Bar Memoria

海牛トロロ(烏川さいか)

第1話 Bar Memoria ①

 いつの間にか、私はそこにいた。

 暗くて狭い路地の奥。怪しく照らされたバーの看板。こじんまりとしたその店の前に、私は立っていたのである。


「えっと……ここは?」


 ここへ来るまでの記憶がまるでない。

 とは言っても、生まれてから大人になるまでのことは覚えている。勉学に励み、優良企業に就職し、入社1年目の新入社員として努力してきた記憶はちゃんとあるのだ。


 今朝だって数少ないスーツの中から綺麗なものを選んできたし、何なら終業して退社した記憶だってある。

 欠けているのは本当に、この店の前へ来るまでの記憶だけである。


 ここはどこだろう?

 そうだ、スマホで調べれば分かるかも。

 左肩に下げていたバッグからスマホを取り出して画面を灯す。


「あれ、圏外けんがい……って、ああ! 画面割れちゃってる! どうして!?」


 ここに来るまでの間に割れてしまったのかもしれない。


「もぉショック……今年新しくしたばっかなのに」


 亀裂きれつの入った部分を指先でなぞった。

 そんなことをして直るわけでもないのに、ついやってしまう。


 何にしても、ここに来るまでの記憶もスマホを傷付けた記憶も全く甦る気配がない。

 頭の中にモヤがかかったというよりは、最初からなかったような感じだ。


 まさか、お酒を飲みすぎて記憶が飛んでしまったとか……?

 ああ、そうかもしれない。

 私はあまりお酒に強くないし、きっとそうに違いない。


「これにりて、しばらくお酒は飲まないようにしよ……って言っても」


 ここがどこか分からない。スマホが圏外。

 じゃあ来たと思われる道を戻ろうかと振り返ると、


「うわ、真っ暗……」


 店の反対側に伸びるのは、数メートル先も見えないほど真っ暗な道。何とも不気味だ。いくらスマホの明かりがあるからと言って、ここを通る気は起こらない。

 道に迷ってしまいそうだし、不審者と出くわしたら大変だ。


 私は回れ右をして、再度怪しげな店の方へと向く。

 本当は気が引けるのだが、こんな状況だから仕方ない。


 私は店の扉に手を掛けて中へと入る。

 青い明かりに包まれた店内は薄暗く、モダンテイストな内装が実に洒落しゃれていた。

 酒やグラスの並べられた棚とその前のバーカウンター。

 そこに一人の男がいた。

 歳は30前後。白髪のさらりとした髪でそれなりに整った顔をした男。

 白シャツの上に黒いベスト、そして黒い蝶ネクタイという、いかにもバーテンダーな格好をしている。

 しかし、どうにも私には彼が不気味に思えて仕方なかった。


 なぜなら、彼がどこまでも虚ろだったからである。まるで目の代わりにビー玉が入れられているかのようだ。

 バーテンダーが空虚な瞳に私を映して口を開く。


「いらっしゃいませ、バー・メモリアへようこそ。これはまた、珍しいお客様ですね」


 確かにこんな怪しげな店に女性が一人というのも珍しいだろう。

 私だって、こんな状況でなければ入っていなかっただろう。

 さっさと用件を済ませて出て行こう。


「あの、道に迷ってしまって……駅までってどれくらい距離ありますか?」


「とても、遠いですよ」


「どれくらい遠いですか?」


「歩いては行けないくらい、とでも申し上げましょうか」


「そんなに遠いんですね……では、タクシーを呼んでいただけないでしょうか?」


「かしこまりました」


 男性がカウンター奥にある黒電話のところまで行き、タクシー会社へ電話をける。

 今どき希少価値の高いダイヤル式の電話だ。映像作品で見たことあるくらいで、正しく使い方もよく知らない。


 それにしても、タクシーか……。

 普段から節制してたんだけど、痛い出費だなぁ。


「お迎えの手配ができました」


「ありがとうございます」


「では、お迎えが来るまでの間、よろしければこちらへ」


 バーテンダーがカウンターの椅子に手を向けた。


「あ、すみません。お言葉に甘えます」


 私はカウンターへと歩み寄り、一番はしの席へと腰掛けた。


 さて、タクシーは呼べたし、どうにかなりそうでよかった。

 あとは待つだけだ。


「よろしければ、こちらのカクテルをどうぞ」


 バーテンダーが一杯のカクテルを私の前に置いた。

 琥珀色の輝きを放つカクテルである。


「あの私、お酒は……」


 つい今しがた痛い目を見たばかりだ。

 酒を飲む気にはなれない。

 けれどもバーテンダーは、グラスをさらに私に寄せながら言う。


「これはお客様のために特別に作ったカクテルです。きっと気に入られるはずです」


 そうまで言われてしまったら断れるはずもない。


「じゃあ……」


 と、私はカクテルを手に取り、一口飲んだ。

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