第75話 血も涙もない
そうして、永遠にも思える拷問が一時止まったのは、もう右の指の骨が残らず無くなろうかという頃。痛みで気絶していたのか、反応を寄こさなくなっていた男は、親指の骨を砕かれるとともに、再び意識を覚醒させた。
「ジスベルト、デーヴェン自治区、カイア村のジスベルトですぅ」
違う名前。そして聞いたことが無いような地名。赤鎧はしばらく黙って男の言うことを聞いていたが、不意に手首を勢いよく引っ張ったかと思うと、ようやく手を離した。男の手首が支えを失い、ぶらんと力なく垂れ下がる。
「なんでえぇ、ちゃんと言ったのにいぃ」
男は、涙でぐしゃぐしゃの顔で赤鎧を睨んでいた。
「調べろ」
赤鎧は男には目もくれず、部下に向かって声を飛ばす。はい、という威勢の良い返事が聞こえ、いくつかの足音が路地から走り去って行った。
「仕草を見て、人を見ず。数多の人間を分類し、その人となりを画一化して見ることほど馬鹿げたことはないが、嘘つき相手にはこれでも十分だろう。無数にある尋問の仕事をこなすには、この手法はとても役立つ。返事をする間、此方の眼を見る頻度、呼吸の深さ。その全てが、貴様が口にした最初の名前が偽りであるということを示唆していた」
「でも今のは、ほんどうの――」
毅然とした赤鎧の言葉に、男は歯抜けの不明瞭な発音で、焦りを露わにする。
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「ああ、ジスベルトというのは本当だろう。貴様は今、真実を嘘とみなされ絶望している。これでまだ、秘密を隠し通しているというなら大したものだ。しかし――」
再び、柄の底が男の手首を襲った。
「そう喚くな。指の方はしばらく痛むだろうが、手首は外しただけだ。兵舎の方で、きちんとした処置を受ければすぐに治る」
「があぁぁああ……悪魔、この悪魔あ」
男の悲鳴も介さず、赤鎧は、そのままグリグリと抉るように槍の柄を回転させた。
「言うに事欠いて、悪魔、か。どうやら貴様が信じる悪魔と、私が思う悪魔は全く別物のようだ。罪人の摘発をしている私が悪魔なら、口を開けばすぐに嘘を吐く貴様は何なのだ? 私は国家に仕える身。私を侮辱することはすなわち、国家を愚弄するということ。言うのは貴様の自由だが、自分の立場をしっかりと理解してから発言することをお勧めする」
聞こえてくるのは、ふー、ふーという荒い呼吸音。赤鎧は、体のあちこちから、潰れた虫の体液のような汚い色の汗を垂れ流す男を見て、初めて不快感を顔に出した。
「私怨で貴様を痛めつけたと思われているなら、それは誤解だ。私は常に法に従って動いている。オールト王国憲法第十四条、七項。王都内に限り、王家直属の憲兵団は、逃亡者を鎮圧する権利を有する。同十一項、憲兵団は、相手の素性の最低限を尋ねる権利を持つ。同様に、市民は答える義務を持つ。そして百二項、事件性の高い事案であると判断された場合、憲兵団は自らの所見で、責問を許される。
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無論、相手が罪人であれば、扱いは大きく異なってくるが、私はまだ貴様を同じ王国の一員として取り扱っている。貴様が逃亡したので捕縛した。質問に答えず、無言を貫いたため尋問した。ただ、それだけの話だ。例え貴様が、普段はよき市民であったとしても、理由なく素性を偽ることは国家への重大な裏切り。危険人物とみなされたところで文句は言えないだろう。……どこか問題があったか? あれば、謝ろう。それは此方の不手際だ」
場に沈黙が流れる。が、路地からパタパタという元気な足音が戻ってきて、無言で男を見下ろしている赤鎧の前に跪くまでには、そう時間はかからなかった。息を切らした一人の兵士が、黴でも生えてしまっているのか、黄土色に変色した書状をばっと差し出す。赤鎧は相変わらず顔色を変えることは無く、何が書いてあるのか、赤鎧以外の人が知ることは出来なかった。
「喜べ、ジスベルト。貴様の素性が判明した。これにて、尋問は中止だ」
その声で、男の表情に安堵の色が現れる。だが、いきなり手荒い拷問をやってのけた奴らのことである。
「今から罪状の確認をする。これが済めば、晴れて貴様は罪人の仲間入りだ。でまかせを言ってくれるなよ。正直に、腹の内を全て見せれば、左手は無事に貴様のもとに帰ってくる。……ああ、そうだ。前もって忠告しておくが、両手が使えぬ生活というのは、貴様が想像している以上に不便だぞ」
血も涙もない赤鎧の言葉に、死人よりも青白かった男の顔はさらに色を失っていった。握られた左手首を見て、死刑宣告でも受けたかのように愕然としている。
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本当にこんな野蛮なやり方が、正式な手続きに基づいたものなのだろうか。赤鎧はさも自分が正当であるかのように、法律とやらをズラズラ並べたが、堅苦しい言葉で早口に言われたせいか、ルーツは一つも理解できなかった。何も分からないから、口を挟むことも出来ない。
「だから喚くな。我々はあくまでも法の下、あらかじめ定められた手順に則って動いているだけだ。貴様が自ら進んで話すと言うなら、これ以上危害を加えることは無いと約束しよう」
赤鎧はそう言ったが、男は既に、誰の言うことも聞いてはいなかった。また指を折られるという恐怖。そして、いつまで続くかもわからない痛み。全てに押し潰され、半狂乱になってしまっている。
赤鎧は暴れ出した男を一瞥すると、ため息をつき、部下に手足を押さえるよう指示をした。組み伏せられた男は、最後の抵抗とばかりに首を振り、獣の咆哮にもよく似た罵声を飛ばす。
兵士たちの隙間から、男の右手が束の間見えた。薄紫色に膨れ上がった手のひら。今にも千切れそうな五本の指。なかでも小指は特に悲惨で、第一関節の辺りから抉り取られてしまったかのように歪な形をしている。手首から関節を外されて思うように動かないはずの男の手。その手がルーツに助けを求めるように、小刻みに動いていた――。
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限界だった。もう見ていられなかった。驚きと恐怖のあまり凍り付いていた手足が、怒りで振り切れてしまったかのように、ルーツに動きたいと告げる。
もう少し待てば、男も落ち着くだろうに、どうしてこの兵士たちはろくに話も聞こうとせず、すぐに実力に訴えようとするのだろう。何故、こんな残酷なことを平然と、顔色一つ変えずに出来るのだろう。
この男が何をしでかしたのかは知らないが、ここまですることは無いじゃないか。これでは、どっちが悪人なのかわかったものではない。
こんなこと、やめさせないと。赤鎧の傍まで行って、止めさせればいいんだ。行ける。言える。そう自分に言い聞かせると、ルーツの体は自分の物ではないかのようにぴくぴく動いた。大勢にねじ伏せられている男は、弱者にしか見えなかった。赤鎧たちは、もう満足に立ち上がれない弱者を大勢で甚振り続けている。
怒りの表情を顔に張り付けたままルーツは歩き出す。言っても止めてくれなかったら? 辛うじて残っている理性が問いかけた。が、もう止まらない。
聞いてくれるまで言い続ければいい。ルーツの本能は即座にそう答えた。いよいよの時は、無理やり止めさせるしかない。自分が弱いこと、そして兵士たちが恐らくとても強いこと。そんなことは分かっていた。しかし今、目を逸らしたら、きっと男は殺されてしまう。
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やるしかない。そんな向こう見ずな感情は、村長からの手紙を見てしまった時の心情とどこか似ていた。
一つのことしか考えられない。今、赤鎧を説得出来れば、後のことはどうとでもなる、いや、全てが好転するはずだという根拠のない自信が湧いてくる。
だが、ルーツは一つ、大切なことを見落としていた。あの時、ルーツが一人でふらふらと役所に向かい、吸い寄せられるように記憶に入り込んでしまったのは、自分一人で考え込んでしまったから。相談相手も、無茶を止めてくれる相手も居なかったからなのだ。しかし今、ルーツの隣にはユリがいる。
赤鎧しか見えなくなっているルーツの視界を、大きな何かが遮った。無理やり押しとおろうとするルーツを前に、それは一歩も動かない。
「待って!」
鋭い声が、熱に覆い尽くされかけていた意識を引き戻した。腕に抱きかかえられた少女が視界に入り、ルーツの動きは思わず止まる。
そして、見えてきたのは見慣れた姿。
ユリが、ルーツの眼の前に立ち塞がっていた。
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