バイクにまつわるエトセトラ
小林誉
第1話 エストレヤ
4月。時刻は午前四時。人の気配は全くと言っていいほどなく、辺り一面真っ暗闇の中、寝静まった街には新聞配達のカブが走り回る音だけが響いている。何台かバイクの並んでいる駐輪場の一番端、真っ黒のカバーに覆われた愛車の元へとゆっくり歩いて行く。
自分の吐く息が白く、視覚化した寒さにぶるりと体が震えた。かじかむ指を気合いで動かし、後輪と前輪をロックしていた頑丈な鎖を外してカバーを剥がすと、そこには乗り慣れた愛車が姿を現した。
エストレヤ――20万そこそこの金額で手に入れた、カワサキ製のこの中古バイクは、通勤だけに留まらず、ツーリングや日々の交通手段にと大活躍してくれる頼もしい相棒だ。
一つしか無いメーターから目線を左下に向けると、クラシックな見た目を崩さないように作られた小さな鍵穴がある。チャラリと微かな音を立てるキーケースから一つを選んで鍵穴に差し込み、静かにスタータースイッチを押すと、派手な音と共にセルが回り始める。
キシュルルル……キシュルルル……
うん。当然のようにかからない。チョークを引っ張り再始動。今度はかかった。ドコドコと単気筒独特の音と振動が周囲に響き渡る。近所迷惑になるので素早くスタンドを足で払い、坂道を利用して家を離れていく。最近のバイクはともかく、昔のバイクはキャブ車ばかりなので、冬場はチョークを引っ張らないとまずエンジンがかからない。ただし、ホンダ車は除く。
ヘルメットのバイザーを下ろし、グリップヒーターの電源を入れると、少しずつ寒さが緩和されていく。エンジンの回転数が安定してきたのを確認して、恐る恐るチョークを元に戻した。ホッと一息。暖まっていない状態だと、簡単にエンストする場合があるのだ。
ポケットからスマホを取りだし、ホルダーに装着。今日の目的地は近江神宮だ。某カルタ漫画で有名な、国内でも有数の見事な社を持つ神社だ。写真や動画、アニメなどで頻繁に目にする機会はあるものの、実際に訪れたことのない観光名所。一度行ってみたいという理由で選んだ場所だった。……いや、正直に言えば、別に何処でも良かったのだ。バイク乗りに取って観光は二の次。一番の目的はバイクで走ることなのだから。
何となく決めた目的地を衝動的に目指す。バイクの魅力に取り付かれた人間の行動なんて、そんなものだ。
アクセルを捻るとエンジンがうなりを上げ、車体を力強く前に押し出してくれる。わずか250 CCの排気量しかない非力なエンジンだが、それでも人間一人を高速移動させるぐらい簡単にできる。あっと言う間に法定速度に達したのをメーターで確認し、アクセルをゆっくり戻すと巡航の開始だ。信号や渋滞に引っかからない限り、バイクは前に進んでくれる。
人によっては、単気筒のエンジンが嫌いだという者もいるだろう。音が新聞配達のカブみたいだとか、振動が酷くて手が痺れるだとか、パワーがないとか言いたい放題に言われてしまう。しかし、それでも、他人が何を言おうが自分だけはこのバイクを好きだと断言出来る。クラシカルなデザイン。落ち着いたエンジン音。足つきや旋回性の良さ。積載性も良く、大きなシートバックも問題なく積める。長距離のツーリングにも十分耐えられる性能を持っている、自分にとって最高のバイクなのだ。
日も昇らない真っ暗闇をひたすら走っていく中、グリップヒーターから伝わってくるほのかな熱が心強い。家を出て一時間ほど経ち、コンビニ前に停車して中に駆け込む。時間が時間だけあって店内に客の姿はなく、店員が面倒くさそうに奥から出てきた。暖かい缶コーヒーを購入して外に出た後、シートに腰掛けて一服する。真冬――とは言わないまでも、4月の早朝は十分寒い。メットの中は自分の吐く息で曇り、時には鼻水も垂れて悲惨な状況になる。何枚も重ね着をしているため体の寒さはそれ程では無いものの、手や足の末端はどうしても冷えてしまう。そこで味方になるのがグリップヒーターや足先用のカイロだったりする。これらの道具がなかったら、いくらバイクが好きでも寒い時期に走ろうと思わないだろう。
飲み干したコーヒーの空き缶をゴミ箱に捨ててシートにまたがり、エンジンを始動させる。問題なくかかったので再発進。一速、二速、三速と順番にギヤを変え、気持ちよく走っていると運悪く前方の歩行者用信号が点滅し始めた。赤にならないうちに走り抜けようと、ウインカーを出しながら右折し始めたその時、突然エンジンがストップ。他のバイク乗りなら慌てるような状況でも、エストレヤに乗り慣れているバイク乗りは慌てない。何の動揺もなく、スタータースイッチを押してエンジン再始動。曲がりきる頃にはエンスト前と同じ状態に戻っていた。
エストレヤ――このバイクには別の名前がある。あまりにも意味不明なエンストを繰り返すために、エンストレヤと言う不名誉な呼び方もされているのだ。これがカワサキのバイク全てに共通する事柄なのかどうかは不明だが、少なくともエストレヤだけはこう言う症状を持っている。まさにこのバイクの持病とも言える特徴だった。
地元兵庫を出発して、東に東に進んでいく。250 CCだし、高速に乗ればもっと早く簡単に目的地まで到着するんだろうが、生憎とこのエストレヤにETCはつけていない。ツーリングは決まって下道ばかりだ。一般的に、下道を100㎞走ろうとしたら三時間ほどかかると見て良い。そして出発からちょうど三時間。何度も休憩を挟みながら、ようやく目的地である近江神宮に到着した。幸い、神社の参拝は早朝から可能のようなので、作法に則ってお参りし、無事に帰れるように祈願しておく。
せっかくここまで来たのだから、休憩がてらあちこち見て回ることにした。流石に全国でも有名な神社だけあって、多くの人が様々な目的でこの地を訪れているようだ。真っ赤で荘厳な社。お祓いや厄除け、結婚式や安産祈願。ちょうどこの日は奉納演武をやっていたらしく、着物姿をした現代の侍が、真剣な顔で刀を振り回していた。珍しいものが見られて、それだけでもツーリングした甲斐があるというものだ。
神宮前に停めたバイクの前に戻っていく。回りは全て車。バイクは自分のものだけだった。周囲は何か珍しいものを見るような目でこちらを見ている。そりゃそうだ。この寒い時期に、わざわざ体を剝きだしにしている乗り物に乗っているのだから。物好きと思われても仕方ない。
それらの視線を受け流し、エンジンを始動。まだ熱が残っていたせいか、簡単にかかってくれる。ドコドコと言う単気筒独特のエンジン音を響かせながら、近江神宮を後にした。観光なんて一瞬だ。そう――ここまで来た目的は走ること。ただひたすらバイクで走るためにここまで来たのだ。
これから家に帰ったとして、到着はちょうど昼ぐらいだろうか? だったら途中で何か食べて帰りたいものだ。次の休憩の時、スマホで周囲のグルメスポットを検索してみよう。車でいっぱいだったとしても、バイクなら問題ない。この身の軽さがバイクの武器だ。アクセルを捻るとゆっくり加速していく。次は何処に行こう? 何を見て、何を食べよう? そんな事を考えながら走るのも楽しみの一つだ。だから走る。人から奇異の目で見られようと。バイクで走るのは人生最高の娯楽なのだから。
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