8.5限目 2人の思い出(後編)
俺は白宮に掃除のコツを聞きながら、作業を始める。
「まずは余計なものは捨てましょう」
「断捨離ってヤツか。何か基準はあるのか?」
「今、この時点で目に見えていないものですね。簡単に取り出せない物です」
「簡単に取り出せない物?」
「たとえば、段ボールに入りっぱなしの本や雑誌ですね」
白宮はキッチン脇に積まれた段ボールに目を付ける。
薄く埃を被っていた段ボールの蓋を開けると、漫画本が入っていた。
往年のヒット作全巻が、段ボールに小分けされていた。
「これ、まだ新しいですね」
「ネットで全巻が安くて、衝動買いを」
「いつ買ったんですか?」
「ここに住むようになってからすぐかな?」
「読みましたか?」
「読んでない。休みの日にまとめて――」
「捨てましょう」
「え゛?? 待て待て。それは往年のヒット作で、俺の子どもの頃……」
「思い出はあるようですが、こういうのって意外と順位が低いんですよ。本当に思い出があるなら、買ってすぐ読むはずです」
「た、確かに……」
「大切にしてるというなら、本棚に並べるなりするでしょ? 買って、送られてきた段ボールのまま放置するとか論外です」
ぐ、ぐぅの音もでない、とはこのことだ。
「だ、だがな、白宮。それはちょっと高くてだな、諭吉さんが2枚……」
「なら、フリマアプリで売ればいいんですよ」
「いや、そういうのめんどくさいだろう」
「今、出品しました」
「早ッ!」
「今、売れました」
「超早ッ!!」
「2万で売れましたから、良かったですね。ちゃんとお金は戻ってきますよ」
とまあ、こんな感じで鉄血宰相ビスマルクもびっくりの無慈悲なお掃除が始まった。
「なんですか、この空気入れは?」
「それはバランスボールを膨らます時の……」
「バランスボールは?」
「……………………どこだっけ?」
「はい。排除。ついでにバランスボールも見つけて、捨てましょう」
「いや、ちょっと待て。俺の健康をだな」
「そんなものを買わなくても、身体は鍛えられますよ。それで、こっちの服は?」
「通販で買ったんだが、サイズが小さくて……」
「返品しましょうよ」
「いや、もうちょっと痩せれば……。だから、そのバランスボールをだな」
「排除」
「無慈悲!!」
「この作りかけの模型みたいなのは?」
「ああ。それな。創刊は500円で安かったんだが」
「排除」
「ひどい!」
「え? 土? なんでここに?」
「うわあああ! それは友達にもらった甲子園の――――」
「外に撒きましょう」
「ぎゃああああああああ!!」
こうして掃除は進んだ。
そして物はなくなった。
「スッキリしました」
白宮は満足げに額の汗を拭った。
物が散乱し、テーブルに続く動線以外は足の踏み場もなかった床は、新居のように輝き、水垢が付いていたシンクは眩いほど銀色に光っている。
お皿はきちんと1枚1枚戸棚に並べられ、窓枠についたちょっとした埃まで取り払われ、完璧に水拭きされていた。
「おお……」
俺は思わず歓声を上げてしまう。
自分の部屋ではないようだ。
光の世界に眩みそうになる。
かくして闇の世界は、女勇者白宮このりによって救われたのである。
俺は意地悪な継母みたいに、窓枠を指先で擦り揚げていると、何やら白宮が1冊のノートを開いているのを見た。
「白宮、お前なにを見てるんだ? げっ! お前、それ」
それは俺が昔進学塾で付けていたノートだ。
生徒の苦手科目や得意科目の点数、ちょっとした癖や性格を纏めたものだった。
俺は慌てて取り上げる。
「こらこら……。勝手に見るなよ。一応、個人情報を入ってるんだから。しかし、まだこんなノート残ってたのか?」
パラパラ、と捲る。
懐かしいなあ。
こうして見ると、進学塾で担当していた生徒の顔が浮かぶ。
大学の学費と一人暮らしの資金のために、今年の3月まで俺は、進学塾に勤めていたが、思えばまだ3ヶ月前ぐらいのことだ。
どこか遠い昔のことのように思えたが、このノートを見ると、つい昨日のことのように受験に苦しんでいた生徒のことを思い出す。
「
その声は、どこか空々しく、でも強い感情が込められているような気がしたが、その時の俺は特に気にすることもなく、普段通り白宮の質問に答えていた。
「ああ。学生のアルバイトでな」
「苦労しました?」
「それなりに、な……。でも、受験生見てるとそういうことを言えなかったな。逆になんとかしようって思ってた。お前もわかるだろうが、受験生っていっても様々だ。成績で苦労して、自分が希望する進路に進めない生徒も入れば、成績は良くても家庭の事情で進路に進めない生徒もいる。前者は成績を上げてやればいいだけだが、後者は俺たち教師にはどうしようもない。……歯がゆかったよ」
「そういう生徒にはどう接していたんですか?」
「進学塾ってのは、学校じゃない。企業だ。親御さんの意向は絶対ってところがある。お金を払ってるのは、保護者なんだからな。だから、俺たちができることは少ない」
「たとえば……」
「生徒の背中を押してやること、かな」
「――――ッ!」
「どうした、白宮?」
「いえ。続けてください」
「そうだな。お前が間違っていないってことを教えてやることだな」
「もし、間違ってたら?」
「親は1度切りの人生だからという。でも、違う。間違っていいんだ。人生は1度きりでも、チャンスは決して1度きりなんかじゃない。俺はそう思う」
「玄蕃先生、あの笹――――」
白宮は何か堰を切るように言いかけて、すぐに堰を閉ざした。
ギュッと唇を噛み、胸を押さえる。
今まで見たことないほど、白宮このりは苦しんでいるように見えた。
「どうした、白宮?」
「いえ……。何でもないです」
「……このノートも捨てるか。持ってても仕方ないし。そうだろ、白宮」
「ダメです」
「へ?」
「その……。それは先生にとって大事なものだと思うので。思い出が詰まった、大事な」
白宮の声がどんどん小さくなっていく。
先ほどまで勇敢だったお掃除勇者の姿は、すっかり影を潜めていた。
「そっか……。じゃあ、残しておくかな」
俺はそのノートを戸棚の奥にそっとしまう。
ふと外を見ると、すでに陽が暮れ、真っ暗になっていた。
随分長い間、掃除をしていたらしい。
すると、俺の腹の虫が「ぐぅ」と抗議の声を上げる。
「腹減ったな、白宮」
そう言うと、白宮はいつもの表情に戻り、微笑んだ。
「すぐ作りますね」
掃除道具を持って、パタパタと音を鳴らして、外へと出て行く。
その時の白宮の足音は、掃除の疲れなど感じさせず、とても軽快だった。
△ ▼ △ ▼ △ ▼
私は自分の部屋の扉を閉めると、また蹲った。
玄蕃先生の部屋に行くと、毎回こうしているような気がする。
でも、今日は特別だった。
玄蕃先生は玄蕃先生のままだった。
本当に教師になっても、生徒の想いであることは変わらない。
それがたまらなく嬉しくて、私は泣いた。
あと5分……。
いや、後1分いたらきっと先生の部屋で泣いていたかもしれない。
それほど、嬉しかった。
またあの時のように玄蕃先生が声をかけてくれたようで。
今の私は間違っていない。そう声をかけてくれたようで……。
嬉しくてたまらなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます