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    廃墟の饗宴への応援コメント

    缶詰からすると舞台は”元日本”なのかな?とか、会話劇がお洒落だなとか、なにか歌劇的なモノが会話の下敷きになっているのかな? 少年が立ち去る際の仕草の意味は?
    等々思いつつ、ラストの落書き内容に全く見当がつかない自分の無教養振りに悲しくなっています(;ω;)

    解説ありがとうございました。

    作者からの返信

     この作品はカクヨム向けに書いたものではないので、いろいろ不親切なんですよね。
     私は当時、持てる技術の全てを尽くしてこの作品を書きましたが、そのせいで読みにくいという、ネット小説としては致命的な欠陥を抱えることになりました。
     カクヨム向けに書き直そうかとも思ったこともあるのですが、そうなると全面書き直しになり、新作を書いた方がマシになるので、諦めてそのまま放置しています。


     この作品のテーマは、無意味な会話をだらだらと続けることにあるので、作品の仕掛けについてはわからなくても読むのに支障はありません。要するに、知的で高尚そうに見せかけるためのものに過ぎません。雰囲気で適当に読んでおけばいいです。


     この作品のベースになっているのは、プラトンの『饗宴』と夏目漱石の『吾輩は猫である』、あとは若干アイザック・アシモフの『黒後家蜘蛛の会』が入っています。
     これらの作品はすべて会話劇で、知識階級の人々が集まって話をするタイプの作品です。

    『饗宴』についてはタイトルにも入っていますし、途中で「諸君、今宵はどのように飲むのがいいだろうか?」というセリフがありますが、これがプラトンの『饗宴』からの引用になっています。

     山高帽の男は、この一夜をプラトンの『饗宴』のように、何か知的な議論を交わす場にしたかったわけですが、そもそもカウンターの男に哲学や文学に関する知識がなかったために空振っているわけですね。

    『饗宴』や『猫』などは、知識レベルが同じ人同士が会話しているから、哲学だの文学だのの専門的な話をしても通じるわけですが、本作の場合、みんな守備範囲がバラバラなので、哲学や文学からの引用とかをしても期待通りの反応をしてくれません。それで会話がすぐに行き詰まります。それを延々繰り返すのが本作の内容です。

     少年は会話に積極的に干渉していませんが、最後に店の外の壁に"Συμπόσιον(饗宴)"と書くことで、彼は山高帽の男が何をしたがっていたかは理解していたものの、あえて知らない振りをして空振っているのを面白がっていたことがわかる、という筋書きになっています。

     タイトルや途中の引用部分、ギリシャ語ということがヒントになり、わかる人にはわかる仕組みですが、わからなくても読む分には問題なくて、その場合は、同じくさっぱりわかっていないカウンターの男の視点から作品を見ることになります。


    『饗宴』は、読んだことがない人は、なんとなく高尚な哲学書だと思っているかもしれませんが、実際の中身は、いい年こいたおっさんたちがワインを飲んだくれながら「詩人があまり重視しないエロース(愛の神)が実は神の中で最強説をみんなで考えようぜ」とか「ショタがいかに尊いか」を熱く語っているだけだったりします。その辺のオタクの飲み会と大差ない。これを教養とみなすべきかは疑問です。