完全なる自殺スイッチ

森 真尋

不完全なる自殺


 古い賃貸マンションの一室で、今夜も寂しく蛍光灯が瞬く。変色し、ささくれ立った畳は、所どころ泥で汚れている。それらを避けて、買い物袋が置かれた。

「……疲れた」

仕事を終え、買い物をして帰ってきたのだろう。表情を失ったような顔の男は、二十代にしては老けて見える。

 習慣になっているのか、無意識のうちにテレビを点け、しばらくしてから唐突に流れる映像と音に、男は驚いて身を竦めた。息を一つ吐き、冷蔵庫に買ってきたものを収めていく。

「今夜の予定は……」

冷蔵庫の扉にマグネットで貼り付けられた献立表を見る。買い物に行ってきたくらいだ、計画的に練られたそれを確認しなくても、男は夕食の内容を覚えていた。この行動もまた、習慣になっているらしい。

 ふと、男は視線を冷蔵庫の上に向けた。利用頻度の高い銀行の封筒が、そこには置かれている。中身が認められるほどの厚さがあった。

「なんだ……?」

封筒を手に取り、中を検めると、一万円札の数枚が出てきた。男は首を傾げ、それらを封筒に戻す。

「何かを忘れている……ような、気がする」

音を立てるように歯の隙間から息を吸い、唸りながら考え込む。封筒に入っていたのは、男の月給の数割にあたる額の金、どうにかして思い出すべき重要事項だ。

「自分でこれを用意した……ような、気はする……ような、気がする」

そう思ったものの、それを用意した理由までは思い当たらないようだった。

 結局、男は思い出すことを諦め、夕食の準備を始める。


 食卓に並ぶ料理は、やはり質素なものだ。テレビに流れる料理の映像とは、比べ物にならない。若干の虚しさを覚えつつ、食事を続けていると、携帯電話が着信を告げた。実家から掛かってきたもののようだ。男はテレビの音量を下げ、電話に出る。

「はい、俺だけど。母さん?」

『ええ、母さんよ。元気にしてる?』

「ああ。そっちは?」

『母さんは元気。父さんもね。でも、あなた、声に覇気がないわよ』

「……疲れてんだよ」

『元気じゃないじゃない。まあ、いいわ。ところで、あなた、結婚はどうするの?』

「え、結婚って……気が早いだろ」

『でも、あなた、このあいだそんなこと言ってなかった?』

「はあ?」

『ほら、付き合ってる子がいるとかなんとか』

「いつの話だよ……。言ったことないだろ、そんなこと?」

『そうだったかしら。でも、母さん、ちょっとだけ嬉しかった記憶があるもの』

「もうボケてんのかよ」

『失礼ね。祖母ちゃんだってまだなのよ?』

「若年性とか、あるだろ」

『じゃあ、そっくりそのまま、あなたに返すわ』

「……」

『まあ、とにかく、そういうことにしといてあげるから、そのうちいい人、見つけなさいよ。父さんも早く孫が欲しいって』

「……そのうちな」

『それから、たまにはこっちに帰ってきてね。みんな会いたがってるんだから』

「気が向けばな」

『それと、ご飯はちゃんと食べなさいね。運動も、今のうちから習慣にしておかないと、後になって苦労するんだから。仕事も、あんまり無理しないよ……』

「わかったから、今ごはん中だから、もう切るぞ」

『……もう、もうちょっとゆっくり話してもいいじゃな……』

「じゃあな」

『……じゃあね』

 通話を終え、テレビの音量を上げる。料理番組はすでに終わり、報道番組が始まっていた。謎の失踪事件が相次いでいるというニュースが流れている。男は自分に関係のない話だと思ったが、どういうわけか不快に感じ、チャンネルを変えた。

「気持ち悪いな……」

食事を再開したが、料理は少しだけ冷めていた。


 呼び鈴が鳴る。男は訝しそうに首を捻るが、すぐに立ち上がって玄関へ向かい、扉を開ける。

「はいはい、何でしょうか」

「夜分に失礼いたします――」




一日前


 質素な食事を終え、片づけを済ませると、男は鞄から封筒を取り出した。利用頻度の高い銀行の封筒だ。中身が認められるほどの厚さがあり、当然、一万円札の数枚が入れられている。男は溜息を吐く。

「これで最後だ。本当に、最後になるんだよな……?」

携帯電話が着信を告げる。女から掛かってきたもののようだ。電話に出るのが躊躇われるが、無視すると後になって面倒になることを、男は知っている。封筒を冷蔵庫の上に置き、電話に出る。

「はい、もしもし」

『出るのが遅いじゃない』

「……手が離せなかったんだ」

『言い訳はいいわ。それより、用意できてるんでしょうね』

「ああ、今しがた、な」

『それならいいの。足りなかったら、承知しないわよ』

「わかってる」

『じゃあ、今からそっち行くから』

唐突に通話が切られる。男は携帯電話を放り投げ、深く溜息を吐いた。


 男は来るべき明日を思い浮かべ、自嘲する。手にしているそれを慎重に弄びつつ、説明書と規約を確認した。それを使用する者には、説明書を読み、規約に従う義務があるのだ。それが送られてくる直前に、電話でもそう告げられた。

 完全なる自殺を遂げるための、スイッチ。それは、押した者が苦痛を感じることなく死ねるというものだ。死ぬ者が望むように、周囲への影響さえ操作できるらしい。遺族や関係者の記憶から、生前の行動や痕跡、記録が、死者によって改竄されるのだ。

 人生に希望を失った者が対象となる、政府の行っている実験に、男は参加している。自殺を考えていた時分に、政府のこの実験を知って応募し、抽選によって男の参加が決まった。

 学生の頃に交際していた女の暴力と無心により、男は心身ともに破壊されていた。数年に渡って苦しい生活が続いているのだ。人生に希望を失ったうえ、周囲への迷惑を考え、自殺すら思い留まらなければならない状況において、完全なる自殺スイッチは、男にとって最後の希望だった。



 呼び鈴が鳴る。玄関へ向かい、扉を開けると、そこには老けた男とは対照的に若々しい女が立っていた。年齢は同じだが、見目は正反対だ。

「はい」

女は短くそう言い、催促するように手を出す。男はそこにそれを置いた。

「なにこれ」

「まずは、それを押してくれ」

「はあ、意味わかんないんだけど?」

女はそう言い、それを男に押し返す。

「いや、いいから、とりあえず押してくれよ」

「なに、もしかして用意できてないの?」

「そういうわけじゃないんだが……」

男は冷蔵庫の上を見遣る。女はそれを見て、部屋を覗き込んだ。

「あそこにあるのね」

男を押し退け、土足で部屋に侵入すると、女は台所へ向かった。

「ま、待てって」

男は侵入を阻もうとしたが、女はそれに構わず冷蔵庫の上の封筒を奪い、素早く中身を確認すると、玄関へ向かった。

「ちゃんとあるじゃない。手間かけさせな……」

突然、女の声が途切れ、その体が傾く。女の片足が、床に置かれたそれを踏み押していた。




「この実験、失敗に終わりそうですね」

「ああ、データが想定の半分くらいになりそうだからな」

「規約違反、これで何件目でしたっけ」

役人らしい恰好の二人組が、古い賃貸マンションの一室で話していた。

「これを押す者は、説明書を必ず読まなければならないというのに」

「まあ、そういう問題でもないんですが」

二人の目の前に、男が倒れている。年齢こそ若いが、顔は老けている。傍らにはスイッチが転がっていた。

「また、行方不明扱いですかね」

「ああ、謎の失踪事件がまた増えるな」

「こちらとしては、周囲への影響を操作できませんからね」

「死者が望まなければどうしようもないからな。しかし、この男、躊躇なく押したな」

「疑問を抱かなかったんですかね」

「まあ、目の前で女が事切れた衝撃で全て忘れたんだろうが」

「じゃあ、この男は失った希望を取り戻せたんですかね」

「いや、希望も、それを失ったことも、忘れたんだろう」

役人の一人が、調査書に大きく「無効」の文字を入れる。その後、ふと考え、次の文言を添えた。


――完全なる自殺スイッチは、不完全なる自殺のスイッチにもなる。

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