単編集:心百景
上田怜
奇箆霝厭 鬱籤姫
むかし昔、皆さんが知らないようなはるか昔。
大陸の向こうにそれはとてもとても美しいお姫様が暮らしておりました。
世界中の数多の詩人がお姫様を歌い、子どもまでもがお姫様を知っていました。それほどまでに美しいお姫様だったのです。
その髪は絹のように柔らかく、水銀のように透明な色で、見る人全ての心を掴んで離しませんでした。
その肌はこの世のどの陶磁器よりも白く、雪原のように傷一つなく、幾多の人々を振り向かせました。
その瞳はこの世のどの宝石よりも澄んでいて強い光を宿し、世の男性はその瞳を褒めたたえ、こぞって恋文を送りました。
その声はこの世のどの音色よりも甘く清らかで、聞いた人々を心酔させてやみませんでした。
そんな美しいお姫様のもとには、各国の王子たちが我先にと恋文を送り求婚しました。連日のように恋文が届き、謁見を求める人の列はお城のはるか先まで続きました。
お姫様の生活はとても優雅で華やかでした。食卓にはありとあらゆる食材が並び、舞踏会のドレスはどれをとっても、お姫様の魅力を何倍にもするものばかりでした。
そんな何一つ不自由のない生活をしていたお姫様は、ある日怪我をしてしまいます。それは、針で指を刺してしまうとしう誰にでも起こりうるものでした。
とっさに指を口に含んだお姫様を衝撃が走りました。
お姫様が口にした液体は今まで飲んでいたどのワインよりも甘く、今まで食べていたどの料理よりも美味なものでした。
その刺激は苦くも甘美な玉露そのもので、またたく間にお姫様を蹂躙していきました。
お姫様はすっかりその液体の虜になってしまいました。
もう一度その液体を味わいたいお姫様は国の全てを賭け、世界中を探しました。
けれど、海のそこに行っても、森の奥深くまで行っても、はたまた寒さの厳しい地の果てに行っても、その液体は一滴たりとも見つけることは出来ませんでした。
お姫様は悲嘆に暮れました。美しいそのお姿はすっかりやつれ果て、かつての美姫の面影は欠片たりとも見ることは出来ませんでした。
あまりのお姿に側で見ていた大臣がそっと耳元で囁きました。
「姫様の求めていらっしゃるものは生き物のワインでしょう。」
大臣の言葉を聞いたお姫様は国中のありとあらゆる生き物を集めさせました。
けれど、どれをとってもお姫様を満足させ得るものはありませんでした。どのワインも、あの苦く甘美な玉露をお姫様に味わらせることはできなかったのです。
失意の底に沈むお姫様に大臣はもう一度囁きかけました。
「左様にございましたら、国中の民をお集になられてはいかがでしょうか。」
明くる朝、国中をある噂が飛び交いました。
「姫が結婚相手を探している」と聞きつけた国の若い男たちは我こそはと勇み城に向かいました。
「姫の美の秘密が知れる」と聞きつけた国の若い女たちは、我先と目を輝かせながら城に向かいました。
けれど、城へ向かった民は、二度と皆の前に姿を見せることはありませんでした。
お姫様は絶望に沈んでいました。どのワインを飲んでみてもあの苦くも甘美な玉露のようなワインは一滴たりとも無かったのです。
絶望に沈むお姫様を見守っていたのは、足元高く積み上げられたワインの瓶と、皆が城から戻ってこないことを不思議に思った民衆が放った密偵だけでした。
ある日、お姫様の生活に不満を持った民衆は反乱を起こしました。
城は赤く染まり、あちこちで火の手があがりました。
民衆に捕えられてしまったお姫様は、国中の罵声をあびながら断頭台の露と消えました。
お姫様が眠る直前、飛び散ったワインの一滴がお姫様の口に入りました。
お姫様は涙を流しました。あれほどまでに必死に探したワインにようやく出会えたのです。
「美味しい。」そう呟いたお姫様は安らかな顔で眠りにつきました。
めでたしめでたし
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