2.5限目 教え子の料理(後編)
するする、と衣擦れの音が6畳のダイイングキッチンに響く。
制服に着替えた白宮は、俺の前でエプロンを着ていた。
ピンクに、向日葵のワンポイントの刺繍が入っている。
首に紐を通し、気合いを入れるようにエプロンの腰紐を結ぶ。
最後に髪をヘアゴムで纏めた。
何が始まるんです?
と俺が待っていると、白宮は右手にお玉、左手にフライパンを装着した姿を披露する。
「何が食べたいですか?」
「は? どういうことだ?」
「忘れたんですか? お礼です。お礼にご飯を作っちゃいます」
「いや、お礼なんて俺は――」
「それとも私の半裸が良かったですか」
「それはできれば、記憶から消したい」
消したくないけど……。
あと、女子高生が「半裸」とか連発するな。
「だから、さっきのは不可抗力として……。ご飯でお礼させて下さい。ああ。ご心配なく、料理の腕はそれなりに自信がありますから」
「そういえば、さっきちょっと食べたコールスローはおいしかったな」
「ああ。女子高生の肌とか髪に付いた」
言い方!
「おいしかったですか?」
「まあな。味付けの加減も良かったし、レモン汁の酸味も効いてて良かった」
「そうですか。ただ残念ですが、材料を全部ぶちまけてしまったので、その――」
白宮は項垂れる。
「そうか。じゃあ、またの機会ということで」
「ダメです。お礼をするまで帰しません」
お礼をするまで帰さないって……。
とんだ鶴の恩返しだな。
別に気にしなくてもいいのに。
ともあれ、白宮の料理がうまいことは確かだ。
正直にいうと、あのコールスローを食べてから、疲れで意気消沈していたお腹が活発に動いている。
家庭の料理というと大げさだが、俺がそういうものに憧れていることは事実だった。
「わかった。ご相伴に預かるよ。メニューは任せる」
「はい」
見事なターンを決めた白宮は早速、料理を始めた。
料理が得意というのは本当らしい。
手つきが慣れていた。
調味料の量も身体が覚えているらしい。
ほぼ目分量で調整していく。
何より楽しそうだ。
じゅっ……。
料理の音が鳴った。
香ばしく、そして懐かしい匂いだ。
今作っているのは、卵焼きだろう。
数回に分けて、四角いフライパンに溶いた卵を流し込んでいく。
やはり手慣れたものだ。
軽く鼻歌を歌いながら、卵を巻いていく。
リズムに合わせて、学校のブリーツスカートが揺れた。
俺はちょっと目のやり場に困る。
フライパンから下ろした卵焼きをラップで巻いて、粗熱を取ると、次はまな板を取り出した。
たんたんたんたんたん……。
お腹を刺激するような音が鳴る。
白宮は大根を切り始める。
短冊切りにすると、厚揚げを角に切り、さらにネギを切る。
その材料をネギだけ残して、あらかじめ火にかけておいた鍋に投入する。
だし汁は昆布だろうか。
磯の良い香りが狭いダイニングキッチンに漂う。
最後に味噌を入れて、一旦火を消した。
白宮の動きは止まらない。
隣のコンロにフライパンを置くと、クッキングペーパーを敷く。
「コンロを2つ使ってるの、初めてみた」
このボロアパートの目玉の1つが、2つのコンロが完備されていることだ。
不動産屋がそう勧めていたから間違いない。
だが、俺は1度もその利点を生かしたことがなかった。
そのクッキングペーパーに載せたのは、鮭の切り身だ。
なかなかの大振りで、ほんのり紅が差している。
それをクッキングペーパーを敷いたフライパンで焼き始めた。
じゅうぅぅぅ、というくぐもった音とともに香りが漂ってくる。
「うまそうだな」
俺はごくりと唾を呑む。
すでにお腹が悲鳴を上げていた。
両面を焼き、中までしっかりと火を通す。
さらに横で待機していた味噌汁が入った鍋にも、火を入れて温め直しはじめた。
慌ただしく食器を取り出し、出来上がった料理を皿に盛る。
とんとんとん、小気味良いリズムで、テーブルに料理が並べられていく。
花瓶の1つも置かれていない殺風景のテーブルが、まるで魔法のように華やかになっていった。
白宮は冷蔵庫からインゲンの胡麻和えを出すと、忘れず味噌汁の上に刻んだネギを散らし、最後に白米を俺の目の前に置いた。
「おお……」
俺はテーブルを見ながら、思わず唸った。
それは高級食材をふんだんに使ったフレンチでもなければ、ゴージャスな中華でもない。
まして、この道云十年という料理人が腕を振るった懐石料理というわけでもなかった。
テーブルにあったのは、誰でも1度は食べたことがある家庭料理だ。
焼きたての鮭の切り身。
白い湯気を立てた味噌汁。
ふんわりとした卵焼き。
小さく可愛い小鉢に入ったインゲンの胡麻和え。
手をかざすと温かみが伝わってくる白いご飯。
特に凝った要素はない。
それでも、俺にはどんな料理よりも愛おしく見えた。
そりゃあ実家に帰れば、食べられる料理かもしれない。
けれど、赴任先近くのアパートで食べる日が来るとは思わなかった。
しかも、それを作ったのが、俺の教え子である。
俺は対面に視線を向けた。
まるで旅館の女将みたいにお盆を抱えた白宮は、目を細め微笑む。
反射的に背筋が伸びた。
ドキリ、と教師にあるまじき音を聞いたような気もする。
その音が白宮にも聞こえたのだろうか。
「どうぞ召し上がれ」
と言った。
その言葉は何かの呪いだったのだろうか。
俺の手は吸い寄せられるように、まず味噌汁へと向かう。
まだ熱いお椀を、我慢しながら両手で持ち上げた。
ずずっ……。
一口味噌汁を啜った。
「ほう……」
うまいとか、おいしいではない。
俺の第一声は自分でも訳がわからない一言だった。
間違いなくおいしいし、腹の中に味噌汁の熱が伝わっていくのがわかる。
出汁もよく利いていて、奥深い味が舌を刺激した。
でも、それだけではない。
安心できる味だった。
このまま味に身を委ねたいと思うような――そんな味だ。
箸を持ち、具材を摘まむ。
まだ大根に味が染みこんではいなかったが、本来の味を楽しめてそれもいい。
ひたひたになった厚揚げは熱く、口の中を一気に温かくした。
次に鮭の切り身に手を伸ばす。
外は焼き目が付き、皮はパリパリ。
だけど、中身はしっとりとして柔らかい。
絶妙な塩加減が、白米とよく合う。
昨日までウィンダーだけで十分だと思っていた食欲が増してきて、夢中でかっ食らう。
卵焼きの味付けも上品だ。
薄すぎず、さりとて濃すぎず。
でも、しっかりと味を感じることができる。
目分量とは思えない、良い加減だった。
冷蔵庫の中で眠っていたインゲンはひんやりとしていて、熱くなった口内にはちょうど良い。シャキシャキと音を立て、胡麻の風味とともに鼻腔にまで広がっていく。
贅や、細部まで工夫を凝らした感じはしない。
本当にどこにでもある優しい家庭料理だ。
それでも、俺の箸が止まることはなかった。
気がつけば、俺の前にあった皿は空になっていた。
あるのは、味噌汁の椀に入った味噌カスと、鮭の切り身の焦げ目だけだ。
はたと視線に気付いて、俺は顔を上げる。
白宮が微笑んでいた。
「す、すまん。俺だけなんか夢中になって食べてしまって」
「おいしかったですか?」
「あ、ああ……。おいしかった。白宮は料理もできるんだな」
「も?」
「勉強もできるし。体育だって、成績いいだろ」
「私のことをよく知ってるんですね」
「い、いや……。職員室で話題になってるから」
俺はしどろもどろに答える。
しかし、学校一の美少女は俺の答えがお気に召さなかったらしい。
何故かむっとした顔で、味噌汁の椀を拾い上げる。
慎ましい音を立て、味噌汁を啜った。
「おいしい……」
「そりゃあ、自分で作ったんだから」
「そういうことじゃなくて」
「だったら、なんなんだ」
「玄蕃先生」
「なんだ、改まって……」
言葉通りの意味だった。
白宮は椀を置くと、付けていたエプロンを脱いだ。
丁寧に畳み、テーブルの脇に置くと、シュッとブラウスの襟を正す。
真剣な目で、俺に言った。
「私の話を聞いてくれませんか?」
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