第十八話 エマの幸せを心から願っているよ
― 王国歴 1045年初夏-1051年春
― サンレオナール王都
エマにフラれてしばらくの間、僕も冷静な判断が出来る状態ではありませんでした。しかしある日やっと気付いたのです。エマの人となりは良く知っていたつもりでした。
別れを切り出した彼女は明らかに様子が変でした。なのにガストン達の登場で頭に血が上ってしまった僕はこれでもか、と
そう言えばあの時、彼女は髪の毛をしきりに触っていました。僕の目をはっきりと見てはいましたが、固い表情をしていました。そこで彼女には何か事情があったと悟ったのです。
僕の卒業も間近に近付いていたその日、エマの普通科の教室を休み時間に訪ねました。彼女の級友たちの好奇の目に
僕はお喋り好きな女学生から彼女がもう学院に在籍していないことを聞かされました。その日の夕方にエマの屋敷を訪ねると、既に売り家になっていたその家には新しい買い手が修理改装を始めるための建材を運び込んでいました。
彼女の一家は年度末まで待つことなく、遥か南部の領地に帰ってしまったのです。遅すぎました。
別れ際に酷い言葉を並べ立てた僕のことをエマは怒っていることでしょう。ガストンに事情を聞く気にもなれません。奴の顔を見るだけで
僕は学院を卒業し、その後は投げやりな気持ちで交際を申し込まれるままに何人かの女性と付き合いました。
エマの次に付き合った彼女とは、僕が何度もエマと間違って呼ぶのでそれを
それからも街の雑踏で、行きたくもない舞踏会で、エマに似た髪の色の女性を見る度に振り返ったり、時には追いかけたりまでしていました。
エマのことがそこまで忘れられないのだとは自覚していませんでした。はっきり言って僕は重症でした。
それでもエマとの別れから四年も経てば心の傷は段々と癒えていました。その頃に付き合い出した女性とはもしかしたら結婚まで考えられるかも、と
ところが数か月で彼女の方から泣く泣く別れを告げられたのです。その女性は僕と別れた後すぐに別の男と婚約を発表していました。
爵位は同じですが、その男の方は将来確実に侯爵になることが約束されていました。それで納得しました。
僕の父は養子に入ったからソンルグレ侯爵を名乗っていますが、もうソンルグレ家の血を引く後継者は居ないことから父の代限りで爵位は王国に返上する予定だったのです。
ですから僕は侯爵家の長男とは言え、将来爵位も何もない身でした。僕自身は魔術師としての仕事があるだけで十分でしたから、爵位には執着していません。
僕に別れを告げた女性は彼女自身か、彼女の両親か知りませんが、どうしても侯爵夫人の座を欲したに違いありません。
僕の実父は犯罪者でも侯爵でしたし、母も侯爵家出身です。しかも僕は王妃の甥で、次期国王となる王太子の従弟なのです。ですから低位の貴族の者や平民よりはよほどましだという考えをする輩も居ます。
はっきり言って地位や爵位や財力と言った表面的なもの重視の考えは軽蔑に値しますが、それが貴族社会というものです。
僕はもう恋愛も真面目な付き合いもする気になれず、投げやりになっていました。
そんな時に妹のローズの結婚が決まりました。相手は以前から彼女目当てに我が屋敷に出入りしていた僕の親友、マキシム・ガニョンです。
ローズは結婚式にエマの弟、パスカル・テリオーも招待していました。僕も学生時代に何度か彼を見かけたことがあります。
エマから聞いていたとおり、その頃のパスカルは体が弱くて軟弱でしょっちゅう病気になって、人見知りが激しい少年という印象しかありませんでした。
今の彼はその記憶を
僕はエマの近況が知りたくて話しかけずにはいられませんでした。
「パスカル、僕のことを覚えているかな? ローズの兄、ナタニエルです」
「もちろんです、ナタニエル様。ご無沙汰しております。本日は誠におめでとうございます」
「遠い所からローズのためにわざわざ来てくれてありがとう。今はもうご家族皆テリオー領にお住まいなのだよね」
「はい。五年前に王都を引き払って以来、領地に居ります。特に私は田舎住まいの方が性に合っているようです」
「うん。君は学生の頃よりずっと元気そうに見えるよ」
エマも結局あの時テリオー領に戻って良かったのかもしれないと思いました。
「あの、お姉さんもお変わりないかな?」
もう誰かに嫁いで子供の一人や二人居てもおかしくない歳です。
「はい。元気にしております。姉もずっとテリオー領におりまして、まだ嫁いではおりませんが領地の商人ともうすぐ婚約する予定なのです」
「そう……おめでとう。彼女の、エマの幸せを心から願っているよ」
胸の痛みは少し感じましたが、彼女だって幸福を掴む権利があります。
彼女が良い縁に恵まれたことを昔ひと時でも関わった者として素直に祝福できました。学生時代の失恋をいつまでも引きずっているのは僕だけで十分です。
事態が大きく動き出したのは次の年の春でした。ある日、学院時代の仇敵ガストンが何故か僕を訪ねてやって来たのです。伯爵家の長男の彼でしたが、爵位を弟に譲って何年も前に王都を出ていたことは聞いていました。
卒業以来、実に六年ぶりです。何事かと思いました。
我が家の居間に通されたガストンは僕の顔を見るなり、床に額をこすりつけんばかりにして土下座しました。
「ソンルグレ、悪かった。昔の俺の愚行を許してくれ」
「は? 何言ってんだ? いきなり顔出してきたと思ったら」
「いや、だから悪かったって謝っている」
「そんな気持ち悪い事されてもこっちも調子狂うからやめろ。立ち上がってそこに座れよ」
「そんなことは出来ない、俺の話をこのまま聞いてくれ」
「やだね。今すぐ座らないと屋敷からつまみ出してやる」
そして渋々椅子に腰かけたガストンの口から告げられたことに僕は大きな衝撃を受けました。
「あのな、俺が学院時代に無理矢理引き裂いたお前の元カノ、テリオーだけどな、未だに嫁にも行かず領地で実家暮らしだぞ」
「な、何でそんなこと」
昨年秋、妹ローズの結婚式でパスカルから彼女が婚約間近と聞いていたのですぐには信じられませんでした。
***ひとこと***
あのガストンが初めて聖人に見える瞬間でした。
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