雨やどり
山本アヒコ
雨やどり
「さーあ、よってらっしゃい、見てらっしゃい! 世にも珍しいお話よ! あっしが全国津々浦々から裏の裏まで見て聞いてきた、正真正銘のおもしろ話! これを聞かなきゃ損ってもんだ! やあやあ、そこの若い女子も鼻たれ小僧も聞いてきな! おおう、こんなに集まってくれりゃあ嬉しいってもんだ。さてさて、あっしの前にあるざるなんですがねえ、実はと言えばここに来るまでの旅がそりゃあもう大変で……よろしければお情けをいただければ……なになに? てめえの話が面白ければ銭をいただけるってぇ? わっかりやしたっ! それでは辻講釈の助丸が、ひとつ話してみましょうやっ!
それは夏の盛りがいくらか過ぎたある日のこと、長雨が続いてあっしはとある宿場町で足止めをくらっちまっていた。その日も飯屋で昼間っから酒をちびりちびりと飲んでは、はやく雨が止まねえかなあと暇つぶして呆けていたら、ひとりの男が入ってきた。
その若い男は編み笠と蓑姿でずいぶん雨に濡れている。それだけなら何にもおかしくもないが、夏だというのに男は、真っ青な顔で見てわかるほど体がぶるぶると震えているじゃあねえか。
それであっしには、ぴん、と来るものがあったってわけさ。全国を巡って長年旅してきた勘と経験が、この男には『何かがある』ってね。あっしは男が腰かけて編み笠を外したところで近づいて…………」
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…………ああ、なんだあなたは?
辻講釈の助丸? 今は講釈なんか聞く気分じゃあないんだ……
「まあまあそう言わず。あっ女将さん、こっちに酒をふたつ!」
おい、勝手に酒など頼むな。
「これはあっしのおごりですよ。どうやらずいぶん寒そうなんで、酒でも飲んであったまってくだせえな」
寒い?
「ええ、ええ。あっしにはあんたさんが、ずいぶん震えているように見えますぜ」
震えてる? そうか、震えているのかわたしは……
「さあさあ、まずは一杯。あっしに注がせてくだせえ」
ああ、すまない……
「ぐいっと飲んで、もう一杯と。おっ女将、こっちにそれと同じやつと、酒のあてを適当に持ってきてくれや」
また勝手に何を頼んでいる。
「これもあっしのおごりですから、気にしなくていいですぜ。さ、もう一杯」
ふう……それで、助丸といったか? あなたは何が目的でわたしに施してくれるのだ?
「施しなんてとんでもねえ。さっきも言いやしたが、あっしは辻講釈を生業にしてましてね。講釈というのはもちろん、人に話を聞かせて銭をもらう商売ってわけで。しかし何度も同じ話をして喜ばれるのは、お顔の整った若い男ってのが相場でしょうよ。あっしは見ての通りのぶ男ですからね。いつも新しい話に飢えてるんでさあ」
つまり、わたしから話を聞きたいということか? だがわたしにはそんな話など……
「ずいぶん酒を飲んだみたいですけど、まだ震えはおさまりやせんね? なんでそんな事になったのか、ちょいと話してもらえやせんか?」
そんなに聞きたいか……
「ええ、どうしても聞きたいですねえ」
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若い男が山道を歩いている。道は細く、わずかに見える細い線のような地面が、そこが道だと教えてくれる。他はすべて夏で生え盛る草に覆われてしまっていた。
「ふう……ふう……」
男は歩きなれない山道に、悲鳴をこぼす両脚をなんとか騙し騙し動かしている。顔からは滝のように汗が流れ落ち、胸も背中も同じように汗まみれだった。
男の名前は佐吉といい、とある織物問屋の手代だ。なぜ彼がこんな山奥を旅しているのかというと、番頭からの命令だった。
数日前、織物問屋にやんごとなきお方から反物の注文が入る。どうしてもこの色のこの柄の反物が欲しいという。しかし、生憎それは織物問屋の在庫に無かった。
主人がそう言うと、相手は何としても欲しいのだと無理を言う。大口の取り引き相手であり、身分も雲の上の存在であるため、主人は泣く泣く要求をのむしかなかった。
主人から番頭へその旨が言い渡され、それが手代である佐吉へ届く。こうして佐吉ははるばる歩いて、あるかどうかもわからない反物を探しに旅立つこととなった。
彼は旅慣れていないわけではない。丁稚のころから買い付けや商品を届けるために、遠くまで歩きまわっていた。しかしよく歩いていたのは、人が多く使う平坦な道だ。こんな上り下りが多く急で曲がりくねった、獣道と変わらない山道などではない。
とにかく一日でも早く反物を手に入れなければならないため、普段は使わない山越えの道を使うことになったのだ。こちらならば数日は時間を短縮できる。
慣れない山道だけではなく、旅立ってから一度も雨が降らない快晴の日差しも彼を苦しめた。真夏の太陽は容赦なく彼のむき出しの肌を焼き、顔はすでに真っ黒になっていた。
「あっ……」
気付けば佐吉は倒れていた。立ち上がろうと思うのだが、手も足にも力が入らない。助けを呼ぼうにも、口すら動かない。そのうち意識も失った。
佐吉が目を覚ましたのは粗末な家の中だった。囲炉裏のあるこの部屋は、五六人も座れば土間に転げ落ちてしまいそうなほどに狭い。壁ぎわには佐吉の荷物がまとめて置かれていた。
佐吉はあわてて懐を探り、そこに反物を買うための銭が入った袋があることを確かめると大きく息を吐く。もしこれを失ってしまえば、織物問屋から放り出されるだけではなく、番頭や主人に殴り殺されるかもしれなかった。
落ち着きを取り戻すと周囲を見る余裕がでてくる。狭い室内には物がほとんどない。壁や戸にも隙間が多く、明らかに貧しい家だとわかる。人の姿も気配もなかった。まだ明るいので、倒れてから一日経過していないのだとすれば、気絶していたのはそれほど長い時間ではない。
寝起きでまだはっきりしない頭で室内を観察していると、家の戸が開いた。
「ああ、よかった。起きられたんですね」
若い娘の声が聞こえ、そちらへ向いた佐吉は目を見開いた。
土間の先、家と外を区切る戸の向こうにざるを抱えた娘が立っていた。着ている服は粗末だが、髪を後ろで結って団子にしていて、そこへさした光るかんざしだけが高級そうに見えた。
しかし、佐吉が驚いたのはそこではない。彼女の顔だった。よく見れば整った顔立ちをしているのだが、それは半分だけだった。片側の目の周囲が醜く紫色に腫れあがり、見るも無残なありさまだった。暗闇で見ればどんな男でも悲鳴をあげて逃げるだろう。
佐吉の表情を見て、娘はそっと目を伏せて彼から紫色の部分がなるべく見えないようにする。その姿を見て、佐吉は急に恥ずかしくなり、自分も目を伏せた。
「すいません……こんな姿を見せて……」
「い、いや、こちらこそすまない。君がわたしを介抱してくれたのだろうか?」
「私だけではなく家のみんなが。あなたさまを見つけたのは父親です。山で倒れていらしたようで。暑さにやられたみたいでしたが、気分はどうですか?」
「はい。ずいぶん良くなったようです」
「それはよかった。のどが渇いているでしょう。井戸から水をくんできますね」
娘は土間にある桶を片手で持つと、小さく頭を下げてから出て行く。
「……若く育ちもよさそうなのに、あの顔はかわいそうだ」
佐吉は思わずつぶやく。あれは生まれつきのものではなく、怪我によるものだ。なぜあのようなことになってしまったのか。つい神仏に手を合わせたくなる。
再び戸が開く。さきほどの娘が帰ってきたかと思われたが、そこにいたのはまだ十かそこらの娘だった。背中には、体に比べて大きすぎるほどのかごを背負っている。
「あっ、起きたんだ」
「ああ。君はこの家の子かな?」
「うん。あのさ、おひな姉ぇを見なかった」
さきほどの娘はおひなという名前で、この子の姉のようだ。
「さっき井戸に行くと言っていたよ」
「じゃあ、あたしも行かなきゃ!」
かごをおろすと娘は戸を閉めるのも忘れて走り去った。どうしたものかと佐吉は思ったが、良くなったとはいえまだ体に力が入らないようだったので、再び目を閉じることにした。すぐに睡魔がやってきて、深い眠りに落ちた。
佐吉は木が燃え爆ぜる小さな音で目を覚ました。室内は暗くなっていて、すでに夕暮れなのだとわかる。気温もいくらか下がって、うだるような暑さではない。
薄目を開けて見えたのは、土間にあるかまどで料理をしている年かさの女と、それを手伝う幼いほうの娘の姿だった。
「目が覚めたんですね」
そう言ったのは歳が上のほうの娘、おひなだった。
「水をどうぞ」
「ああ……」
おひなは椀に入れた水を佐吉へ片手で差し出す。その笑顔はとても自然で彼女の心の清らかさを表しているように見えて、だからこそ顔半分を占める醜い傷跡が余計に際立つ。
佐吉は身を起こし、水を飲む。やはりかなりのどが渇いていたようで、一口飲むとたまらず一気に飲み干してしまった。
「おかわり持ってきますね」
おひなは空になった椀を取ると、土間に置いた桶にくみ置きしていた水を注ぎ佐吉へ手渡す。それを今度はゆっくりと飲み干し、やっと佐吉は人心地ついた気持ちになった。
「体はどうかの」
その声で佐吉はすぐ近くにもうひとり人間がいることに気付いた。顔と手に深いしわが浮かぶ男は、あぐらで身動きもせず静かに座っていたため、声を発するまで彼は気付けなかった。男は話しかけたのに、視線は床に向けたままでそれ以上口も開かない。するとおひなが言う。
「こっちは私の父親です。あっちにいるのが母親と妹のはつ。私はおひなです」
「どうも。わたしは佐吉といいます」
そこで佐吉は何かに気付いた様子で父親のほうへ姿勢を正して、頭を下げる。
「わたしは織物問屋で手代をしています佐吉と申します。あなたさまが倒れたわたしを運んでくれたそうで。なんとお礼を申し上げればよいのか。ありがとうございました」
「……頭をあげてくれ。とくに何かしたというわけでもなく、ただ運んだだけだ」
「いえ。そんなことはありません」
いかに今が太平の世で戦とは無縁であっても、無頼の者はいくらでもいるし、物盗りに命まで盗まれることも珍しい話ではない。
佐吉は山の中でひとり倒れていたのだから、持ち物や懐の銭を盗んで殺し、死体は藪のなかに捨てれば誰にもわからないはずだ。しかしそれをせず、倒れた彼を運び介抱までしてくれたとなれば、まさに命の恩人だった。
「……これも何かの縁。もう夜になるし一晩泊まっていけ」
「はい。ありがとうございます」
再び頭を下げる佐吉を、おひなは半分だけ美しい笑みで見ていた。
「こんなものしかなくて悪いのですけど……」
おひなは申し訳なさそうに椀を佐吉へ手渡す。
「いえ。いただけるだけでありがたいです」
椀の中身は少ない米に粟を足して水で煮た薄い汁に、いくつか芋の欠片が入っているだけで、確かに貧しい食事だ。しかし暑さで倒れてしまった佐吉には、これぐらいの薄い食事が胃にありがたかった。
「ねえねえ! 佐吉っさんは織物問屋の手代なんだよね。反物ってすごい高いんでしょ? だったら佐吉っさんもいっぱい銭もらえるんだよね? ねえ、どのぐらいもらえるの?」
「こらっ、はつ。そんなんこと聞くんじゃありません」
「いいじゃんおひな姉ぇ。教えてよー」
じゃれ合う姉妹に、佐吉はつい笑顔になる。
「いやいや。銭をいっぱい持ってるのは大旦那様だけだよ。わたしなんか手代になったばっかりで、まだ小遣いを少うしもらえる程度さ」
「そうなんだー。ねえ、佐吉っさんは街に住んでるんでしょ。あたしは村から出たことないから、街って見たことないんだー。お屋敷がいっぱいあるって本当?」
「はははは。確かにお屋敷はあるけどそんなにたくさんあるのは、もっと大きな街だけだよ。わたしのところにあるお屋敷といったら、片手ぐらいさ」
「それでもすごいよ!」
食事をしているうちにすっかり夜となり、家の中はほとんど暗闇ばかりになってしまった。貧しい家では明かりも少なく、小さな油皿に灯した火がひとつあるだけだからだ。
「そろそろ寝ましょうか。佐吉さんはこちらへ」
おひなが案内したのは隣にある小さな部屋だった。薄い布団がひとつ敷いてあるだけで床が見えなくなる狭さだ。
「狭いでしょうがここで寝てください」
「いえ。十分です。ありがとうございます」
戸が閉まると狭い部屋は闇に飲み込まれる。不意に恐怖が背筋を上ったが、先ほどの楽しい食事を思い出し、気のせいだと頭を振る。気絶したとはいえ一度寝たのだが、目を閉じると佐吉はほどなく眠りに落ちた。
「ん……」
佐吉は物音がして目を覚ました。部屋は真っ暗でまだ夜だ。枕元に誰かがいるようだが、中途半端に寝た状態で起こされたせいで、うまく頭が回らない。しかし目の前にその顔が現れた瞬間、眠気は吹き飛んだ。
「ひぃっ!」
佐吉は悲鳴をあげながら手と足で床を突き飛ばし、後ろへ跳ねる。その勢いのまま狭い部屋の壁へ背中から当たり、音を立てて家が揺れる。
「驚かせてごめんなさい」
佐吉の顔を覗きこんだのは、顔の半分が醜く紫に変色したおひなだった。
「お、おひ、な、さん……いったい夜更けに何です、か……」
暴れ馬のように跳ねまわる心臓を押さえつけながら、暗闇に浮かぶおひなの顔を佐吉は呆然と見る。恐ろしく醜い紫色の顔とは違い、きれいなほうの顔に浮かぶ表情はまるで遊女のように白い笑みを浮かべているように見えた。
「実は、佐吉さんにお願いがありまして」
「お願い、とは?」
「私を、抱いていただきたいのです」
「それは、どういう……?」
「男と女で、まぐわうという意味です」
突然のことに佐吉は目を白黒させるしかできない。彼は男と女がまぐわうという意味を知らないわけではない。すでに幾度も経験している。しかしこの状況はあまりにも不可解だった。おひなは確かに佐吉を介抱してくれたり、何かと世話をしてくれたが、そこに色恋の艶めいた雰囲気は一切なかった。
「まさか、わたしに惚れたとか?」
「いえ、そうではないのです。それと、抱いていただきたいのは私だけではありません」
おひなの後ろに、もうひとり小さな人影があった。
「あたしもいるよ」
「そんな……はつはまだ十かそこいらでしょう? そんな子になぜ?」
おひなは痛ましげに目を細め、はつの頭を片手で撫でる。
「私も、はつには申し訳ないと思っています。ですがこうするしかないのです……」
「そんなこと……訳を教えてください。意味もわからずまぐわうなんて無理ですよ!」
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「ほおー、するってえとあんたは一度に二人も女子とまぐわったってわけだ。しかし役得ってわけじゃあなさそうですな、その様子だと。どんな訳ありだったんで?」
……あの村では長い日照りで、畑も田もひどいありさまだったらしい。このままでは次の年には飢えて死ぬしかない。だから村で雨乞いをすることなった。
「雨乞いですかあ。あっしが知ってるのは祭りやったり、僧侶に頼んで祈祷してもらったりですが、それがどうかしたんで?」
……その村では雨を降らせるために、若い娘を人柱にするんだそうだ。娘を縛って池に沈る。それが雨乞いの儀式だ。
「ひゃあー残酷なもんですな。でもそれがどうしたんで? まぐわいと関係ないですぜ」
人柱にする娘は清い体でなくてはならない。つまりは『おぼこ』だ。男とまぐわったことがない娘だけが人柱になれる。そして、おひなはおぼこだった。はつもそうだ。
村に若い娘は少なく、おひなが人柱に選ばれた。だからわたしがおひなとまぐわえば、人柱にされなくてすむ。はつともまぐわえば人柱にされない。
「なるほどねえ。つまりは人助けで二人とまぐわったわけですか。ん? どうしたんで?」
…………わたしは、断ったんだ。人助けとはいえ、初めてあった女の初夜を奪うなんて。しかも、もうひとりは十かそこらの子供だ。そんな非道なこと、恐ろしくて…………
「つまり、二人とはまぐわなかったと?」
わたしが無理だと断ると、戸が開いた。誰かと思ったら、二人の父親と母親で、ゆっくりと近づいてきて顔をじっと見てきた。部屋には明かりはひとつもなくて暗いのに、なぜかその両目だけがやけにはっきり見えて……
父親がこう言った。おひなが不憫だと思うならどうか抱いてやってくれ、と。
たしかに人柱になるのは可哀そうなことだと思うが、だからといって抱くことなんかできないと言うと父親は「そうじゃない」と首を横に振ったんだ。
「そうじゃない? 人柱にされるってことじゃなかったんですかい?」
はつが堰を切ったかのようにしゃべり始めた。
おひなは村の庄屋の息子と祝言を上げる予定だったそうだ。髪にさしたかんざしも、その息子からもらったものらしい。しかしある日、おひなが帰ってこない。家の者が慌てて探すと、村のはずれの崖下に倒れているのが見つかった。幸いにも命は助かったが、顔の半分は醜く紫色に膨れて片目を失い、頭を打ったせいか片手も動かなくなってしまった。そのせいで庄屋の息子との祝言は無かったことに。
「そりゃあ不幸なことで」
だがそれは事故ではなかったらしい。おひなが言うには誰かに後ろから殴られて意識を失った。その後に崖から落とされたと。
はつは怒りにつり上がった目をしながら話し続けた。おひなを殴ったのは、村の娘『みね』だと。その娘は昔から器量良しであるおひなを嫌っていて、自分も庄屋の息子を狙っていたものだから、祝言をあげることになったことを殊更に恨んでいた。だから絶対におひなを襲ったのはみねで間違いない。それだけでなく、みねは庄屋の息子と祝言をあげることになったという。
「ははあ、そいつはなんとも惨い話ですやね」
こんな目に合ったうえに人柱にされるなんて、あまりにもひどすぎると父親は静かに涙をこぼした。母親とはつも泣いている。ただひとり、おひなだけが放心と笑みが混ざったような、言葉にし辛い顔をしているのが妙に心に残った。
たしかにおひなに起こった不幸は同情できるが、それとこれは別だ。もう一度断ると、父親が急にわたしの体を押し倒し、腕を押さえつけた。思わず怒鳴りつけようとすると、目の前に何かが突き付けられた。それは、草刈り鎌だった。言葉を失うと、もう片方の腕を母親が押さえつける。老いた女とは思えないほどの力でびくともしない。
なんとか逃れようともがくと、また顔に何かを突き付けられる。母親が持つ錆が浮いた包丁だ。母親へ顔を向けると、どうかどうかお願いします、これではあまりにもおひなが不憫だ不憫だ、見開いた目でこちら見ながら何度もそうつぶやく。あまりの恐ろしさに声をあげたが、一向に力はゆるまない。
父親も、頼む頼むと念仏のように唱えながらわたしの腕を押さえながら鎌を突き付ける。
はつは顔のすぐ近くへ座り、耳元へ顔を近づけて、おひな姉ぇのためだからとささやく。
わたしは訳もわからず涙があふれた。なぜこんなことになっているのか。ここは一体どこなのか。わたしは狐にでも化かされているのか。もしかすれば、これは夢なのではないか。まるで現実とは思えなかったが、腕を押さえる力は本物で、耳に聞こえる声も偽物とは思えず、私の体の上に乗るおひなの重さと温かさも確かだった…………
夜が明け、太陽が顔を出したころ、家の戸が外から強く叩かれた。戸を開けるとそこには村の皆が集まっていた。人柱になるおひなを連れに来たのだ。
おひなを出せと言われると、おひなは皆の前に出た。連れて行こうとされると父親が止める。もうおひなは人柱にできない、もう男とまぐわったからだと。
村の皆が騒ぎ始めると、おひなは一枚だけ羽織っていた衣をためらいなくまくり上げた。裸の股からは流れ出た血が乾いてこびりついている。
ならばもうひとりの娘、妹のはつを出せと騒ぐ。はつも皆の前で恥ずかしげもなく股を見せ、血のあとを見せつけた。さらに大きな騒ぎが起こった。
「うはあ、何てこった。それでそれで、どうなりやした?」
殊更に大きく騒いでいた娘が連れて行かれた。その娘の名前は『みね』だ。そう、おひなを殴ったという娘さ。村で人柱にできる若い娘は、おひなとはつと、そしてみねだけだった。
……そうさ。そのことはもちろん、家族全員知っていたはずだ。おひなとはつが人柱にできなくなれば、みねが人柱にされるということは。
わたしは泣き叫ぶみねを運ぶ村の皆を呆けて見送り、ふとそこに立つおひなたちを見て真冬に水浴びをしたかのように体がこわばり寒気がした。
村の皆の背中を見送るおひなとはつ、その両親が笑っていた。そこにあるのは喜びではない。丸い黒目はただの穴にしか見えず、その先は地獄へ続いていて、見続ければ自分も吸い込まれてしまう……
わたしは悲鳴をあげて荷物を掴み家を飛び出した。どこをどう走ったのか覚えていない。しばらくすると空を黒い雲が覆い、大雨が降り始めた。地面がぬかるみ、そこでわたしがずっと裸足で走っていたことに気付いた。それでも走り続けた。
…………この雨は、どれほど降り続いている? そうか、三日か。あれから三日経ったのか……三日経ったのに……
ああ、それからずっと雨は降り続いている。ずっとだ。
……そうだ、はやく降りやんでほしい。雨が降っていると震えが止まらない。
寒いわけじゃない。見えるんだ、あの目が。見られているんだ、あの目に……
雨が、雨がやまないと、あの目が追いかけてくる……あの目が……
雨やどり 山本アヒコ @lostoman916
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