「秋山が立たされた理由」欄のある学級日誌 23.9冊目🗼

如月 仁成

シャボンソウのせい


 ~ 八月二十四日(土) the morning ~


 シャボンソウの花言葉 賢明な行動



 不安な気持ちは。

 乙女の大敵。


 だから、武装するの。


 お気に入りという名の剣と。

 おろしたてという名の鎧とで。



 ……まだ、瞼をうっすらとしか開けてない空から届く光は。

 裏口のすりガラスから、ほんの少しだけ零れ落ちて。


 薄暗がりのお勝手にしゃがむあたしを。

 弱い気持ちで包んでしまう。



 失敗しないように。

 いつもと同じように。



 大丈夫だからと声をかけてくれる。

 慣れ親しんだ白いレースの靴下を。


 あたしに任せてと勇気をくれる。

 始めましての赤い靴へ滑り込ませながら。


 あたしは、今日を迎えるために。

 ……明日へ繋がる今日と戦うために。


 眠ったままの勝手口。

 おはようと小さく声をかけてから。

 恐る恐る開いてみた。



 すると。



 キラキラと輝く朝の光の粒が。

 冷たい空気と一緒に口から入り込んで。


 胸をキラキラでいっぱいにして。

 あたしを幸せにさせた後。


「おはよう、穂咲」


 そのままきゅっと。

 ハートの形に固まって。

 胸の奥のところに。

 ころんと音を立てて転がり落ちた。



 ……失敗しないように。

 いつもと同じように。



「おはようなの」

「おばさんは?」

「もうちっとかかりそうなの。……道久君とこは?」

「父ちゃんも母ちゃんも、パスポート切らしているので今回はパスだそうです」


 白いカットソーにグレーのYシャツ。

 少し微笑んだ口元からは。

 片方だけ、白い犬歯を輝かせて。


 道久君が、親指を向けるお庭には。

 薄紫の小花が群れ咲くシャボンソウが。

 朝露に、こうべを垂らしてこんにちは。


 その花言葉のように。

 賢明な行動をとらないと。


 そうしないと。

 道久君は気付いてくれないから。



 か弱い乙女が。

 胸に秘めた本当の気持ちには。



 ……あたしは、大きなピンクの旅行カバンを引きずりながら。

 割り石をよろよろと歩き出す。



 失敗しないように。

 いつもと同じように。



「夏の定番ですね、真っ白なワンピース」

「似合う?」

「ええ、お似合いなのです」


 道久君は、いつもの無表情で。

 感慨も無さげに言うけれど。


 ……違うの。

 ワンピースじゃなくて。

 気づいて欲しいものがあるの。


 あたしの気持ちと。

 おろしたて。


 道久君は、なんとなくパパみたいに頭を掻きながら。

 他に何を話したものかと考えあぐねているようなので。


「よいしょ。よいしょ」


 あたしは、ちょっとわざとらしく。

 靴音を軽やかに立てながらバッグを引っ張ると。


 ようやく道久君の目が。

 あたしの願いを見つけてくれた。


「靴もいい感じなのですが……、おろしたてで歩くの大丈夫ですか?」


 靴。

 あたしの鎧。


 褒めてくれてうれしくて。

 心配してくれてうれしくて。


 ドキドキする。



 でもね。



 ………………それ、ハズレ。


 

「むう! 心配されなくても平気なの!」

「ああ、はいはい。……絆創膏、こっちのカバンに入ってたよな」


 そんなことを言いながら。

 カバンをあさる道久君。


 靴ずれなんかしないよ。


 相変わらず。

 どうしてあなたはそんなに鈍感なの?


「違うの! そうじゃなくって!」

「ん? どうしたのです? まるでズキンアザラシみたいに膨れてますけど」


 なんで気付いてくれないの?

 なんであたしが言わなきゃいけないの?



 急に切なくなって。

 かくんと首を落としたら。


 真っ赤なおろしたてが。

 がんばれと。

 あたしの背中を押しました。


「……道久君、鈍感なの」

「…………それ、いまさら確認必要なのです?」

「今日のあたしの推しポイントは、そこじゃないの」

「君の推しポイントは難問すぎて。当てられた試しがないのです」


 いつものように。

 道久君が、頭を掻くから。


 あたしも。

 いつも通りを取り戻す。


 白いお日様は薄雲の向こうに滲んで。

 空全体をぽわっと光らす間接照明。


 心の中も。

 薄曇り。


 足元に落ちた冷たい湿気がゆっくりと浮かぶ。

 そんな速度に合わせて。


 道久君は、やれやれとため息をつきながら。

 降参とばかりに手をあげた。


「こういうの、質問する時点でいかがなものとは思うのですが。本日のスペシャリティはどこなのです?」

「もちろん、このおろしたてさんなの」


 あたしは、ふふんと自慢げに。

 大きな旅行カバンを指さすと。


 見る間に赤くなる道久君の顔。


「そんな引っ掛け問題あるか!」

「引っ掛けないの。これは引きずって歩くの」

「服とか髪とかだと思うのですよ、普通」

「普通じゃないからいち推しなの」


 いつも短気な道久君が。

 激しいツッコミからの野太いため息。


 でもね、あたしはこのカバンを。

 最初に気付いて欲しかったの。


「やだ! ほっちゃん!? どうしたのよ、そのカバン!」


 そして。

 ドアに鍵をかけながら。

 ママが先に気付いちゃった。


「そうなの。理不尽なの」

「ちょっと道久君!」

「……はあ」


 はあ。

 じゃないよ。


 どうしてそうなのかな、いつもいつも。


「ええと、これに気付かないことがそんなに悪い事?」

「当たり前でしょ!? なんでほっちゃんがカバン引きずってるの! 男の子でしょ! 持ってあげなさいよ!」

「うえええええ? そっち!? 違いますよね、穂咲!」

「違ってないの。あたしは最初っから、これを持ってほしかったの」

「学生カバンみたいに言わないで下さいよ! こんなでかいカバン、二つも持って歩けるわけないじゃないですか!」


 そして、ママが強引にあたしのカバンを道久君に押し付けて。

 あたしはようやく人心地。


 まったくもう。

 いつもいつも。


「……もっとすぐに気付かなきゃダメなの」

「おかしいのです! せめてこっちの肩掛けのカバンくらい持ってくださいよ!」

「それは、ママの旅行カバンと引き換えなの」

「…………こっちでいいです」


 憮然を下唇にぎゅっと詰め込んで。

 道久君が歩き出す。


 その背中を見つめながら。

 あたしは。

 ようやくほんとに。

 いつも通りを取り戻した。



 ……でも。

 今気づいたけど。



 そもそも。

 なんで面倒なことは道久君に押し付ければいいってルールになったんだっけ?




 ~🌹~🌹~🌹~




 急に決まった海外旅行。

 夢かうつつか。

 そんな浮遊感。


 でも。

 さすがにこの音が耳に入ると。

 実感がわくのです。


「飛行機って、どうして歯医者さんみたいな音するの?」

「歯医者さん?」

「歯医者さん」


 そんな音には聞こえませんが。

 まともに言ったところで反撃されるだけ。


 ならばうまいことを言って。

 ごまかしましょうか。


「椅子に座らされて、困ったことがあったら手をあげるのです」

「…………はっ!? 一緒なの!」

「なので、この音もおかしくありません」


 面倒なこいつを言いくるめて黙らせて。

 俺は、滅多に見ない景色を堪能します。


 ここは関西国際空港。

 世界への玄関口。


 笑顔とインテリジェンスが交錯する。

 近未来の縮図。


 そして。


 鉄の塊に揺られて降りれば。

 そこは文化も言語も。

 瞳の色まで異なる世界。


 信じられない事ですが。

 いまから何時間後かは知りませんが。


 俺は。


 日本ではない土地に立っていることになるのです。


 ……そう。

 いつもの廊下じゃない。

 ワンコ・バーガーの店先でもない。


 そんな場所に。


 立つ。


 なんという感動的な瞬間。

 記録に残さなきゃもったいない。



 よし。



 新学期が始まったら。

 自分で学級日誌に書き込んでおきましょう。



 ――俺のような庶民には憧れの。

 もっとも背伸びをした場所。


 そんな空間のど真ん中で。


 いつものように。

 いや、いつもよりさらに。

 ぼけっとした顔のこいつは藍川あいかわ穂咲ほさき


 そして顔ばかりか。

 頭までぼけっとしているのです。


「飛行機って、生で見ると意味がよくわからないの」

「ん? 意味?」

「なんで飛ぶの?」

「そいつを持ち出してきましたか……」


 旅行カバンの上に腰かけて。

 口を開けたまま。

 俺を見上げる穂咲さん。


 人生において。

 誰もが一度は口にする言葉。


 でも、残念ながら。

 俺に説明できるはずもなく。

 君に理解できるはずもないのです。


「車は理解できるのですけどね。飛行機はさっぱりなのです」

「苦手だもんね、物理」


 いつもはそんな言葉に。

 腹を立てるところなのですが。


 まーくんから教わった通り。

 勉強ができれば。

 飛行機の仕組みも分かれば。

 きっと、人生が豊かになることでしょう。


 もっと早くに。

 この言葉を聞きたかったな。


 そうすれば。

 きっと、今よりもっといろんなことで。

 笑える人生が待っていたはずなのです。


 ……いえ。

 今からだって遅くない。


 受験のためではなく。

 仕事のためでもなく。


 人生のために。


 俺は、勉強することにしましょう。


 まず初めは。

 これですかね。


「……穂咲。フランス語の問題出して?」

「そいつは無茶な相談なの。フランス語なんて、フランスパン以外に知らないの」

「それは英語です」

「…………どうしよう。それじゃあたし、フランス語が話せないチームなの」

「仮にフランスパンがフランス語だったとして、そんな装備でフランス語を話せるチームにいたことに驚きです」


 どうしようどうしようと。

 慌てふためく穂咲ですが。


 いまさらどうしようもないでしょうに。


 君のお隣りで、本を読みながら。

 落ち着き払ったおばさんを見習うのです。


「道久君! たたた、大変!」


 あれ? 意外と落ち着いていなかった?


「なんですおばさん? 落ち着いてください」

「落ち着いてなんかいられないわよ! この本に書いてあったんだけど、どうしよう、食事!」

「いいから落ち着い…………、は? 食事? それが何か?」

「ナイフを右手に持ったら、お箸を左手で持たなきゃいけないじゃない!」

「……ほんとに落ち着け」


 ナイフとフォークなんて。

 日本でもさんざんやってきたことでしょうに。


 俺はおばさんから。

 『オオサンショウウオでも行けるフランス旅行』

 という怪しい本を取り上げると。


「ほ、ほ、ほっちゃん! どうしよう!」


 珍しく。

 みっともないほど動揺し始めてしまいました。


 すると、珍しいことは重なるもので。

 今度は落ち着き払った穂咲が。


 おばさんの手を優しく握って。

 安心させる一言をつぶやきます。


「あた、あたしも、お、お、お箸を左手でなんか持てないの!」

「おまえもかい」

「どどど、どうしよう! トリュフのパスタ食べたかったのに!」

「あたしは本場のポタージュ食べたかったのに!」

「フォークとスプーーーーン!」


 これはヤバい。

 暗黒の未来予想図が目の前に突き付けられました。


 一体、この旅行の間。

 俺は何回突っ込むことになるのでしょう。


 できる限り。

 セーブして行かなければ。

 疲れ果てて倒れてしまうのです。


「道久君!」

「絶対突っ込みませんよ、おばさん」

「おばさん、マカロンも食べなきゃいけないのに!」

「素手で行け!」

「あたしは、ザッハトルテも食べたいの!」

「それも素手で行け! そしてフランスじゃない!」


 ああもう!

 あっという間に三回も!


 さすがに天を仰いで。

 心を落ち着かせている間に。


 ふと、小さな気配を感じて視線を落とせば。


「おや? ……フランスからのお客様?」


 フランス人形そのまんま。

 お花のスカートに。

 フリルの帽子が可愛らしい女の子が。


 狼狽する二人を見上げて。

 心配そうに、声をかけているのです。


 これにはさすがのお二人も。

 照れくさそうに、嬉しそうに。

 女の子へお礼を言おうとして……。


「そして口を開いたまま停止ですか」


 はたして、この脂汗コンビ。

 大丈夫よと。

 ありがとうねと。

 フランス語で言えるのでしょうか?


「ナ……、ナポリタン!」

「ススス、スイートポテト!」

「…………どっちも日本生まれです」


 撃沈でした。


「それにしても、この子はいったい?」

「慰めに来てくれたのよ」

「心配してきてくれたの」

「そうではなく。親御さんは?」


 辺りを見渡しても。

 それらしい方はいないのです。


 ……などと考えている間にも。

 フランス人形のような女の子が。


 きょろきょろと、誰かを探しながら。

 泣きそうな顔をするのです。


「あちゃあ、お母さんからはぐれたのでしょうか? ……あなた方へ親切に声をかけて下さったせいなのです。頑張って探してあげなさい」


 俺が二人へはっぱをかけると。

 役立たずな方は、携帯でフランスの地図を出し始め。

 ちょっとは役に立つ方は……。


 いえ。


 母親経験者は、躊躇なく女の子を肩車すると。


 フランス語で。

 大声をあげるのでした。



「こ……、か……。ベ、弁当ーーーー!」

「確かにフランスでも通じますけど! そのチョイスは無い!」


 この呆れた大声に気付いた人が。

 さらに大きな声で周囲に呼びかけると。


 遥か彼方から。

 明らかにこの子のお母さんと思しき方が駆け寄ってきたのです。


 そして涙の再会に。

 言葉も分からないはずなのに。


 お礼と。

 良かったねという会話が成り立って。


 手を振ってお別れする頃には。

 すっかり仲のいいお友達になっていたのです。



 …………うん。


 心配ない。



 この二人となら。

 きっと素敵な旅行になる。


 そう確信した俺のポケットから。

 ようやく、出発進行の合図。


 頼れるホスト役からの着信に。

 俺は、清々しい心地で応答します。


「まーくん、遅いのです。もう、十時回ってますよ?」

『なに言ってるんだよ、待ち合わせ場所も言わないで出かけやがって!』

「え? そうでしたっけ?」

『今、どこにいるんだ? 家に戻ってるのか?』

「もう空港ですよ」

『……は?』


 は?

 ではありません。

 はやいとこ来てください。


「家から二時間もかかりました。ここから目的の池までどれくらいかかるのでしょうか」

『……二時間半ってとこだな』

「へえ! さすが飛行機。フランスまで、あっという間なんですね」

「いや。褒めるんなら、電車を褒めてやってくれ」


 ん?

 電車?


 ……何の話?


「ええと、なにやら不穏な感じで、聞くのが怖いのですけど」

「奇遇だな。俺も言うのに抵抗がある」

「……このあと我々は、どこへ行けばいいのでしょう?」


 たっぷり十五秒。

 コマーシャル一本分の間を置いて。


 携帯の向こうから聞こえて来た声は。



『ここはあたしの凱旋門!』



「…………その、ハンバーガーを売っているフランスに行けばいいのですね?」

『いや。フランスからドーバー海峡を渡った向かいの家に来い』

「ちなみに、そのイギリスから、車でどれくらいの所に池があるのです?」

「三十分。さっき言ったじゃねえか」

「ええ、そうですね。二時間半って、確かに言いましたね」



 ……信じがたい。



 でも、気にはなっていたのです。


 まーくん、この池の場所について。

 何か言おうとしていましたし。


 それにしても、三十分?

 美術館とか。

 そういう事なのでしょうか。



 やれやれ。

 この夏は、空回りばかりでしたが。


 これは最大の勘違い。


 ……さて、そんな勘違いの。

 ツケを払わなければいけませんね。



 ウキウキとしながら携帯でフランス語を確認して。

 わざわざ買ったのでしょうか、フランスの旗模様のハンカチで遊ぶ二人を。


 どう納得させたものか考えながら。

 俺は、電話を切ったのでした。



 ――初めての海外旅行。

 しかも、おじさんの思い出を探す旅。


 そんなチークで頬を赤くさせた。

 いつもより可愛らしい幼馴染に。

 俺は、覚悟を決めて近付くと。



 穂咲は。

 何も知らない穂咲は。



 白いワンピースをくるりと広げて俺に向き直り。


 フランスの旗を。

 両手でつまんで。


 そこから、ぱあっと笑顔を覗かせながら。

 覚えたてのフランス語を披露するのでした。


「道久君!」

「…………はい」

「スパシーバ!」


 その無垢な笑顔を。

 曇らせたくはないけれど。


 伝えなければいけません。


 俺は、無言のまま。

 フランスの旗を。

 横向きに持たせてから返事をしたのでした。



「…………ピロシキ」


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