、エリカが話を咀嚼（そしゃく）するのを待ってくれている。

　けれどこのまま自分なりに考えた所で答えは出ないだろう。

　まずは、話を先に進めて貰った方がいい。

「先生。続きを話して」

「事の始まりは、一九〇八年。地球の各都市で何かと何かが衝突したらしい。ロンドン・パリ・ベルリン・上海……そして東京」

「何か?」

「神々、もしくはそれに等しい者達。正直な所、詳細は今になっても分からねぇんだよ。それらが尋常な人間の能力と技術で観測出来ないって事以外な。神の息吹の残滓か、それとも悪魔の悪意の残り香か」

「いまいち信憑性（しんぴょうせい）に欠けるんですけど。妄想を聞いてるみたい」

　正太郎は、自身の右手の甲を左手で軽く叩いてから悪戯（いたずら）っ子のように笑んだ。

「じゃあ俺の手からイバラがビロビロ伸びたのも妄想か?」

「それは……」

「これは妄想じゃない。人の知覚を超えた次元で未知の何かがぶつかり合い、膨大のエネルギーが放出された。目には見えない。触れられない。だが、地球上の至る場所にある形のないエネルギー。俺達は、『揺蕩（たゆた）う力』と呼んでる。その揺蕩（たゆた）う力から生じたのがワードだ」

「形がないモノが、どうやって化け物に?」

「人間の意識ってのは、個々での影響力はないに等しいが、寄り集まると大きな力を持ち、形を持たない揺蕩（たゆた）う力を改変し得る。集積された影響力を最も反映しやすいのは万人の共通認識。その媒介として適切だったのが物語だった。そして物語や単語、登場人物達が――」

「ワードになる?」

　百年前、世界中で未知の存在がぶつかり合った。

　その影響で人間の能力では、観測出来ない未知のエネルギーが発生し、世界中に満ちている。

　未知のエネルギーに人間の意識が物語を通じて形を与え、ワードという怪物が現れるようになった。

　正太郎の話を要約するなら、こうなるだろう。

　エリカは、ひとまず整理が付いた所で、

「どうぞ」

　続きを促すと、正太郎は再び語り始めた。

「深層心理においてワードの存在を感じ取った人類は、脅威に対抗するべく揺蕩う力を改変、新しい力を顕現させた。それがグリムハンズだ」

「同じ力から生まれた……」

　――じゃあやっぱり私は。

「化け物じゃん……同じ揺蕩う力から生まれたなら同じ化け物でしょ」

「本質的にはワードと同じかもな。異能と異形は、表裏の存在。だが、一つだけ明確に違う点がある」

　エリカが首をひねると、正太郎は、右の拳を握り込んでから突き出した。

「ワードは象徴する単語・一節・物語を再現しようとする本能だ。でもグリムハンズは主を選び、その個人の意志に寄り添う力だ。本質は同じでも、この一点で両者は分かたれている」

　沙月エリカは、グリムハンズ。

　だからワードのように本能で動く化け物ではない。安心しろ。

　きっと正太郎は、そう言いたいのだろう。

　しかしエリカにとって真実は、自身の疑念を裏付けるものでしかなかった。

　殺戮の原因は、自分じゃない。これがエリカの一番欲しかった答えだ。

　愛情深かった両親。

　我が子や実の兄弟のように接してくれた伯母夫婦の家族。

　保護してくれた施設の人々や親を亡くした子供達。

　自身が正太郎のように異能の力を持つのなら――。

「お母さんの首を切断したのも……お父さんをバラバラにしたのも、グリムハンズなら簡単に出来るんだ……」

　凶行を犯したのが自分ではないと言い聞かせる事で、沙月エリカの人格は保たれてきた。

　けれど、グリムハンズという異能がエリカに意志に寄り添うのなら、有り得てほしくなかった現実を突き付けられる。

　今朝見た夢の中で彼等が叫んだように、沙月エリカは化け物なのだと。

　最後に縋っていた希望の糸を断ち切られ、エリカの瞳をうつろな黒が渦巻いた。

「結局……殺したのは、私だったってわけ?　私の意志がグリムハンズを……」

「違う。お前のせいじゃない。俺が考えだと、お前の近くにワードが居たはずだ。お前の家族を殺したのも、そのワードだ」

「じゃあ何でワードが私の近くに三回も出たわけ!?　私が目的だったからでしょ!!」

　近くに怪物が居たというのなら、守る必要なんてなかった。

　エリカが怪物に食い殺されてしまえば、エリカが殺した人々は死なずに済んだかもしれない。

　両親は、娘を失った悲しみを背負うけれど、時間が傷を癒してくれたはず。

　伯母夫婦は、いつまでも家族四人で暮らせていた。

　施設の人々は多くの子供を救い、子供達は愛情深い里親に出会えていたかもしれない。

　エリカは、彼等が幸せを得られたはずの機会や可能性を自分の命一つのために根こそぎ奪ってしまったのだ。

「それに私は……人を殺した自覚がある……あるんだよ!!　私が何もしてないなら、こんな気持ちになるはずないじゃん!!」

「仮にお前の能力で人が亡くなっていたとしても、それはグリムハンズがお前を守ろうした結果の暴発だ。お前の意志がやったんじゃない」

「でもグリムハンズは意志に寄り添うんでしょ!?　私が生きたいなんて思ったからグリムハンズが暴走したんだ!!　全部私のせいじゃん!!」

「エリカ!!　落ち着け!」

「ていうか!　それ知った上で、私にどうしろってわけ!?」

　一人で背負い切れる大罪ではない。

一つしかない命をどう使えば、彼等への贖罪（しょくざい）になる?

　自分のせいで失われた十四人の命に、報いる方法が分からない。

　心臓の鼓動が胸と背中を突き抜けて感じられ、酷く不快だ。

　視界も、意識も、どろどろに溶け出している。

　目を潰して、何も見られなくなりたい。

　耳を千切り取って、何も聞こえなくなりたい。

　脳を取り出し、何も考えられなくなりたい。

「分かんないよ……どうやって責任取ればいいの?」

　大切な人達の人生を殺し尽くした化け物に許された責任の取り方。

「私が出来る事って何?」

　彼等の味わった苦痛以上に、苦しむ事だろうか。きっとそうに違いない。

　だって他に何がある?

　犯した罪は、あまりに大きすぎる。

　いくら考えたって等価交換となる行いなんて存在しない。

　生きて罪を償うなんて生きたい人間の言い訳だ。

　自分が可愛いから理屈を付けて生きようとしているだけ。

　仮に生きた所で、大切なものを壊すばかりの人間に何が出来る?

　――ダメだ。

　あの頃の記憶が濁流のように襲ってくる。

　――胸が痛い……もうこんなの嫌だ。

　記憶が灼熱となって心が焼かれていく。

　もう考えたくない。楽になりたい。

「エリカ落ち着け――」

「もう嫌だ……嫌だ!!」

　――ここに居たくない。

　エリカは抱いた欲求のままに行動し、教室を飛び出していた。