ムジナ

神崎 ひなた

ムジナ(前編)

 俺、今年で三十路を迎えるんだけど、未だに山が怖いんだよ。夜、一人で車を走らせるのも怖くて、遠回りでも他の道を選ぶくらいだ。あと、ムジナってやつも、見る度にゾッとしちまうんだ。いい大人だってのに、情けない話だよ。


 こんな話をすると笑われるかもしれないけど、実は学生の時に体験した出来事が未だにトラウマになってるんだ。


 高校生のとき、俺には気のおけない男友達がいた。彼の名はSとしておこう。


 俺とSは、小学校から高校までずっと同じ学校に通っていて、いわゆる幼馴染という間柄だった。部活動も同じで、クロスカントリースキーなんてスポーツをやっていた。

 そのクロスカントリースキーってスポーツは、体力を使うんだよ。みんなが思い浮かべているような、ゲレンデを下るだけのお上品なスキーじゃない。下るだけじゃない、平地や登りも滑るスキーが、クロスカントリースキーなんだ。発祥は北欧の狩猟民だったかな? 雪の中でも狩猟できるようにと考案されたものが始まりらしいんだけど、それをスポーツへと昇華しちまったのがクロスカントリースキーってわけだ。(この話は本筋じゃないから端折はしょるけど、興味がある人はぜひとも調べてみてほしいな。おおよそ、まともな人間のするスポーツじゃないってのが分かってもらえると思うぜ)


 で、俺たちはそういうスキー競技の、部活動に所属していたんだ。大会では五キロ十キロのコースを滑るのが当たり前だし、ウィンタースポーツだけあって、競技環境がマイナス十度以下という過酷なものだから、夏場からきちんと体力づくりをしないといけない。

 俺とSは走るのが好きだという共通の趣味もあり、部活が休みの日は一緒にランニングをすることが多かった。もちろんガチで走ることもあったけど、平日練習の疲れを抜くための有酸素運動的な感じで走ることもあった。そんな時は、よく二人で、地元の行ったことが無い山奥を走ることが多かったんだ。


 その日も、俺とSは待ち合わせをしてランニングに出かけた。盛夏にしてはめずらしく曇り空が広がっていて、ランニングには絶好のコンディションだった。それで、普段よりも遠くに行けそうだなって話になって、地元でも一番深い山奥に行こうって話になったんだよ。それで槍玉にあがったのが「ムジナ山」だったってわけだ(念のために書いておくけど、もちろん仮称だぜ。この話を聞いて、本当に行ってしまう人がいたら寝覚めが悪いしな)。

 

 

 ムジナ山はその昔、わずかながら鉱物が採れたらしく、山の深くには、当時使われたトロッコのレーンが残っていたりするって聞いたことがある。俺とSは、ランニングを兼ねてそれを見に行くってことになった。


 俺もSも、ムジナ山の場所は知っていたから、走っていくのは簡単だったよ。部活の先輩や、コーチの悪口を言い合いながら国道を抜けて、林道へと進んでいく。そして十分くらい走ると、ムジナ山の入り口を示す看板が見えてくる。ボッロボロの木の看板でさ、「ムジナ山、注意」って文字だけが辛うじて見えるんだ。そんで道の端っこには、これまたボッロボロのお地蔵さんがたくさんある。


 その時点で、俺は「なんか変だぞ」とは思ってたんだ。田舎に住んでいる人間なら分かってくれると思うけど、山ってのはとっても賑やかな空間なんだ。鳥のさえずり、虫のさざめき、羽音、風の音、枝葉のぶつかり合う音、水の流れる音、それら全部がない交ぜになって、山という空間ができるんだと俺は思っている。でもムジナ山はそうじゃなかった。。鳥も、虫も、草も、風も、水も、みーんな静まり返っちまってるんだ。「ああ、俺たちはこの山に歓迎されてないな」ってのがすぐに分かった。でも、Sにはあんまり伝わってないみたいだったな。「どうした?」なんて爽やかに言い放って、そのまま走り続けようとする。


 まぁ、多少の違和感はあったけど一人じゃないし、Sの前で女々しいことを言ったらバカにされるのが目に見えていた。なにより俺は足に自信があった。なにかあったら逃げればいいさ、なんて程度に考えて、Sの後を追った。


「にしても、お地蔵さん多くね?」


 と、Sが言う。その時になって、初めて道路の脇の繁みに、お地蔵さんが大勢いることに気が付いたんだ。茂みに埋もれてはいるけど、常識では考えられないくらいたくさんあったな。そいつの顔、よく見るとみんなムジナの顔をしているんだ。


 ここでムジナを知らない人のために解説しておくと、アナグマってやつのことだよ。タヌキの仲間なんだけど、旧ザクみたいな顔してるのが特徴な。俺もよく見るんだけど、連中のシュッとした顔はどうも気味が悪くて好きになれなかった。そんな顔のやつが、びっしり並んでこっちを見てる。いま思えばゾッとしない話だよ。


「ムジナ山だからなのかな?」


 Sはへらへら笑いながら、何事も無かったようにコーチの悪口を言い始めたが、俺はもうそんな気になれなかったね。さっきから、やたらとのも原因の一つだったかもしれない。内心では早く帰りたいと思いつつ、生返事を返しながら走り続けた。


 それからさらに十分くらい走った頃だったかな? 今まで開けてた道が、急に鬱蒼うっそうとし始めて、舗装も途切れちまったんだ。なんだ? と思ったら、今度は道の脇にほこらがあるじゃないか――こんな山奥なのに、やたら綺麗な漆塗りをされていたから、今でもよく覚えてるよ。中を覗いてみると、やっぱりムジナの顔したお地蔵さんが、ご神体めいてこっちを見てる。


「なぁS、そろそろ帰ろうぜ」


 さすがに恐怖の限界を迎えた俺は、そう提言した。でも案の上、「お前、まさかビビっちまったのか?」なんて半笑いを浮かべて見せるS。


「ここまで来たら、奥まで行ってみようぜ。何があるのか気になるじゃん」


 その瞬間、Sは猛ダッシュで走り去ってしまった。ふざけてやっているのだろうが、気が気じゃなかった。冗談じゃないよ。こんな場所でたった一人置き去りにされたら怖いに決まっている。俺は、必死でSを追いかけた。


 ぐねぐねした砂利道だったな。どこからか水が流れているらしく、地面は軽くぬかるんでいる。腐った落ち葉の匂いが鼻を通り抜けた。進むにつれて道はさらに鬱蒼としていき、次第にはSの後姿を見失ってしまった。


「おいS! S! 一人で行くんじゃねぇよ!」


 俺は声を張り上げてみたが、返事はなかった。代わりに、「さわさわ」という風の音が答えた。おいおい、冗談にしても程があるぞ――俺はさらにスピードを上げ、砂利道を走った。


 目の前を、一匹のムジナが横切った。


「うわああああああっ!」


 みっともなく素っ頓狂な声を上げて足を止める。すると、ムジナもまたピタリと足を止めて、俺の方をじっと見つめた。ムジナの眼の周りは黒い毛に覆われている。そのせいか、眼の中には真っ暗な闇が広がっているようだった。俺はムジナの視線に足がすくんでしまい、一歩も動けなくなった。

 一分経っただろうか。それとも、五秒ほどだっただろうか? やがてムジナは「ひるひるひるひる……」と小さな鳴き声を挙げ、茂みに姿を消していった。その間も、山はずっと静かだった。


 心臓がばくばくしてたよ。思い返してみても、人生であんなに怖いことは無かったな。俺はもう泣きそうになりながら、何度もSの名前を呼んだ。自分がどこを走っているのかも分からなかった。とにかく前に、前に向かって走った。ぐねぐねとした砂利道を、何度曲がったか分からない。


 Sが、こちらを向いて立っていた。


「うおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」


 その時の俺と言ったら、もうぐちゃぐちゃだったね。鼻水とよだれまみれの顔面もそうだったし、恐怖と安心感が同時にせり上がってきて、なにが何だか分からなかった。どうにか急停止して、Sに激突せずに済んだ俺は、呼吸を整えるなり、やつの胸倉に掴みかかったんだ。


「ふざけんなよお前……」


 Sだって、俺が怖がっていたのはわかっていたはずだ。伊達に長い付き合いじゃない。冗談と本気くらい見分けられるはずだ。それなのに、Sは俺をおちょくるような真似をしやがったんだ。今だって、ニヤニヤしながらこっちを見てる。俺の反応を見て、楽しんでやがるんだ――そう思うと、やつに対する怒りが沸々と湧いてきたね。


「いい加減にしろよこの野郎! 本気で俺が怖がってるのくらい、分かるだろ!? やっていいことと悪いことがあるだろ! なぁ、俺の眼を見ろ! 俺は久々に本気で怒って――」


 Sは、もう笑っていなかった。。森は静かだった。親友の表情が、頬が、ゆっくり吊り上がっていく間、何の音もなかった。


「――――ひるひるひるひるひるひるひるひるひるひるひるひる」


 Sがそう笑った瞬間、俺はきびすを返した。そして人生で最高のスピードで走った。走って走って走って走って、やぶを掻き分けて、走って走って走って走って走って走って、転んで、起き上がって、また走って走って走って走って走って走って走った。走るっていうのが何なのか分からないくらい走った。その間、ずっと「ひるひるひるひるひるひるひるひる」という音が、背後から追ってきていた。


(もう嫌だ、勘弁してくれ! どうして俺がこんな目に遭わなくちゃいけないんだ!?)

 

 変貌したSを気にかける余裕など無かった。心臓など張り裂けてしまえ。こんな耳なんて聞こえなくなってしまえ。足だ、足さえあればいい。もっと早く動いてくれ、俺の足。だが、そんな願いとは裏腹に「ひるひるひるひるひるひるひるひる」という声は、ずっと追いかけてくる。


 そんな時間が五分続いただろうか、一時間続いただろうか? 足元から伝わる震動が、急に確かなものになった。砂利道から、舗装道路へと変わったのだった。


 Sが、祠の脇に立っていた。


「ぎゃあああああああああああああああああっ!」


 何がどうなっているのか、もう俺には分からなかった。道を引き返すことも出来なくなって、俺はその場にへたり込んでしまった。息ができず、唾が絡んで何度も咳き込んだ。そんな俺の肩に、Sはぽん、と手を置いた。


「ひっ――」


 そして、Sの口から出た言葉は―――





















「おい、どうしたんだよ!? 大丈夫か!?」

 


 



 

 

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