残り物には福がある

@diamd_

第1話 大学入学

 ――ねえ、これ食べていい?

 ――いいわよ。めぐちゃんは本当に残り物が好きねえ。

 ――うん! だって、残り物には福があるんだよ! 残ったものはぜーんぶめぐのもの!

 ――ふふ、めぐちゃんがいれば、お皿がきれいになるから安心だわ。

 ――へへへ……


 ***



 教室には、鉛筆の音がそこかしこに響いている。


 私は、うんざりするように長い英語で書かれた文章の一文に、大事か大事じゃないかよく分からないまま勢いよく線を引いた。急いで引いたので、線が下の行の文字を貫いてしまった。しかし、消しゴムを使っている暇はない。

 私は、急いで設問の書いてあるページを開き、選択肢に目を滑らせた。


(①番は、この文章と矛盾するから違う)

 と、考えるや否や、私は①と書かれた文字に勢いよくバッテンをつけた。

(②番は、文章を明らかに誤読しているわ。ここの文章に書いてあるのはこういう意味だから……っていけない、バツよバツ)

 私は②にもバツをつける。同様に、③、④にも素早くバツをつけた。

(ふう、ということは、残りものの⑤番ね)

 ふふっ、と笑いそうになって、慌ててそれを止める。そのとき吹き出た鼻息が、シューっと鳴って教室に響く。危ない、今は試験中なのだ。大事な、大事な、大学入学試験。私は、額に滲んだ汗を袖で拭いて、長文の書いてあるページに戻った。

 試験時間は10分を切っていた。私は、更にスピードを上げて鉛筆を答案用紙に叩きつける。



 そして、試験終了のチャイムが鳴った。試験監督は厳しい目を教室全体に向け、問題をまだ解いている人間がいないか確認した。左の隅の方で、カサコソと音が聞こえている。


「そこ、やめろ! 失格にするぞ」

「はい! すみません!」

 と、音の主は慌てて鉛筆を置いた。勢い余ったのか、鉛筆が机から落ちて、カランコロンと教室にこだまする。試験監督は、後で拾えというように厳しい顔をその人に向けながら、次の指示を出した。

「じゃあ、答案を上にして、手は膝の上に置け。もう試験は終わったんだ。往生際を悪くするな」

 と、試験監督は、私たち受験生の座っている机の間をゆっくり歩き、答案用紙を集め始めた。几帳面だからなのか、それともそういうルールだからなのか監督は一つ一つ丁寧に紙を拾い上げては、一通り目を通している。

 この仕事に不満を持っているのだろうか、監督の顔はずっと厳しかった。彼はもしかしたら、普段は教授で、独創的な研究をしている人なのかもしれない。だったら、こんな雑用、嫌に決まっている。


 とか、考えていると、いつの間にか監督が私の前の席に来ていた。彼は、答案を拾い上げて眺めている。やはり険しい顔を崩さない。私は、ボーっとその顔を眺め始めた。

 化粧水でケアしていなさそうな顔は毛穴だらけで、表情筋に引っ張られた穴がしわになって空気のしぼんだ風船のようだった。40歳くらいだろうか。額に刻み込まれたしわのせいで、年配に見える。

 しかし私は、顎から生えた無精ひげが、あっちこっちに向いていることの方が気になった。抜きたい。ちょこんちょこんとして、すぐ取れそう。抜きたい。抜いて……並べたい。


 と、しばらく凝視していたら目が合った。彼の目はさらに鋭くなった。

「なんだ」

「ひげが……」と、私は言いかけて口を閉じた。代わりに、

「いえ、緊張するなって」

「ふん、そうか」と、監督は私の席に近づき、私の答案を拾い上げた。すると、今まで気の抜けたゴム風船だった監督が、急に目を見開いた。どうしたんだろう。私の答案に何か問題があったのだろうか。


「雪森……恵……」

 と、彼は私の名前を小さく呟き、私の顔をちらりと見た。また、私と目が合う。今度は慌てて、顔を反らした。ごまかすように軽く咳払いをした後、何事もなかったように後ろの人の答案を回収し始めた。



 ――かくて、私は水辺大学文学部哲学科に入学した。



 名前の通り水辺の近くにあるこの大学は、常に水分が蒸発しているからなのか湿気でじめじめとしている。


 見渡せば、黄色やら、赤色やらの髪の毛をした学生らしき人間がそこかしこにたむろっている。向こうには、互いに信念が衝突しているのか、喧嘩をしている男集団がいた。校舎の壁のタイルは剥がれ落ち、今にも崩れそうである。

 ふふ、ふふふ。これだ、これだわ。私の求めていた大学は!


 しかし、ここはどこだ。地図によれば、正門に私はいるらしいのだが。辺りを見回しても、門らしいもんはない。というか、大学と外界を隔てる壁すらない。

 受験のときに通過させられた東門の方がまだ門らしかった。正門とは名ばかりである。仕方ない。私の居場所を探すより、今は目的地に向かうことが先決である。

 と、私は荒くれた若者=学生をさっと交わして、じゃりじゃりとなるタイルの上を歩き、瓦礫一歩手前の校舎へと向かった。



「久しぶりだな」


 校舎の中に入ると、果たして、あの時の試験監督がいた。次の授業に向かう最中だったのか、脇に大量のファイルを挟んでいた。心なしか、試験監督をやっていたときよりも生き生きとして見える。


「試験監督さん、やっぱりここの教授だったんですね」

「いや、まだ准教授だ。それより、お前、なんでこんな大学に来たんだ?」と、教授は重たそうにしていたファイルを床に置きながら言った。

「え、どういうことですか?」

「お前みたいな優秀な学生が、なんでこんな偏差値の低い大学を受けたのかって聞いてんだ」

「優秀?」と、私は首をかしげた。優秀だと評価されるいわれがない。黙っていた私に、准教授は辺りをきょろきょろとしながら顔を近づけて言った。あの時の毛穴が、くっきりと見える。


「……ここだけの話だが、お前、入学試験の点数、満点近かったぞ」

「それは驚きました。まさか私がそんなに優秀だとは」

 すると、准教授はふんと鼻を鳴らした。やはり、試験監督の仕事は詰まらなかったらしい。あの時と違って、今は顔面の皮膚が引っ張られたり潰されたり忙しなく動いている。

 私は楽しくなって、毛穴を凝視した。やはり、顎からひょろひょろと無精ひげが生えている。抜きたい。いいかな、ちょっとだけ。


 と、考えていると、准教授はちょっと考えたような顔をして、こう言った。

「おい、お前、俺の研究室に来ないか?」

「え?」私は、ギョッとして、毛穴から目を反らした。

「やりたいこと、あるのか? あるなら無理にとは言わないが……」

 い、いえ……と、私は返事を濁した。

 准教授の口元がまたくしゃっと歪む。どうやら、口元に開いた毛穴が集中しているらしい。毛穴から覗く無精ひげが見えて、やはり心が躍った。心臓が脈打つ音が聞こえ始める。

 この研究室に入れば、この毛穴を見る機会が毎日あるのか。それは魅力的だ。しかもそれだけじゃない。もしかしたら、ひげを抜くチャンスもできるかもしれない。おお、それはちょっと――

「入ります」と、私は言った。

「おお、そうか! それは良かった」と、准教授の頬のしわがきゅっと伸びた。

「でも……」と、私は申し訳ない顔を作って言った。

「ん?」

「ちょっと待っていただきたいんです」

「え、なんでだ?」と、准教授は驚いた顔をした。

「とある事情で、私は今すぐ選ぶことはできないんです。できれば、他の研究室も検討してから、この研究室に入りたいと思います。まあ、きっと、私の性格であれば、多分先生の研究室に入ることになると思います」

 ふん、変なやつだな、と准教授は鼻で笑った。だが、とりあえず私の言ったことを一応理解してくれたようで、彼はそれ以上追及しようとせず、ファイルと持ち上げて去ってしまった。



「まさか、残り物を選びたい、なんて言ったら怒るに違いないわ」と、私は呟いて、入学オリエンテーションの会場へと向かった。

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