そして新米技能士へ至る
二魚 煙
起
今日もまた――鉄を削る。
薄暗く埃っぽい工場の片隅、そこで啓太はただひたすらに旋盤を通して鉄と向き合っていた。
回転運動により発せられた低音の機械駆動音が狭い工場に響き渡る。工場内には機械油、切削油の独特な臭気が辺り一面に広がっていた。啓太は旋盤に取り付けてある鉄の丸棒に切削工具であるバイトを近づけ、その表面を削っていく。
――シュルシュル。
金属が削れていく独特な音をたてながら鉄の丸棒は径が細くなっていく。削り取られた鉄は切粉となってパラパラとまるで雨のように重力に逆らわず綺麗に下へ落ちていく。
旋盤を一旦止める。音が次第に動力が切れた力無い音へと変化する。
啓太は近くの作業台からマイクロメータを手に取り、先ほど切削した鉄の丸棒の径を測定する。
測定結果――誤差の範囲内。指定公差内に寸法を入れることに成功した。
だがその成功とは裏腹に啓太は苦虫を噛み潰したような表情をしていた。
目指している技能は、こんな表面上なものじゃない。
ふう、と一息つき、額から滴る汗を作業着の袖で拭う。集中力が一気に途切れ、旋盤に散らばった切粉を子箒でさっと払い、簡単に清掃を始める。
「……終わったのか」
ウエスで所どころに付着した油を拭いていると、啓太の後ろから渋めの声が聞こえた。
後ろを振り向くと、この工場の入り口に一人の男が煙草を片手に壁にもたれながら立っていた。
「爺ちゃん」
後ろを振り返ると、啓太の祖父である矢代兼継が立っていた。
兼継はここの工場がまだ一つの会社だった頃の社長だ。今はこの工場をたたんでいるので、肩書のない一人のおじいさんなのだが、兼継を昔から知る人たちは今でもよく「社長」と言っている。昔から愛されていた証拠だ。
兼継は啓太を見ながら、手に持っていた煙草を咥えライターを使って火を灯す。煙草の先からはゆらゆらと紫煙が立ち昇る。
「爺ちゃん。煙草大丈夫なの?」
「別に大丈夫だ。バレなきゃこっちのもんだからな」
啓太はこの兼継の言い訳を何度も聞いている。医者からはやめろと再三言われているが一向にやめるどころか控える気配がない。曰く「生い先短い俺の唯一の楽しみが無くなるのはごめんだ」という事らしい。啓太も何度も忠告はしたが毎回こう言われるのでいつしか言わなくなっていた。
兼継が吐いた息から煙草の煙が吐き出される。そして腕を組み、その鋭い双眸で啓太を見据えていた。
「それで――今日は何か掴めたか?」
啓太は掃除していた手を止め、そのまま俯く。
「……いや、今日も駄目だった」
「そうか」
そう言って兼継はこの工場から出ていく。
その場に一人残された啓太は、今日加工した工作物を見て一人溜息をついた。そしてその工作物を鉄屑入れに捨てる。
捨てられた鉄の工作物は本来の金属光沢が失われるように見えた。
※
県立深瀬工業高校は本日もまた多くの学生が未来の技術士・技能士を育てるべく工業技術の実習を行っている。それはこの工業高校に在籍する啓太も例外ではない。
「矢代、また旋盤の腕を上げたな」
旋盤加工の実習中、啓太の担任であり旋盤実習担当の教師である九浜祐司が作業光景を見ながら声をかけてきた。
啓太は角部の面取りを行った後、旋盤を止めて測定に入る。
「そんなことないですよ」
「謙遜するなって。もしかしたら俺よりも上手かもしれないな。これならアレも安泰だな」
がははと笑いながらそう言い残し、祐司は他の生徒の作業を見に行く。
――安泰なんかじゃない。
啓太は静かに拳を握りしめる。作業帽を深くかぶり実習で作った工作物を見る。
金属を削り取り所定の形に仕上げた金属の工作物。他に作業している生徒の工作物と比べると啓太の工作物は他よりも群を抜いている一つの作品であり、一つの製品に仕上がっている。
だが啓太は満足していなかった。
いくら寸法が正確に仕上がっていても、啓太の目指している「それ」とはまだほど遠いものだった。
「いくら頑張っても俺には無理なのか……」
己のふがいなさと悔しさが込み上げてくる。悪いのは自分自身だと重々理解している啓太であるが、やはり「それ」の一端を掴めないでいるという苛立ちが啓太を包み込む。最早そのストレスでさえ行き場のないものへとなっていった。
何も無い果てなき荒野をただ一人で模索しながら渡り歩いている旅人のように、啓太はまだ見えぬ幻想かもしれない「それ」を探し求めている。
今日作った鉄の工作物を手に取り、一つ舌打ちをする。
――これは、生きてない。
やがて授業の終わりを告げるチャイムが実習場に鳴り響く。
他の生徒は嬉々とした表情で掃除をして実習場から出ていく。
しかし啓太はただ一人、色彩を灯していないただ暗いだけの双眸を宿しながら旋盤を見ていた。
※
啓太が「それ」を目指し始めたきっかけになったのは小学校二年生の時だった。
どこにでもいるような活発で好奇心旺盛だった小学生の頃の啓太はその好奇心で色々な場所を冒険するのが好きだった。雑木林があれば友達をを連れてその中に入り、擦り傷等の怪我をしながらも啓太はまだ自身が見たことのない未開の地に足を踏み入れるのが好きなのだ。
そんな好奇心を原動力に啓太はある場所に行ってみたいと思うようになっていた。
その場所は――矢代工業所。啓太の祖父が社長をしている小さな工場だ。
今は年齢的な問題もあり、その工場をたたんでしまっているが、この時代はまだ稼働していた。
そんな祖父である兼継が経営する工場に行ってみたいと思い始めたのは紛れもない好奇心からだった。
「おじいちゃんのこうじょうをみてみたい」
純粋な気持ちで工場へと赴く。工場自体は啓太の自宅の真反対にあり、行くのは簡単だった。
工業の外には大小様々な金属が置かれており、また荷物搬入用のフォークリフトも駐車してある。その景色は啓太にとっていつも見ている草木だらけの場所とは別次元の場所だった。
早速啓太は兼継を探すために工場内へと足を踏み入れる。
工場内に入りまず啓太を出迎えたのは工場内にこもった機械油の発する独特な臭いだ。この臭いに慣れていない人からすれば鼻を押さえたくなるほどの異臭。無論啓太の鼻腔にもそのつんざくような臭いが入り、すぐさま鼻を押さえる。
「くさい……」
初めて嗅ぐ臭いに啓太は多少戸惑いながらそのまま奥へ進む。
工場内には様々な機械が稼働する音が地響きのように響く。いつも遊んでいる雑木林とは比べものにならないほど啓太はどんどんその景色に魅了されていく。
そのまま歩いていくと、とある機械を操作している見慣れた背中がそこにあった。
それは啓太の祖父――矢代兼継だ。
背中しか見えないその兼継の姿は家で見る姿とはまるで別人のように見えた。
鋭い眼光。その目で見据えるのは一台の工作機械――旋盤にセットされた一本の金属丸棒。兼継は巧みに旋盤を操作し、その金属を削っていく。
金属は段々と細くなっていき、その削られた金属破片はパラパラと工場の蛍光灯に照らされ輝きながら落ちていく。
旋盤の回転音、コンプレッサーの稼働する振動音、機械油・切削油の焼き付く臭い。そして兼継の洗練された作業動作。
見たことがない。啓太にとってまさにその空間は異次元そのもの。
その姿に魅了されていると後ろから肩をポンポンと叩かれる。
啓太が振り返ると、そこには顔見知りの作業員のおじさんがそこにいた。
「コラ、ここは危ないぞ。もう少しで啓太君のおじいちゃんは休憩だと思うからこっちで待ってような」
そう言って啓太はそのおじさんに案内され工場のとある小さなスペースへと連れられて行く。
「ここで待っててね」
パックのお茶を渡された後、おじさんは部屋から出ていった。
一人残された啓太は渡されたお茶を飲みながら先ほどの情景を思い出していた。
兼継の仕事姿。鉄が加工されていく姿。機械音。独特な臭い。その一つひとつが確かに焼き付いていた。
――あんな風になりたい。
そう思っているとこの部屋の扉が開き、啓太の良く見知った人が入って来た。
「おう、啓太。お前駄目じゃないか。ここは危ないから今後は入ってきちゃ駄目だぞ」
そう言いながら兼継は啓太の頭を掴み、頭をガシガシを撫でてくる。
「おじいちゃん! ぼくもおじいちゃんみたいになりたい!」
兼継は啓太の言葉に目を見開く。そしてすぐさま、
「……そうか。ならもう少し歳をとらないとな。そうすれば啓太にも使い方を教えてあげられるよ」
といつもの優しい声音で啓太を見る。
元気よく「うんっ!」と答える啓太。
啓太に在りし幼き記憶。この記憶が啓太にとって初めての夢である「兼継みたいな技能士になる」に向かって歩き始めた日だ。
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