第36話 後始末
「終わった……のか?」
アウレリオの掠れた呟きに、小さなヴァルくんが「ええ」と応じる。
「浄化……滅したわけじゃ、ないよな?」
「ええ。眠っているだけです。ただしその眠りは闇より暗く奈落より深く……まあ平たく言えば呪いですね。千年は目覚めませんよ」
それを手向けとした彼の心中を、他人が図ろうとすることは、きっと浅ましいことなのだろう。しかし、どう応じたものかと俯いたわたしと違い、それを「信用なりませんわ」とバッサリ切り捨てたのはエウラリアだった。
「もし目が覚めても動けないよう、先に縛っておきましょう。フゴ、ロープ」
「任せろ」
さっと立ち上がるフベルトを、グラティアが「待ちなさい」と止める。
「悪魔に普通の拘束は無意味だ。専用の拘束具があるから、私がつけよう」
「あら、グラティアさまじゃありませんの。聖騎士さまの前で差し出口を……って、どうされたんですの、そのお怪我は! フゴ、早く
「いや、いい。傷はほとんど塞がっている。もし持っているなら、
「あ……は、はい!」
慌ててそちらの要請に応えようと駆けていくフベルト。それを横目にわたしも立ち上がって、傷の痛みに顔をしかめつつ、祭壇の泉へと歩み寄った。そこで佇む、ヴァルくんのところへ。
いつものサイズ感に戻った彼は、微動だにしない小さな悪魔に腕を貸したまま、彼女の人形のような寝顔を見下ろしていた。……呪いで眠っているといっても、ちょっと距離感が不安になる。隣に立って、わたしはそっと問いかけた。
「……本当にもう、大丈夫なんですか?」
「とりあえず、この千年は。……貴女のほうこそ、あまり大丈夫には見えませんね」
リリムの荊攻撃のおかげで、全身余すところなく傷だらけだから仕方ない。「でも深くはないので平気ですよ」と言ったのだけど、眉根を寄せたヴァルくんは、わたしへと手を伸べてきた。
「屈んでください。治癒しますから」
「えっ、魔王さんって、治癒魔法とか使うんですか? ……意外ですね」
「なにをバカな。治癒魔法も使えずに、魔王など務まりませんよ」
呆れたように言われながら、おとなしくその前に膝を屈める。小さな片手で頬を包まれたと思うと、心地良い温もりがそこから全身へと広がって、慢性的なものになりつつあった傷の痛みが嘘のように引いていく。自然と閉じていた目を開くと、服の破れはともかく、すべての傷が綺麗に消え去っていた。
……おお、治癒魔法すごい。
驚きの回復ぶりにお礼を言おうとした矢先、けれどそれを遮って、背後で怪訝そうな呟きが落とされた。
「魔王? ……今、〈魔王〉っておっしゃいまして? ユッテさん」
「あっ……!」
事情を知る面子とずっといたせいで、すっかり油断してしまっていた。今更、口を塞いでも、零れた失言は取り消せない。
振り返ると、なにも知らない少年少女たちが顔色を変えていた。誤魔化そうにもその間もなく、困惑と唖然が交じり合ったヤスヤが口を開く。
「〈魔王〉ってあの、この世界を支配してたやつですか? その〈魔王〉が、そいつなんですか? そいつはヴァルじゃないんですか? ……いや、ヴァルだとしても、さっきの呪いとか、今ユッテさんを治したのとか、どうしてそんなことができるんだ? それに……違う。雰囲気が、俺の知ってるヴァルと全然違う」
もはや誰になにを聞いているのでもない。独白のような呟きに、ヤスヤは強く首を振って区切りをつけ、わたしの背後へと強い視線と問いを向けた。
「お前はいったい――誰なんだ?」
「おや知りたいですか? ――本当に?」
どこか愉快げな問い返しに、ヤスヤが口を開こうとした時だった。
「部外秘だ」
一刀両断の遮りに、思わずグラティアへと目を向ける。それは他の面々も同じことで、その場の視線がすべて、凛と立ち上がった聖騎士へと集まっていた。
魔法回復薬を得て、完全治癒した彼女は、冷徹な眼差しでその場を睥睨した。
「その子どもに関しては、我々、クリンゲル聖騎士団の管轄だ。本件の関係者とはいえ、余計な詮索は避けてもらいたい」
「でも……」
「そ、そうだぞ、ヤスヤ。世の中には知らないほうがいいこともある。お前はいつも、なんでもかんでも首を突っ込み過ぎだ」
意外にもまともなことを言ってくれたのは、血の気を失ったフベルトだ。ヤスヤ大好きなエウラリアもさすがに躊躇う色を見せ、この調子で収まってくれないかと期待した――わたしはやっぱり甘かった。
チキュウ生まれの異世界人は、我々には度し難く、手強いのだ。
「そいつが……ヴァルが本当に〈魔王〉なら」
周囲の忌避する空気には一切構わず、ヤスヤは真っ直ぐに、ヴァルくんを見る。
「俺は、俺がここに呼ばれた使命を、果たさなくちゃならない」
「……使命?」
そういえばヤスヤとケイちゃんは、チキュウからこちらに来る時に、誰かの声を聞いたのだと言っていた。その内容までは知らないけれど、そんなタイミングで聞いた声ならば、彼ら兄妹の召喚に関する重要事項である可能性は高い。
……以前の異世界人は、勇者ユウタロウは、魔王討伐という使命のために召喚されていた。もしも、今度の彼らも、それに類するものだとしたら。
警戒して身を寄せるわたしと対照的に、「ほう」と呟いたヴァルくんの声音は、いっそ穏やかとすら言えるようなものだった。
「貴方がそんなものを負っていたとは、露とも知りませんでしたね。もはやいないはずの魔王を倒すために、再び勇者が召喚されていたということでしょうか」
「違う! そんなんじゃなくて、俺は――」
「……なあ、それって本当に、今しないといけないことなのか?」
元魔王と異世界人とのやり取りに、控えめながらも口を挟んだのはアウレリオだった。
槍を担いだ彼は、眉尻を下げたなんとも言えない困り顔で、ちらりと聖堂の正面扉を振り返る。無残に開け放たれたそこは、リリムと、彼女を追ったアウレリオが通ってきた地下墓地ルートの終着点だ。
「地下とはいえ、派手にやったからさ。気付いた聖騎士さま方が、そろそろ下りてくるかもしれない。……お前らはどうか知らないが、俺としては、ここであったことをそのまま上に報告されるのは困るんだよ。もし急ぎじゃないんなら、そっちは後でやってくれないか?」
「――っそうですわ、ヤスヤさま! あたくしたち、あの子を元の港に戻さなくては!」
「あの子?」
突然に同意したエウラリアに目を瞬くと、彼女はピュイッと短く指笛を鳴らす。それに応えて、わたしたちの頭上、ヤスヤが割り破ってきたステンドグラスの穴部分から、のっそりと巨大なウミヘビの頭が現れた。ひえ。
「この島への、
厳戒態勢の下、出港を制限された港で待機させられていた彼を見つけ、その背に乗せてもらって来たらしい。
「……乗組員さんたちには無断でしたから、バレるとちょっとマズいんですの」
「あー……居合わせた騎士団員としては目をつぶるから、早く行け。ええとほら、そっちのお前らも。あ、人質だった女の子だけは預からせてくれな。その子がいないと、いろいろと収拾がつかねえから」
悪魔からの人質奪還を掲げていた以上、誘拐された当人が見当たらないのでは、聖騎士団の人たちも収まりがつかないだろう。ヤスヤもそれは理解したようで、歯を食いしばりながらも、未だ意識の戻らない妹をグラティアの腕に再び預けた。
「ケイのこと……よろしくお願いします」
「ああ。必ず無事に、きみたちの元へ帰すと約束する。……その代わり、と言ってしまうのは、とても卑怯で、我ながら情けなくもあるんだが」
苦さを呑み下すように一度、強く目をつぶったグラティアは、それでも目を逸らさずに、彼らと向き合って口を開いた。
「きみたちに、ひとつ頼みたいことがある。――この地下聖堂で見たこと、起こったことは、決して口外しないでほしい。これはクリンゲル聖騎士団ではなく、私、グラティア・フォン・S=ハイリガー個人としての頼みだ」
彼女がその名に懸ける意味を、彼らは正確に読み取っただろうか。
見ているだけのわたしには、さすがにそこまではわからない。しかしそれでも、しっかりと頷く彼らの表情を、確かに目にすることはできた。
「わかりました。ここであったことは、絶対に、誰にも言いません」
「あたくしたちは、ここに来てはいないのですもの。語ることなどありませんわ」
「話したとして、ホラ吹き扱いされそうだしな」
「……ありがとう。心から感謝する」
ケイちゃんをその腕に抱えながら、グラティアは、剣を掲げるように拳で額に触れ、少年少女たちへと最敬礼を表した。
そのやり取りが終わる頃、偵察に出ていたアウレリオが慌てて戻ってくる。どうやらかなり近くまで、城内にいた他の聖騎士たちが下りてきているらしい。
ぐぐっと乗り出した大海蛇の頭に乗り、少年少女たちが、
最後に身を乗り出したヤスヤが、真っ直ぐな声をヴァルくんへと投げた。
「また、会いに来るからな!」
「ええ、お待ちしてますよ」
珍しくも捻くれの交じらない返答に、見送りも忘れて隣の子どもを見下ろしてしまう。その直後、大海蛇の影が去ると同時に、聖堂正面から複数人の足音が駆け入ってきた。
「隊長! ご無事ですか!」
「ああ――合流できなくてすまない。グロースメアの騎士団員の協力があって、悪魔リリムを確保、人質も無事に保護できた」
「こちらのお二人は?」
救出願いが出ていたのはケイちゃん一人だけ。わたしとヴァルくんに首を傾げた聖騎士に、グラティアは一瞥もなく、「彼らも人質だ」と静かに答えた。
「どうやら城にいた客と店員らしい。怪我は私が治癒したが、身心の負担は大きかったはずだ。地上まで、丁重に送り届けるように」
「はっ!」
踵を鳴らす聖騎士を余所に、わたしたちはちらりと目を合わせる。どうやらそういうことらしい。おとなしく保護されておこう。
後始末のため残るアウレリオとはそこで別れ、わたしたちは、地下墓地ルートから地上へと護送されることとなった。西塔地下のほうが安全そうだけど、聖騎士さまに口は出すまい。
「それじゃあ、帰りましょうか」
「ええ。そうですね」
いつものように差し出した手が、いつものように握り返される。
すっかり馴染んだその感覚に、けれど、ひとつ違いがあることに気がついた。
「……ん?」
繋いだ手のひらが温かい。緊張と不安の連続でむしろ冷え切ったわたしの手に、彼の手は、その存在を刻みつけるような、確かな熱をもっていた。
……ああ。そういえば、そうだった。
その熱の意味を悟ったわたしは、途端にこみ上げてきたいろいろな思いに一瞬、目を閉じた。そして突き動かされるように、手を繋いでいた子どもの前に膝をつき、その身体を真正面から抱き上げた。
「久しぶりに動いて、疲れたでしょう。上まで運んであげますよ」
「……重いですよ」
「知ってますよ」
見た目相応の五歳児体重は、割とずっしり腕にくる。密着した肌は熱いし、耳元にかかる吐息は湿っぽい。汗をかき始めたら、きっとお互い不快になる。
――それでも、今は。
抱え直すついでに見せかけ、小さな身体を、ぎゅっと強く抱き締める。
そんなわたしを宥めるように、柔らかく抱き返してくる子どもの腕。その見た目不相応な対応に、伝わる確かな温もりに、泣き出したい気持ちになりながら、なぜだかわたしは笑ってしまった。
ちなみにやっぱり、地上まで抱っこは無理だった。本物の五歳児重い。
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