あのとき彼女は、なにを見つめていたのだろう。

 あのとき彼女は、なにを見つめていたのだろう。



 年齢というのは、不思議なものだとつくづく思う。

 同い年の人がいたとして。その人とは、おんなじ時代を歩んできたわけだ。一歳のときにはおんなじ一歳、五歳のときにはおんなじ五歳、十歳のときにはおんなじ十歳。そしていまの時点では、おんなじ十九歳。

 おなじ背丈で、世界を見てた。

 おなじ瞬間に、世界を見てた。

 なのに、まったく違うのだ。

 当たり前のことのようだけど、これはじっさい、とても大事なことだと思う。

 おなじ教室でおなじ授業を受けおなじ景色を見ていたはずの彼女は、私とは見えているものが違っている。

 そういうことだ。年齢というのは、本質ではない。それはあくまで、属性である。そのことをわかっている人はあんがいすくなくて、だから争いや諍いが起こるのだと思う。


 私はいわゆるゆとり世代である。

 週休二日も総合の時間も、ゆとりだと笑われることも経験してきた。そしてその経験を、同年代の友人たちと共有してきた。土曜日は昼まで寝てたいなあ。次の総合の時間なにすんの?きのうネットしてたら、ゆとりとか言われたんだけど。

 私はいまでも、ゆとり世代という話題で、同年代の友人たちとおおいに盛り上がることができるだろう。

 なぜならゆとり世代であるという事実は、ひとつの経験であり記憶であり、言ってしまえば思い出であるからだ。そう、世代というのは、じつはある年代の人々が共有している思い出のことを言うのだと思う。

 だからそれとどう付き合ってゆくかは、あくまでその人次第。世代という思い出に囚われきってしまうか、世代という思い出を楽しむか。

 結局のところ最後は、その人自身が問われるのだ。年齢が本質でないのとおなじに、世代も本質ではない。なぜならそれは、経験でしかないから。


 だから私は、思うのだ。

 あのときおなじ教室でおなじ授業を受けおなじ景色を見ていた彼女は、なにを見つめていたのだろう。

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