隣に住む学校一の美少女にオレの胃袋が掴まれている件(なおオレは彼女のハートを掴んでいる模様)

延野 正行

1限目 隣人が教え子だった(前編)

 新作始めました!

 しばらくよろしくお願いします。


~ ※ ~ ※ ~ ※ ~ ※ ~




 築40年のアパートの鉄の扉は、疲れ切った俺には重かった。


 何とか開けてはみたものの、部屋の中は真っ暗だ。

 出迎えてくれる人間はいない。

 腕を上げるのも億劫だったが、俺は側の壁にある照明のスイッチを探る。

 1DKの我が家にぼんやりと明るいオレンジ色の照明が点灯した。

 つかの間、俺はそのままノックダウンしたボクサーみたいに、玄関に倒れ込む。


「疲れた~」


 魂の底から声が漏れた。


 玄蕃げんば進一しんいち。今年で23歳。

 今年の4月に二色乃高校に赴任したばかりの新任教師である。

 昨今、ブラック企業が問題になっているが、教師も激務だ。


 学習指導要領に応じた授業の組み立て。

 生徒とのコミュニケーション。

 保護者との折衝。

 進路相談。

 部活動etcetc。


 大枠はそんなところだが、そこにテストを作ったり、採点などの雑務も入る。

 部活動などは大会期間に入れば、土日が丸々潰れてしまうため、下手をすると40連勤なんてことがざらにあるのだ。


 それでも、ブラック企業に勤めている同期からいわせると、まだ甘いといわれる。

 あいつらは一体いつ休んでいるんだろうか。


 そんな調子で、気付けば午後9時を回っていた。


「あ。コンビニで弁当を買ってくるのを忘れた」


 最初こそ自炊を心がけてはいたのだが、段々億劫になり、今やコンビニ弁当を買いに行くことすら忘れてしまう。

 最近はもっぱらウィンダー・イン・ゼリーだ。


 疲れた身体をなんとか起こし、俺は冷蔵庫に近寄る。


「今日もウィンダーをキメるか。まだ買い置きがあった…………」



 きゃあああああああああああああああああああ!!



 俺は思わず仰け反った。

 一瞬、冷蔵庫の中から悲鳴が聞こえたかと思ったが違う。

 おそらく冷蔵庫の奥の壁の奥――。

 つまりは、お隣だ。


 絹を裂くような悲鳴とは、まさしくこのことだろう。

 続いて、何か食器や皿が割れるような音がした。

 B級ホラー映画でしか聞かないパニック音に、平凡な一教師の俺でもただならぬ予感を感じる。


「えっと……。お隣さんって……」


 どんな人だっけ?

 大家さんには挨拶したのだが、隣の人に挨拶した覚えはない。

 引っ越し当初に機会を窺ったが、留守だった。

 それから忙しさにかまけて、挨拶はずっと保留になっていたはずである。


「女性の悲鳴……だったよな」


 夜分に女性宅を訪れるのは、大変気が引ける。

 だが、あの悲鳴は尋常ではない。

 警察を呼ぶことも頭によぎったが、ともかく1度状況を確認することにした。


 早速、部屋を出て、すぐ隣の鉄の扉をノックする。

 表札は出ていないが、人の気配は間違いなくあった。


「あ、あの……。隣の玄蕃ですけど。大丈夫ですか。すごい? 声でしたけど」


 声をかけるが、返ってきたのは「はーい」という愛らしい声ではなく、またしても悲鳴だった。


『きゃあ! きゃあ! きゃあああ!! ぎゃあああああああ!!』


 凄まじい悲鳴だ。

 最後は、怪獣みたいな声だった。

 どうやら隣人はパニックになっているらしい。


 俺は扉を激しく叩いた。


「大丈夫ですか! お隣さん!!」


 呼びかける。

 反射的にドアノブを握ると、なんと鉄の扉は開いていた。


「不用心だな……」


 と顔を顰めている場合ではない。

 中では怪獣――もとい暴漢が暴れているかもしれないのだ。


「入りますよ!」


 ことわりを入れて、俺は重い鉄の扉を開いた。

 無我夢中であったためか。

 俺はアパートの重い扉を全開まで開け放つ。


 瞬間、俺の視界に飛び込んできたのは、暗い部屋でも、暴漢でもない。


 エプロン姿の少女だった。


 文字通り、飛び込んでくると俺の胸にポスッと収まる。

 柔らかな乳房の感触。

 驚くほど細い腰に、自然と俺の手が回る。


 ――腰、っそ!!


 頭と顔がカッと熱くなる。


 しかし、弱り切った俺の足腰で受け止めることはできず、俺は少女と一緒に倒れ込んでしまった。

 強かに腰と頭を打ち付けながら、かろうじて意識をとどめる。


 すると、プンと香りが鼻腔を突く。

 それは少女の甘い香水の匂いでもなければ、シャンプーの匂いでもない。

 牛乳の匂いだった。


 直後、べっとりと俺の唇に、何かが付着していることに気付く。

 反射的にペロリと舌を動かして舐め取った。

 その時の俺は思いの外、お腹を空かせていたのかもしれない。

 確認もしないまま、咀嚼してしまった。


 シャキッ……。


 鋭い食感が歯茎を伝う。

 キュウリだ。

 それだけではない。

 キャベツに、玉葱、そしてコーンの甘い味が口の中に広がっていく。


 細切りにされた野菜に、マヨネーズ、蜂蜜、そして牛乳をからめられていた。

 多少レモン汁も入っているのだろう。

 酸味が程よく利いている。


「コールスローか……。昔、お袋がよく――――」


 と……。

 昔を懐古している場合ではない。

 俺はすぐに少女に向き直った。


「うえっ!」


 思わず唸る。

 なぜならば、少女はそのコールスローまみれになっていたからだ。

 髪や顔、あるいは胸に白く白濁とした――。


 ――いかん。いかん。俺は何を考えているんだ。


 慌てて、浮かんだ妄想を払う。


「だ、大丈夫、ですか?」


 色々な意味で。

 この時ほど俺は、「大丈夫か」という言葉の汎用性に感謝したことはないだろう。


 コールスローまみれになった少女は、顔を上げる。

 幼気な子犬みたいな瞳と目があった。

 少女に飛び散ったコールスローのおかげで、風情も何もない。

 表情の確認すら難しいのだが、可愛いということだけはなんとなくわかった。


「で、出たんです……」


 その時、俺は初めて少女の悲鳴以外の言葉を聞くことになる。

 すると、少女は震える指先を出てきたばかりの部屋の方へと向けた。


「落ち着いて。何が出たんです」


「そ、それは…………」


 少女は口を噤む。

 言い表せぬ恐怖らしい。

 ずっと唇が震えていた。


「わかった。ともかく、君はここにいて」


 俺は一旦自分の部屋に戻って武器になるような物を探す。

 真っ先に目に付いた傘の柄を握り、少女の部屋に乗り込んだ。


 部屋の中は暗い。

 おそらく少女がパニックを起こして、スイッチを切ってしまったのだろう。

 あるいは暴漢との取っ組み合いの末、手がスイッチに触れてしまったのかもしれない。

 俺は照明をそのままにして、短い廊下を進む。

 あまり暴漢を刺激したくないからだ


 間取りはほとんど同じだ。

 ダイニングキッチンにつくと、例のコールスローの汁が、床はもちろん壁や天井にまでぶちまけられていた。

 ちょっとした殺害現場である。

 しかし、その犯人は逃げたのだろうか。

 人の姿も、気配もない。


「あの……。大丈夫ですか?」


 部屋の入口から少女は顔だけだして、声をかける。


「大丈夫。キッチンにはいないよ」


 ひとまず安心させるため、少女に報告する。

 一旦振り返って部屋の扉の前に立つ少女を見ると、その顔は引きつっていた。


「あ、あ、あ……」


 昔飼っていたブリストルシュブンキンみたいな大きな金魚のように、口をパクパクと動かしている。

 指先を震わせ、何か俺に伝えようとしていた。


「え? なに……」


 俺は少女の指先の辿る。

 すると、白い部屋の壁に何か黒い染みのようなものが、ぽつんとついていた。

 大きさは俺の指先の表面よりも小さい。


「く…………も………………?」


 小さな子蜘蛛が部屋の壁に貼り付いていた。


「これ?」


 指で差し示すと、ロックバンドのライブみたいに少女は激しく首を振る。


 はあ……。

 俺は脱力した。

 ポケットからハンカチを取り、そっと子蜘蛛を包む。

 一旦少女の部屋から出ると、外に離してやった。


「す、すごおぉぉぉおい!」


 パチパチと手を叩きながら、コールスロー少女は俺を英雄でも見るかのように目を輝かせていた。


「別に褒められるようなことはしてないよ」


「いえ。本当にありがとうございます。私、虫が苦手で……」


 考えるのもおぞましいとばかりに、少女は自分の二の腕を掴んだ。


 相当苦手なのだろう。

 それは、あの殺害現場みたいになったキッチンの様子から見ても明らかだ。


「じゃあ、俺はこれで――」


「ま、待ってください!」


 少女は俺の腕を捕まえる。


「も、もう少しだけ家にいてくれませんか?」


「え?」


「その……。また虫が出ると怖いし。それに――。お礼もしたいので!」


「お礼?」


「はい」


 少女は俺を真剣な目で引き留めようとする。

 何かそこには強い意志のようなものを感じた。


 よっぽど虫が怖いのか。

 でも、少女は怯えているようには見えない。

 むしろ、俺自身を引き留めようとしている様子だった。


 ――考えすぎか……。


 見ず知らずの少女の部屋に男が上がり込むというのは気が引けるが、ここまで言われて引き下がるわけにもいかない。


「わかった。片付けは俺がしておくよ。虫がいないかも確認する。君は着替えてきなさい」


「え? でも――」


「大丈夫。のぞきの趣味はないよ――――って、言っても信用ないかな」


 はは……、と俺が乾いた笑いを浮かべると、少女は頭を横に振った。


「そんなことありません。お願いします」


 やや興奮気味に、少女は頭を下げるのだった。


(※ 後編へ続く)

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