17限目 妹、おちる……。

 どどどどど、どうしよう……?


『うちに来る?』


 なんて言われて、反射的に『うん』と言ってしまったあたしは、今お兄ちゃんの部屋のお隣に住むお姉さんの部屋に上がり込んでいる。


 大ピンチだ!


 お姉さんのことは全く知らない。

 二色乃高校の生徒ということと、教師のお兄ちゃんを知っているということだけで、あたしとは何の接点もない。


 なのに、お姉さんはとても優しい。

 部屋に迎え入れ、あまつさえご飯までご馳走してくれるという。

 お兄ちゃんに会いに来たのに、まさかお隣さんでご飯を食べることになるとは思わなかった。


 本当なら――。


『お兄ちゃん、こんなにお部屋を汚して。仕方ないわね。あーやがお掃除してあげる』


『ありがとう、あーや』


『お腹空いてるの? もう、今からご飯を作るから待ってて』


『おいしいよ、あーや』


『お兄ちゃん、お仕事ご苦労様……。肩を叩いてあげようか?』


『ありがとう、あーや。ううっ……。涙が出るほど嬉しいよ』


 という計画だったのにぃい!!


 これもそれも、お兄ちゃんが家にいないせいだわ。

 お兄ちゃんに1人暮らしなんて無理なのよ。

 昔から甲斐性がないんだから。


 ――ところで……。


 お隣さんとお兄ちゃんって、どんな関係なんだろう。

 教え子と教師ってのはわかるよ。

 でも、生徒と先生が同じアパートに住んでるってのは、レアなシチュエーションと思うし。


 ――それに……。


 気のせいかな。



 この部屋、かすかにお兄ちゃんの匂いがするんだけど。



 あたしはキッチンを見回す。

 なんて言うか綺麗な部屋だった。

 片付いているというか。

 すべてがきちっと収まっているというか。

 何か研ぎ澄まされた機能美みたいなのを感じる。

 昔、社会科見学で訪問した陶芸家の工房みたいだ。

 職人のキッチンとでも言うのかな。


 その中で、お姉さんは食事を作っている。

 どこか楽しそうだ。現にかすかだが、鼻唄が聞こえる。

 だけど、動きに全く無駄がない。

 鼻唄にも、料理を作る時のリズムを取るというか、時間を計るというか、そんな意図すら感じる。


 じゅぅぅぅうううううう!


 勢いのよい音に、あたしは顔を上げる。

 漂ってくる匂いに思わず反応してしまった。


「ふぇ……」


 慌てて溢れてきた唾液を飲み込む。

 あたしも料理をするからわかる。

 これはひき肉を焼いている時の匂いだ。


 たまらずキッチンの方を見ると、ちょうどこちらを向いたお姉さんと視線が合った。


「もうちょっとだから待っててね」


 長い黒髪を揺らして、お姉さんはニコリと微笑む。

 天使みたいに神々しく。

 同性なのに思わずドキリとしてしまった。


 最初から思っていたけど、お姉さんはとても綺麗な人だ。

 腰付近まで伸びたサラサラの黒髪。

 顔は小さく、ブラウンに近い薄い黒目は神秘的で、遠目から見てもはっきりとわかるほど、睫毛が長く、自然とカーブを描いている。

 眼鏡がとても理知的で、けれど身体から漲ってくる母性のようなものを遮ることはなかった。


 ――スレンダーだし。なのに、出るところは出ているし。……うらやましい!


 あたしは思わず自分にはないものを触る。


 その時、またひき肉の匂いが鼻腔を衝く。

 我に返ると、あたしはお姉さんに尋ねた。


「何を作っているんですか、お姉さん? この匂いって」


 ああ……。

 自分の幼児体型のことよりも、今はこの匂いが気になる。

 多分、あたしの予想ではハンバーグとかそういうものだと思うけど。


「できてからのお楽しみよ」


 お姉さんはちょっと悪戯っぽい笑みを浮かべて誤魔化す。

 何だかそう言われると、むちゃくちゃ興味が湧いてしまった。

 さっきからお腹がゴロゴロと鳴っていて、我慢するだけで精一杯だ。


 しばらくして、何もなかったテーブルに次々と食事が運ばれてくる。


 オクラの和え物に、レタスとトマトのサラダ。

 お味噌汁の具材は、わかめと干し海老らしい。


 最後に皿に盛られたのは、例のひき肉を作った料理だった。


「ハンバーグ?」


 と思ったら違う。

 お姉さんに聞くと、「豆腐ハンバーグ」だという。


 そこに大根おろしとポン酢を大量にかける。

 おいしそう。

 思わず「ふおおおお!」と声を上げてしまった。

 頭の中が食べ物一色になる。

 さっきまでお兄ちゃんの部屋の前でべそをかいていたことを、あたしはすっかり忘れてしまった。


「いいの? あたし、食べて」


「いいわよ。元々2人で食べる予定だったんだけど、今日は友達の都合が急に悪くなって。ドタキャンされたの」


「じゃあ、お姉さんも一緒だね」


「そう。だから、一緒に食べましょうか?」


 ツインテールを揺らし、あたしはお姉さんとともに手を合わす。



「「いただきます」」



 まずいただいたのはお味噌汁だ。

 うん。出汁がよく利いてる。

 干し海老と一緒に入れているから、香りもいい。

 外は暑かったら、喉がからからだったし、ずっと見知らぬ土地で緊張していたせいか、冷えた胃袋にはちょうどいい。

 何かホッとする。

 そうだ。お姉さんの優しさが詰まっているんだ。


 レタスも新鮮だし、トマトもよく冷えていた。

 オクラの和え物も、生姜がピリッと聞いていて、いくらでも食べれそうなほど中毒性がある。食材からして難しい料理じゃない。あとでレシピを教えてもらおう。


 そして、やって来た。

 お待ちかねの豆腐ハンバーグに、あたしは手を付けた。

 ポン酢を吸った大量の大根おろしを載せて、あたしは大きく口を開けて食べる。


「むふふふぅぅぅうううううううう!!」


 何これ……。めっちゃふわっふわっなんですけど……!


 豆腐ハンバーグって、こんなにふわふわなんだっけ。

 市販の冷凍しか食べたことがないからわからない。


「おいしい?」


 お姉さんは尋ねてきた。

 あたしはどう言ったらいいかわからないから、とにかく頭を振って頷く。

 完全に語彙が消失していた。


 も、もう1度……。もう1回だけ口に運ぶ。


 不思議に思うほど、ふわふわだ。

 おそらく木綿豆腐を多めに使っているに違いない。

 そこにひき肉と玉ねぎの食感が加わる。


 大根おろしとポン酢の黄金コンビはここでも有能だ。

 さっぱりと食べられるから、あたしにしては大きめのハンバーグをもペロリと平らげることができてしまった。


 すごい。すごい。すごいしかいえない。


 味も凄いけど、つなぎとか何を使っているんだろう?

 小麦粉かな? あとでレシピを聞こう。


「はあ……。おいしかった」


 行儀が悪いとは思っていても、ついついお腹を撫でたくなる。

 お姉さんの料理は、そんな魔性の魔力が含まれていた。


「ねぇ、文子ちゃん」


「ふぇ?」


「写メ撮らせてもらっていい?」


 スマホを指差して、お姉さんは突然そんなことを尋ねてきた。

 断る理由もないので、お姉さんと一緒に写メを撮る。

 あたしからもお願いして、お姉さんの写真を撮らせてもらった。


 そしてあたしはお姉さんの家でお風呂までいただいた。

 ずっと外でお兄ちゃんを待っていたから、汗でベトベトだったのだ。

 着替えまで借りて、浴室から出ると、お姉さんは言った。


「玄蕃先生と連絡が取れたよ」


「え? お兄ちゃんのアドレスをどうして知ってるの?」


 途端、あたしの頭の中でサイレンが鳴り響く。

 やっぱりお隣同士。単なる教え子と教師の関係ではなかったのだ。

 つまり、あたしによくしてくれているのは、打算ヽヽ


 妹のあたしを籠絡して、お兄ちゃんとの関係を認めてもらうために……。


 許せない。

 お兄ちゃんは……。

 お兄ちゃんは……!


 お兄ちゃんは、あーやのものなんだから!!


 わっと炎が燃えさかる。

 あたしは怒りのままお姉さんに詰め寄った。


「あの……。お姉さん?」


「ん? 何?」


「お姉さんとお兄ちゃんって、どういう関係なんですか?」


「ど、どういう関係って。私と先生は何も……」


「で、でも、今連絡ついたって。なんでお姉さんが、お兄ちゃんのアドレスを」


「え? 学校のRINEを使ったんだけど……」


「あっ……」


 そういうことか。

 確かに。

 うちの学校にも教員直通のRINEがあったっけ?


 な~~~~~~~~~~~~~~~~~~~んだ……!


 うん。ならよし。

 危ない危ない。

 あたしの命の恩人に掴みかかるところだったわ。

 恩を仇で返すっていうのよね。

 良かった良かった。


「文子ちゃん、もう遅いから、今日は泊まっていきなさい」


「え? でも――」


「玄蕃先生の許可はもらってるし。親御さんにも、玄蕃先生から説明してもらえるそうよ」


 メッセージの内容を見せてもらった。

 確かに説明した通りのことが書かれてあった。


「それとも、私とお泊まり会するのイヤ?」


 あたしは激しく頭を振る。

 全然そんなことない。

 色々と聞きたいこともあるし。

 さっきの料理のこととか。

 お兄ちゃんの学校のこととか。

 あと……。む、胸のこととか。


「よ、よろしくお願いします」


「やった!」


 唐突にあたしはお姉さんに抱きしめられた。

 すっごい柔らかいものが、あたしの洗濯板に当たっている。

 良い匂いだし。

 胸だけじゃなくて、手や腕、頬も何かふわふわしてる。


 きゅ~。


 顔が熱くなる。

 やばい。まずい。らメぇ……。


 もう我慢できない!


「あ。ごめんごめん。文子ちゃん。私、昔から文子ちゃんみたいな妹が欲しかったから。つい――」


「いえ。大丈夫です。あと、あたしのことは『あーや』とお呼びください」


「じゃあ、私のことはこのりって呼んで」


「では、このりお姉様と」


「さ、様?」


「はい。今日からあーやを、このりお姉様と呼ばせてください」


 あたしはまたお姉様の胸の中に埋もれるのだった。





 こうして白宮このりは、うまく玄蕃文子に姉と認めてもらうことに成功したのだが、それは別の意味の「お姉様」であった。

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