いつか扉をたたく日が来ても

三角海域

いつか扉をたたく日が来ても

 駅を出ると、風に乗って潮の香りがした。

 熱気を多分に含む空気と、長い道。その先に、その香りの元である海がある。

 照りつける太陽の下を、ゆっくりと歩き出す。

 平日ということもあって、そこまで人は多くなかった。

 少し歩くだけで、汗が噴き出る。やっぱり、夏に出歩くものじゃないなと思う。というか、今までの私だったら、今頃は冷房の効いた部屋で、映画を観ていただろう。

 暑さで少しぼんやりする意識の中で、「告知」の瞬間がフラッシュバックする。

 死ぬのだと言われた。

 とんでもなく進行が速い病気にかかってしまったらしく、もうどうしようもない所まで来てしまっていると。

 なんだか気持ちが悪くて、吐いてしまったから、医者にかかっておくかくらいの軽い気持ちだった。それがいきなり、余命宣告になってしまったわけだ。

 はっきり言って、自覚はない。しばらくすると症状が出始めると言われたけれど、今はこうして普通に生活できている。

 間違いだったんじゃないか。そう考えたりもするけれど、やっぱりそれは覆りようがない事実で。

 あと数日で、入院することになる。親にはまだ病気のことは黙っていて、入院のタイミングで明かそうと考えている。気が重いけれど。

 入院の前に、何かやっておきたいと思った。

 けど、何を?

 あれこれ考える。

 日記だとか、メッセージを録音するだとか、色々と思い付きはするけれど、なんだか湿っぽい。

 誰かに忘れないでいてほしいから、そういうものを残すのだろう。けど、私は、私の周りの人にはすぐに私の存在を忘れてほしいと思う。もちろん、無理だろうとは思う。私自身、誰かの死に触れれば、それを忘れることはできない。

 けど、私は死ぬんだ。この世から消えるんだ。どれだけ私のことを忘れずにいてくれる人がいてくれたって、私はそれを知ることはできない。

 なら、私が最後にするべきことは、私自身のために、やりたいことをやることだろうと思った。

 私が好きなことってなんだろう。

 そう考えた時にまっさきに浮かんだのが、映画だった。

 映画でも撮る? いや、そんな時間はない。

 じゃあ、映画をひたすら観まくる? それじゃいつもと変わらない。

 あれこれと考えながら、映画のソフトを並べてある棚を見つめる。その中の一本が目に留まった。

 そうだ。

 私はパソコンを開き、海の画像検索をする。

 外国は論外。あんまり遠いのも嫌だ。死を目の前にしても、出不精な気質は変わらないのだなと少しおかしくなる。

 どれくらい調べていただろうか。

 目が疲れて、眠くなってきた頃。

 ようやく、ここならという海を見つけた。

 そして、私はその海を見に出かけたというわけだ。

 長い道を歩く。まだ海は見えてこない。

 荷物は少ない。泳ぐ気はないし、どこかに泊まる気もない。海を見たら、さっさと帰る気でいた。

 だから、荷物と言えば、財布やらをいれてあるバックと、ある目的のために購入したいくつかのものが入った袋だけ。身軽なものだ。

 日差しが強い。まだ海は見えないのだろうか。

 暑い。休みたい。インドア人間には殺人的な暑さだ。まあ、どのみち死ぬからここで死んでもあんまり変わりはしないけど。

 でも、歩く。海が見たいという欲よりも、他の目的のほうが、私の足を前へと進めていた。

 そうして、なんとか少しずつ歩き続けていたら、見えた。

「海だ」

 言葉が口からこぼれ出る。

 熱気を孕んだ風が、ひとつ吹いた。

 さっきよりも濃い潮の香りがした。



 日陰になっているベンチに座り、ぼんやり海を眺める。

 疲れた。目的を果たそうとしたが、なんだか疲労が強すぎてやる気が起きない。

 ベンチに寝転がり、目を閉じる。暑いのは変わらないけれど、日陰になっているだけで結構変わるものだ。

 このまま目が開かなかったら。

 そんなことを妄想する。

 目を閉じると、そこは暗闇の世界だ。肌に感じる熱も、うるさく鳴く蝉の声も、なんだか、闇にまぎれて遠のいていく。

 そうか。私、死ぬんだな。

 改めて、そんな風に考える。

 そうか、死ぬんだ。

 暑いな、疲れたな。

 どうして死ぬんだろう。

 どんどん意識が暗闇に沈んでいく。

「ちょっと、大丈夫?」

 沈みゆく意識を引き上げたのは、誰かの声だった。

「いくら日陰だからって、こんなところで寝てたら熱中症になるわよ」

 目を少し開けてみる。そこには、私の顔を覗き込む女性がいた。

 ぱっと見きつい印象。でも、それはむしろセクシーというか、いい意味での印象だった。かっこいい系の女優さんみたいな空気を纏っている。

「ちょっと、本当に大丈夫?」

「シャーリーズ・セロン」

「は?」

「うーん。若い頃のシャロン・ストーン? どっちだと思います?」

「ああこりゃだめだわ。完全にあれね、熱にやられてるわね」

 心配と呆れが混ざったかのような声で、その女性は言う。

「飲み物とか持ってないの?」

「一応ありますけど」

「水? お茶? なんでもいいけど、まずは何か飲まないと」

「そこの袋に……」

 私はベンチの下に置いてある袋を指差す。

「うん」

「テキーラがあります」

「なんで!? この超炎天下でなんでそれをチョイスしたのあなた!?」

 表情がころころ変わる。面白い人だなぁ。

「ちょっと待ってて」

 女性はそう言って駆け出すと、すぐに戻ってきた。どうやらすぐ近くの自販機でスポーツドリンクを買ってきてくれたらしく、軽く息が上がっている。かなり急いでくれたらしい。

「あの、いい人ですね」

 スポーツドリンクで喉を潤し、私は言う。

 なんだかんだいって喉は乾いていたようで、身体が少しだけ潤ったように感じる。

「そりゃ、あなたみたいな華奢な女の子がぶっ倒れてれば心配もするでしょ」

「別にぶっ倒れてたわけじゃないですよ。本当に、ただ寝てただけなんです」

 寝転がりながらだと飲みにくいので、私は起き上がり、普通にベンチに腰掛けた。

「大丈夫なの?」

「はい。本当に体調を崩したわけじゃないんです。ありがとうございます」

 まあ、あともう少しで悪くなるのだけど。

「……」

 女性がじっとこちらを見つめている。

 やっぱり、とても綺麗な人だ。

「ねえ」

「はい?」

「少しお話しない?」

「なんでです?」

「私があなたと話したいと思ったから」

 えらく直球だな。でも、まあいいか。どうせ、目的といっても、そんな大したものがあるわけでもないし。

「いいですよ」



「それでね、こんなこと言われたわけ……」

 女性は、自分の事をばーっと話していた。けど、それは退屈な自分語りとかではない。それらはネタとして、聞き手である私を楽しませるためのトークだった。

 日陰とはいえ、熱気が蔓延するこの夏空の下、私は笑いっぱなしだった。笑顔と一緒に汗も噴き出てくるけど、あまり気にならなかった。

「さて。私のお話はこれでおしまい。次は、あなたのことを聞かせてくれない?」

「私のこと?」

「そう」

 女性はそう言って、私を見る。真っすぐだった。向けてくる視線も、語る言葉も、どれも真っすぐな人だ。真っ当というより、真っすぐな人。

「面白くないですよ」

「構わないわよ。私が聞きたいだけだもの。それに、聞いてみなくちゃわからないでしょ?」

 話すこと。なんだろう。何かあったかな。そんなことを考えていると、女性は「なんでもいい。あなたが話したいと思うことを話してくれればいいの」と言う。

「私は、ここにいて、それをちゃんと聞いているから」

 何かが揺れた。視界? 暑いから? いや、違う。

 私の中で、何かが。きっと、心が揺れたんだ。

 それがわかると、自然と言葉が口からこぼれ出た。

「死ぬってどういうことなんでしょうか」

 いきなり、そんなことを言ってしまう。

「私は死んだことがないから、ちゃんとした答えは返せない。ごめんなさい」

 なぜか謝られてしまう。変な質問をした私の方が悪いのに。

「けど、やっぱり悲しいことだと思う。死んじゃうっていうのは」

「私もそう思います。けど、わかんないんですよ。だって、どのみち死んじゃうんです。好きなことをやって、好きな人と一緒に過ごして、ありがとうを伝えても、絶対に死んじゃうんですよ。大好きな映画をたくさん観たら、もっともっと映画が観たいって思う。好きな監督の最新作だってまだこれから公開なのに、それも観れない。好きな人にありがとうを伝えたら、もっと一緒にいたいって思う。どうして私だけ、ここからいなくなるんだろうって思っちゃう」

 早口にまくし立ててしまう。でも、止まらない。止められなかった。

「消えちゃうんです。全部消えちゃうんですよ。でも、どんな風に消えるんですか? 答えられる人なんていないんです。私は、私は……」

 息が上がる。なんだか、寒い。さっきまであんなに暑かったのに。

「怖いんです」

 涙があふれ出てきた。情けないくらいに大声で、私は泣き出してしまった。

「話してくれてありがとう」

 女性は優しくそう言って、私のことを抱きしめる。

「汗かいてますよ」

「そうね」

「鼻水つきますよ」

「そうね」

「いきなり泣き出すやばいやつですよ。放っておいたほうがいいです」

「そう? 別にいいじゃない。いきなり泣きたくなったんなら泣けばいい。それに言ったでしょ? 私はここにいて、あなたの話を聞くって。だから、放っておかない」

 抱きしめる力が、一瞬強くなる。

「私は、ここにいるから。大丈夫」

 その言葉が、声が、あまりにも優しくて、私はまた泣き出してしまった。



「すいません。いきなり」

 どれくらい泣いていたんだろう。日が落ちかけている。夕暮れの綺麗な橙と、影ができ始めている海と砂浜。昼間よりも、今の方が美しく感じる。

「気にしないで。それに、そうして澄ましている時も可愛いけど、ああやって泣いてる姿も魅力的だったから」

「気障なナンパみたいですよ」

「そうよ。だって口説いてるんだもの」

 あっけらかんとそんな事を言う。

「変な人ですね」

「世の中が真面目過ぎるのよ」

 私たちは笑い合う。

 恐怖心が消えたわけじゃない。けど、今は少しだけ違う。ちゃんと話そう。怖いと伝えよう。そう思えていた。

 足元に置いた袋から、テキーラを取り出す。

「本当にテキーラ持ってきてたのね」

「テキーラだけじゃないですよ。テキーラを飲むなら、レモンと塩が欠かせないんです」

 レモン一個と、塩の袋を取り出す。

「へえ? 通なのね」

「まあ飲んだことないんですけどね」

「え?」

 女性の疑問を含むそんな声を横に、私は塩の袋に穴をあけて指をつっこみ、塩をまとわせる。

 あ、テキーラを入れるコップ……まあいいか。

 塩をひと舐めして、栓をあけたテキーラをそのままあおる。

「ちょっ……大丈夫なの?」

 間髪入れず、私はレモンを噛んだ。

「んんん……! まずい!」

 美味しくない! そもそもお酒がそんなに好きじゃないのに美味しいわけがないのだ。

 そんな私を見て、女性はお腹を抱えて笑った。

「あなた面白いわね」

「あなたには負けますよ」

 結局、テキーラはそのひと飲みだけで終わった。

 なんとなく間が出来て、私たちは海を見つめていた。

 あの映画と同じだな。そう思った。元々それが目的だけれど、ただ映画の真似をしただけでなく、あの二人が見たのと同じ海を見ている気分だった。国も違うし、全然雰囲気も違うけれど、同じ海だ。そう感じた。

「そろそろ帰ります」

 そう言いだしたのは、私の方だった。

「そう」

 女性は少し寂しそうに言う。

「また、会えたらいいわね」

 続けてそう言う。

「ですね」

 無理だろう。けれど、そう返す私の心は晴れやかだったし、それに、きっと女性もわかっているはずだ。その上で、そう言ったのだろう。

「嬉しかったです。お話聞いてくれて」

「こちらこそ」

「じゃあ、行きますね」

「ええ。またね」

「はい。また、会えたら」

 背を向け、歩き出す。どれくらい歩いただろう。振り返ると、まだ女性はそこいにいて、私の方を見ていた。

「知ってますか!」

 今まで出したことがないくらいの声で叫ぶ。

「天国じゃみんな海の話をするんです! だから、私はここに来ました! 海を記憶に焼き付けておきたくて! あの、でも、でも私はきっと! 海の話をする時、あなたのことを思い出します!」

 息が切れる。呼吸を整え、大きく深呼吸をする。

「ありがとう!」

 声が裏返る。けど、気にしない。大きく手を振ると、女性も大きく手を振り返してくれた。

 忘れない。一生忘れない。もう短い人生だろうって? 関係ない。忘れない。

 天国の扉をノックする日が来ても、決して。

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