第15話 教え子と妹(前編)
私としたことが迂闊だったわ。
いつも通り、眼鏡と長いウィッグで変装した私は「はあ」とため息を吐いた。
恨めしそうに見つめたのは、手に提げた買い物袋である。
買い物袋の中には、豚ひき肉と木綿豆腐、玉ねぎが入っていた。
豚ひき肉が100g99円で、玉ねぎ3個が138円と割安で売っていたから、脳死状態で買ってしまったのだけど……。
「よく考えたら、今日は玄蕃先生がいないのよね」
なんでも今日から明日まで、泊まり込みの新任教員研修で出張なのだそうだ。
おかげで今日の授業は、課題ありの自習だった。
学校では過剰に玄蕃先生を意識しないように努めているのだが、一目でも見られない日があると、やはり寂しい。
いっそのこと、県内にある新任教員研修のある研修所に行ってみるかなどと考えたが、生徒会の仕事と買い物が終わって、すでに時間は午後6時を回っていた。
さすがに今から行くと、帰ってくる頃には午後9時を回る。
加えて、玄蕃先生に会えるという保証もなかった。
ふと立ち止まって、空を仰ぐ。
夏至は過ぎたけど、まだまだ陽は落ちない。
感覚的にまだ昼ぐらいで、空もまだ青ざめていた。
生ぬるい風が商店街を通りぬけていくと、私が被った長いウィッグを揺らす。
夏の気配を感じた。
――帰ったら、何をしようか。
まずシャワーを浴びて、今日のご飯を作って、学校の課題をして、寝る。
うん。学生っぽい日常だ。
こうやって考えると、やることは色々とある。
けれど、何か物足りない。
そう。玄蕃先生が足りていなかった。
「ミネアでも部屋に呼んで、久しぶりに女子会でもしようかな」
何か寂しさを紛らわせたい。
こんな気持ちになったのはいつぶりだろうか。
思えば、玄蕃先生が部屋にやって来てから忘れていたような気がする。
ふとスマホの画面をタップする。
昼に1度だけメッセージを送ったのだが、まだ既読が付かない。
おそらく研修中は使用ができないのだろう。
「帰るか」
諦めて私は二色ノ荘へと歩き出した。
なるべくゆっくり歩いて、私は二色ノ荘に辿り着く。
すると、見慣れない人物を見つけた。
何故か玄蕃先生の部屋の前で、三角座りして、膝の間に顔を埋めている。
私より年下かな。
背がちっちゃくて、身体が細い。
小さなリボンで括ったツインテールがまた可愛い。
ただどうやら泣いているらしく、そのツインテールが肩を震わす度に揺れていた。
――どうしよう……。玄蕃先生のお知り合いかな?
そう言えば、妹がいると聞いたことがある。
かなり年が離れているとも。
見た目までは知らないが、年の恰好では合っているような気がした。
「あの……。大丈夫?」
「ふぇ……」
玄蕃先生の妹(?)は顔を上げた。
涙と鼻水でずるずるだ。
目も赤く腫れ上がっている。
ちょっと人には見せられないぐらい無様な表情をしていた。
でも、きっとちゃんとすれば可愛い女の子なのだろう。
目もパッチリしてるし、顔も小さいし。
思わず抱きしめたくなるようなマスコット的な愛嬌のある女の子だった。
「と、とりあえずこれ使って」
私はハンカチを差し出す。
「……あ、ありがとうございます」
女の子は涙を拭う。
すると、チーンと鼻をかんだ。
うん。お約束だけどやめてほしかった。
気を取り直して。
「えっと……。どうしたのかな? こんなところに座って」
「兄を待ってるんです」
「兄って……?」
一応、答えはわかっていたけど、私はあえて尋ねた。
「玄蕃進一です」
――やっぱり……。
「二色乃高校で先生をしていて。……あっ。お姉さんの制服って、二色乃高校の制服ですよね。何か兄のことを知りませんか?」
女の子は私の手を捕まえ、詰め寄る。
その迫力に私は戸惑った。捕まえる手の握力もなかなかだ。
「お、落ち着いて、妹さん」
「あなたにまだ妹と呼ばれるほど仲良くないです。あたしの名前は文子といいます」
ふん、と鼻息を荒くする。
何故か怒られた。
「ご、ごめんね、文子ちゃん。お兄さんに会いに来たのかな?」
「お兄さん?」
ギラリ、と文子ちゃんの目が光る。
「ご、ごめん。ええっと……。玄蕃先生に会いに来たのね」
「そうです。進一お兄ちゃんはどこにいるんですか?」
言葉こそ丁寧語なのだけど、私の手首を握る手は、ますます力が増していった。
「玄蕃先生は出張って聞いてるよ。明日まで帰らないって……」
ガァァァァアアアアアンンンン!
そんな鐘楼ごとひっくり返したような擬音が聞こえてきそうだった。
文子ちゃんは口を開けたまま固まる。
テンカウント聞いたボクサーみたいに真っ白になっていた。
「あ、明日まで帰ってこない。ど、どどどどどうしよう……?」
ぐるぐるとその場で慌てふためく。
やがて文子ちゃんの目から涙が浮かんだ。
昔の災害警報みたいな声で、泣き始めた。
にわかに周囲が騒々しくなってきた。
慌てたのは私も同じだ。
「あ、文子ちゃん、落ち着いて」
「だって……。だって……。お兄ちゃんに会いに来たのに……。折角、来たのに。お兄ちゃんがいないなんでぇぇえぇええええぇぇぇえぇえぇえぇえぇえ!!」
また泣き始める。
なんか手のかかる赤ん坊みたいだ。
ともかく今の状況はまずい。
まるで私がいじめているみたいだ。
現に通りかかった人が、猜疑の目でこちらを見つめている。
打開索を考えたものの、それすら面倒くさくなった私は思い切ってこう提案した。
「ね! 文子ちゃん、うちに来る」
「ふぇ? お姉さんの家に」
「おいしいご飯を作ってあげる」
そう言って、私は手に提げた買い物袋を掲げる。
すると、文子ちゃんは言葉ではなく、別の部分で返事をした。
きゅるるるる……。
小さく可愛い腹音が夕暮れの二色ノ荘に響くのだった。
(※ 後編へ続く)
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