強きものは泣かないけれど、煙を吐く

ロジィ

強きものは泣かないけれど、煙を吐く

 小さいものは弱い。大きいものは強い。

 なのに、弱いものは必ずしも小さいわけではないし、強いものが大きいわけでもない。

 だって、ゴキブリはずっと昔から今も物陰に潜んでいて、現代に生きる私に悲鳴を上げさせるのに、映画で見た大きくて凶暴な恐竜はとっくに絶滅しているんだから。

 ドアの向こうから、がさごそと物音が聞こえた。

 パソコンの右下に表示された時刻は午後五時十八分。沙織がここに戻ってくるまで、もう少し時間が掛かるだろう。

 私とドアを一枚隔てた薄暗いリビングで、きっと美咲は本を読んでいる。


****


「憲吾さんが死んだの」

 淡々とした声で沙織が電話で知らせてきたのは、三ヶ月と少し前。突然の事故であっけなくこの世を去った、らしい。

 雨が降って肌寒い日だった。私のアパートの裏では、咲いたばかりの桜が雨に打たれてうな垂れていた。濡れて黒く染まったアスファルトに点々と散らばる花びらは、どこか夜空に浮かぶ星のようにも見えた。もしかしたら、その中の一つは憲吾さんの魂なのかもしれない、なんて思ったことを覚えている。

 七年前の結婚式で初めて会った人。近所に住んでいたこともあって、沙織とはときどき会っていたが、彼と顔を合わせ、言葉を交わしたことなんて数えるくらいだ。

友人の夫。それ以上でも以下でもない人だったが、それでも突然の死は衝撃だった。人は死ぬ。三十二歳の自分とは遠いところにあると思っていた常識に、するりと背中を撫でられた気がした。

 告別式で遺影を見て「ああ、そういえばこんな顔だったな」とどこかぼやけていた私の中の憲吾さんにようやくはっきりとした輪郭が与えられた。そんな自分が、悲しんでいる人たちの中で、ひどく薄情に思えた。

沙織は、私の顔を見て小さく笑みを浮かべた。そして、

「忙しいのにごめんね、千鶴」

 と、まるで待ち合わせのカフェに私が現れたみたいに言った。その隣で二人の娘、六歳になったばかりの美咲は、大きな目でじっと父親の遺影を見上げていた。

私は、きっと二人は悲しみと不安に溺れているだろうと思っていた。もしかしたら、朝も晩も泣き暮らしているかもしれないとさえ思った。これから先、彼女たちを守っていくはずだった大きくて強い存在が、波打ち際の落書きみたいに、さあっと消えてしまったのだから。

 なんとか励まさなくてはと、そんな二人に掛けるべき言葉をずっと探していた。

 それなのに、二人は泣いていなかった。あまりにも突然の出来事だったので、気持ちが追い付いていないだけなのかもしれないが、散歩中に知らない路地に迷い込んで「あら、どうしよう」みたいな顔をしている沙織と、その沙織のそばでじっとしている美咲は、なんだか私よりも薄情に見えた。

これから仕事も探さなくちゃ、と言う沙織に、

「私にできることがあったら何でも言ってね」

 そう声を掛けた。そこに社交辞令以上の気持ちがあったのは確かだが、そんな記憶も薄れた三ヶ月後になって、沙織が美咲と二人で私のアパートに現れるなんて、そのときは思いもしなかった。

 季節はじりじりと夏に近付いて、毎日のように「今年一番の暑さ!」なんて言葉がテレビから聞こえてくる。白のワンピースを着た沙織とTシャツにジーンズの私は、今年初めてつけたエアコンの恩恵を受けながらリビングで向かい合っていた。

 私たちが話している間、薄い水色のワンピースを着た美咲は、暑さをものともせずにベランダに出て、見慣れぬ景色を不思議そうに眺めていた。小さな足に履かれた私のサンダルはぶかぶかでひどく大きく見える。

 美咲とは、生まれて間もないころに会った(というより見た)きりだった。沙織が私と会うときは憲吾さんが面倒を見てくれていたので、大きくなった美咲を目にする機会がなかったのだ。だから、あのフニャフニャしていた生き物が自身の足ですっくと立ち、小さいながらも大人の自分と同じように動いているのを見て、おお、と感動を覚えていた。

「私が側にいられないとき、美咲のこと預かってほしいの」

 聞けば、沙織の実家は飛行機の距離で、しかも母親に持病があってこちらに来ることができず、憲吾さんの両親はずっと前に離婚して、お互いに新しい家庭があるのだそうだ。しかも沙織と憲吾さんは二人とも一人っ子で、つまりは身内に頼る相手がいないのだ。

 フリーのWebデザイナーという仕事柄、私はほとんどアパートに引きこもっている。であるならば、と沙織は私の言葉にすがることにしたらしい。

「面接なんかがあるときだけでいいの。もちろん千鶴の都合を一番に優先してもらって構わない。無理なときは諦めるから」

 お願い、と両手を合わせて拝むようにして沙織は言った。

 子どもの世話なんてしたこともないし、正直、面倒なことに巻き込まれそうで断りたかった。しかし、沙織の「今は、できるだけ一人にしたくないの」という言葉には反論しがたいものがあったし、「私にできることなら何でも言って」と口にした手前、そう無下にもできなかった。

 結局私は、沙織の仕事が決まるまでという条件で、それを了承した。

「美咲は強い子なの。あの子がしっかりしてるから、ほんと助かってる。だから私も頑張らなくちゃね。でも」

 ふ、と息をついて沙織は目を伏せた。

「それが、少し心配」

 どういう意味かと問う間もなく、沙織は美咲を呼び寄せた。ベランダから戻った美咲の額には、汗で前髪が貼り付いていた。沙織はそれを指先で軽く払い、ハンカチで汗を拭いてやりながら、私が聞いたことのない、甘くてどこか粘っこい声で話し掛けた。

「ママね、これからお仕事を探さなくちゃいけないの。しばらくの間だけ、美咲と一緒にいられないときは、この千鶴おばさんのお部屋で待っていてほしいんだけど、大丈夫よね? 美咲はいい子だもの」

 その言葉をどんなふうに、どれくらい正確に理解しているのか分からないけれど、美咲は特に表情も変えず、こくりと頷いた。

 その後、三人で沙織が手土産に持ってきたプリンを食べた。パティスリー・ド・ルナのプリン。駅前にある、可愛らしくデフォルメされたウサギがマスコットのケーキ屋だ。

 五年くらい前にオープンした小さな店だが、なかなか評判がよくて、休日にはちょっとした行列ができていることもあった。箱とプリンの容器には、蝶ネクタイを着けてにっこり笑ったウサギが印刷されている。

 薄黄色のつるりとした表面にスプーンを突き立てると、内側からどろりとした固体とも液体ともいえないものが溢れ出して、食べ進めるにつれて、ぐちゃぐちゃになっていく。

 奥に潜む茶褐色のカラメルは、とても甘いのに、どこかほろ苦さがつきまとう。

「あ、そうだ。ひとつだけお願いなんだけど、美咲がいるときは煙草、やめてね」

「ええ?」

 私が顔をしかめると、沙織はプラスチックの容器にこびりついたプリンとカラメルの残骸をかき集めながら、小さく肩をすくめた。

「いいじゃない。千鶴、ついこの前まで禁煙してたでしょ。それなのに男と別れたらまた吸い始めちゃうんだから」

「ちょっと。子供の前でそんな話やめてよ」

 美咲が視線を上げて私たちを見る。私が誤魔化すように曖昧な笑みを浮かべると、美咲はふいと視線をそらした。


****


 美咲が再び私の部屋を訪れたのは、それから四日後。

「今日、これから面接なの」

 沙織はグレーのスーツを着て黒のパンプスを履いて、わずかに緊張したようにそう言った。手にはパティスリー・ド・ルナの箱。

「これ、差し入れ。おやつに食べて」

「またプリン?」

「いいじゃない。美咲と憲吾さん、ここのプリンが大好きでさ。店の前を通るたびに買おう買おうってうるさかったんだから」

 ふぅん、と箱を受け取る。箱のウサギが相変わらずの笑顔でこちらを見つめている。その笑顔とは対照的に、美咲はどこか不満そうな顔をしていた。私のもとに一人で置いて行かれる最初の日だから、こちらもどこか緊張しているのかもしれない。

「じゃあ、美咲。ママ行ってくるから、いい子にしててね。七時くらいには戻れると思うから」

 美咲は不満そうな顔で、こくりと頷いた。一緒に沙織を見送って、二人で部屋に戻る。

「あー、じゃあ、私は向こうのお部屋にいるね。お仕事。一人で大丈夫?」

 再び頷いてぺたりと座ると、美咲はカラフルな花柄のトートバッグから本を取り出した。ページをめくろうとして、私を見上げる。その視線はなんだか存在を咎められているみたいだった。

「なんか飲む? それとも、さっきのプリン食べようか?」

 機嫌を取るように言った私の言葉に、美咲は、ちら、と壁に掛けられた時計に視線を向けて言った。

「まだ一時すぎだよ。おやつは三時になってからってママが言ってた」

 あ、そう。六歳に叱られる三十二歳。これは、なかなか前途多難。


****


 しかし、実際に預かってみると、美咲はおそろしく手の掛からない子どもだった。私が寝室を兼ねた仕事部屋で作業している間、リビングで大人しく本を読んだり、絵を描いたりしている。ときどき、アニメのDVDなんかを見たりもしているようで、聞き覚えのある歌や音楽が聞こえてきて、思わず私もパソコンの画面を見ながら口ずさんだりもした。

 六歳ながら簡単な漢字はだいたい読めるらしく、私の部屋にある本に手を伸ばすこともあった。

 沙織に聞いたら、

「ああ、憲吾さんがよくいろんな本を読み聞かせしてたから、それで覚えたんだと思う。きっと、そのうち私より物知りになっちゃうわ」

 と言っていた。

 毎日預けられるわけでもないし、私は美咲がいる時間の大半、仕事部屋にこもっている。

 だから、三時になって、いつも沙織が持ってきてくるプリンを二人で食べることが、唯一と言っていい、私と美咲との関わりだった。ドアを隔てた同じ空間にいて、二人で沙織の帰りを待つ。ただそれだけ。思っていた以上に生活に支障はなく、負担もなかった。

 しかし、ドアの向こうに自分以外の生物がいるという事実は圧倒的だった。小さな息づかいがすぐそばから聞こえてくるような、私より高い体温がじわじわと迫ってくるような、そんな感覚があった。その感覚だけが、私の生活の変化だった。

 仕事が一段落して、胸ポケットの煙草に触れる。くわえかけた瞬間、あ、と思う。

 そうだった。軽く舌打ちをして箱に戻す。これも、私の生活で変化したものの一つだった。

 見えないところで吸うのは構わないだろう、いやいや強引とはいえ約束した以上は守るべきだ、と逡巡する。 

 でも、別に吸わなくたって平気だ。だって私がまた煙草を吸い始めたのは、別れた達也へのあてつけ、みたいなものなんだから。


****


 達也との出会いは知り合いの紹介という、ごくありふれたものだった。にこにこ笑って、誰とでもすぐ仲良くなって、優しいけれどちょっと優柔不断。そんな彼に惹かれた理由なんて今でもまったく分からない。

「好きな女性には煙草を吸ってほしくないな」

 そんな言葉を真に受けて、私は達也と付き合い始めてからすぐに煙草を止めた。

 しかし、一緒にいる時間が増えるにつれ、彼の優柔不断っぷりが私をイラつかせることが多くなった。どこへ行くか、何を食べるか、何をして過ごすのか、いつ会うのか、彼は全ての判断を私に委ねた。「なんでもいいよ」が彼の口癖。そして、気が付けば「私はあなたの母親じゃないのよ」が私の口癖になっていた。達也はそんなときでもにこにこしていた――のに。

 ある日、達也は突然私の部屋にやってきて、同じように突然「別れよう」と言った。理由は同僚の「まみ」だか「ゆみ」とかいうなんだかやたらと柔らかそうな名前の女。

 達也は私に向かって言い訳がましくその女の話をした。

 その女は、なぜか女性陣に一方的に誤解され、避けられて悩んでおり、そのせいで仕事のミスも重なって、ますます孤立。それを達也がフォローして、その流れで話を聞くようになり、頼りにされ……ということらしい。

 最近デートをしていても、電話が掛かってきては「仕事のトラブルで」と中断されたり、誘い自体が断られたりしていたのはそのせいか、と合点がいった。

「彼女は弱いから、僕が支えてあげなくちゃ。いつも泣いて、僕のことを待ってる。一人にはしておけない」

 私は、きっとその女を避けている女性陣は誤解なんてしていないよとか、恋人がいる男の前で泣ける女は、達也以外の男の前でも泣けるよとか言おうとした。しかし、私の口からこぼれたのは「あ、そう」という自分でもびっくりするくらい可愛げのない言葉だった。

「やっぱり、千鶴は強いね。きっと僕なんかいなくても大丈夫」

 そう言いながら、達也はにこにこと笑っていた。

 彼が帰って、私は久し振りに煙草を吸った。ずるいと思った。その女ではなく、達也が。

 その女に惚れたのも達也のくせに。私と別れたいと思ったのも達也のくせに。その責任を女と私に押し付けて、自分はちっとも汚れようとしないなんて。にこにこ顔の優柔不断男。自分の選択に責任を持てない、ずるくて最低な男。

 悪態と一緒に煙を吐く。胸が重いのはきっと久し振りのニコチンのせい。

 好きになった理由なんて分からない。けれど、ずっと一緒にいたいと思ったから私は煙草を止めたのに、それだけじゃ足りなかったみたいだ。

 彼女は弱いから一人にしておけない。千鶴は強いから大丈夫。

 だったらどうして、今の私はこんなにも心と体が微妙にずれてしまったような、そんな歪んだ感じがするんだろう。

 懐かしい煙草の味は、どこまでも苦くて、ほんの少し私を汚してくれた。


****


「あ、また暗いところで本読んで。目が悪くなっちゃうんだよ」

 美咲は集中すると気が付かないのか、暗くなっても電気をつけないまま本を読んでいる。私も沙織もそのたびに注意するのだが、一向に改善されない。

 見ると、テーブルの横にお絵かき帳が転がっていた。大人の男女と小さな子ども、三人の絵。その大人の男女には憲吾さんと沙織の、そして子どもには美咲の面影が見て取れる。「これ、パパとママと美咲ちゃんの絵?」そう言って拾い上げると、驚くほどの俊敏さと強さで美咲が私の手から奪い取った。

「だめ」

 お絵かき帳をぎゅっと抱きしめて私を睨みつけた。その視線の強さに思わずたじろいでしまう。しん、と静かになった部屋でコオォという音が耳につく。エアコンの風が私たちの体の熱をわずかに奪った。

「ごめん。見せたくないならいいよ。でも、ママには見せてあげたら? きっと喜ぶよ」

「ママには、秘密」

 そう言って、美咲はお絵かき帳をトートバッグにぐいと押し込んだ。その勢いで、カラフルな花が踏みつけられたように不格好にねじ曲がった。

 しばらくすると沙織が迎えに来て、二人は帰っていった。一人に戻ると、なんだか部屋ががらんとしたように感じる。いつも通りに戻っただけなのに。

 そばで聞こえたはずの息づかい、私に迫ってきたはずの体温は消えていたけれど、その痕跡は、ざわざわ、さわさわと私に聞こえない音を立てているように思えた。

 美咲は手の掛からない子。

 父親が突然亡くなっても、母親が仕事を探すために自分を預けていなくなってしまっても、美咲はただじっと待っている。ほとんど会ったこともない私の、来たこともないこの部屋で。薄暗いリビングで。


****


三時になって、いつものように美咲と二人でプリンを食べる。

「プリン、好きなの?」

「ママは、私が好きだって言う」

「え、じゃあ本当は好きじゃないの?」

 私の問いに、美咲は首を横に振った。プリンを食べ終えて、トートバッグから本を取り出す美咲に、私は声を掛けた。

「この間の絵、上手だったよ。どうしてママには秘密なの?」

「ママが悲しむから」

 そう言って美咲は私をじっと見つめた。

「だから見せない。秘密」

 その視線にあるのは強さだろうか。

 煙草の煙と薄暗いリビング。

 私たちは、ほんの少し自分を汚して傷付ける。そうすれば、私たちのどこかで疼いている何かを誤魔化すことができるから。

 それが強さなら、なんてくだらないんだろう。

 ゴキブリが生き延びて、恐竜が絶滅したのも当然だ。私に悲鳴を上げさせて、みんなに忌み嫌われるあの黒々とした存在は、ジェット噴射の殺虫剤なんかじゃ絶滅させられない。

 私から達也を奪った女はきっとろくでもないんだろう。それでも、泣いてすがることもしなかった私よりずっとましだ。 

 強さなんてくだらない。それも、とんでもなく。


****


 ドアを開けると、思った通り、美咲は薄暗いリビングで本を読んでいた。

 私が煙草をくわえると、美咲は驚いたように顔を上げた。「どうしたの?」そう言って火を点けた。

「ママと、約束してたのに」

「そうだね。だから、これは秘密」

 煙を吐き出しながら答える。美咲はその煙を避けるように顔を伏せた。しかし、ページをめくるはずの手は動かない。「ねぇ」呼び掛けると、私を見た。薄暗いリビングで、その大きな瞳はぬらりと光って見える。

「私の秘密を守ってくれるなら、美咲の秘密も守ってあげる」

 煙草を吸ってる間のことはぜーんぶ秘密、ママには絶対に言わない。そう言うと、美咲は警戒するように全身をわずかに緊張させた。

「嘘じゃないよ。だって、私も沙織に喋られたらマズいんだから」

 美咲は再び視線を本に戻したが、その目はもう文章を追っていなかったし、両手は本の上で力なくだらりとしていた。小さな唇が、何か言いたげにわずかに開いたまま、浅い呼吸を繰り返している。

 早くしないと吸い終わっちゃうよ、と言いながら、私はしゃがみ込んで美咲と目線を合わせた。子ども特有の柔らかそうな皮膚の切れ込みの中にある黒々と濡れた目。どこまでも深く、遠く、透き通った、そんな目が私を見ている。その奥にあるのは、きっと強さだ。

でもね、美咲。強さって、くだらないんだ。それも、とんでもなく。胸の内でそう呟く。

「泣きなよ」

 その言葉が合図だったかのように、美咲の目からつっと一筋の線が走る。同時に、ぐにゃりと顔がゆがんで、ぽろぽろと涙が溢れた。

「こんなとこ、来たくない」

 涙と一緒に美咲の言葉が零れてくる。魔法みたいだった。黒く大きな目は、ぎゅうっと細く小さくなって、透明な雫を次から次へと生み出していく。

「ママと一緒にいたい。留守番なんてしたくない。いい子って言ってほしくない。一人にしてほしくない。プリンは好きだけど、たまにはゼリーがいい。果物がいっぱい入っててキラキラしてキレイだから」

「そっか」

 美咲はしゃくり上げながら、袖口で何度も涙を拭った。爆発させた感情を吸い込むように、肩で大きく息をする。

「パパに、会いたい」

 小さく、絞り出すような声で、ぽつりとそう言うと、また美咲の目から大量の涙が溢れた。

「パパに会いたい」

 フィルターぎりぎりまで短くなった煙草を吸い込んで煙を吐く。コオォ、とエアコンの音。その風が姿なき煙を殴りつけ、粉々にして部屋中に散らした。

「そっか」

 私の体を通る煙は、苦くて、甘くて、やっぱり苦い。


****


 夕方、迎えに来た沙織は、部屋に漂う煙草の匂いにも、泣き疲れて眠った美咲の赤く腫れた瞼を見ても、何も言わなかった。眠っている美咲の髪を軽く撫でて、私に「ちょっとベランダに出ない?」と言った。

「あ、サンダルひとつしかないよ」

「いいよ、別に」

 沙織はストッキングを履いた足でベランダに出た。私もそれに倣って裸足で出る。日中、太陽に熱せられたコンクリートは、日が落ちた今ではほんのりと心地よい温かさだ。細かい砂利や砂がちくちくと足の裏を刺して、なんだかくすぐったい。

「一本ちょうだい」

 沙織は、私の胸ポケットから手品師みたいに鮮やかに煙草とライターを奪い取ると、慣れた手つきで火を点けた。深く吸い込んで、色を失いつつある景色に向かって大きく煙を吐く。

「結婚してやめたんじゃないの」

「一本だけだよ」

 二人で黙って煙を吐き続ける。目の前の景色は少しずつ黒に落ちていく。ぽつり、ぽつり、明かりが灯って、世界が夜に染まるのを拒んでいるように見えた。「仕事、決まりそう」と沙織が言った。

「そう、何の仕事?」

「保険の外交員」

「ええ? なんでまた」

「憲吾さんの知り合いが紹介してくれたの。それに、未亡人ってのがいいんだって。夫に突然死なれて幼子抱えて途方に暮れました、保険って大事ですよって。説得力が違うでしょ」

 逞しいことで、と少し笑った。

「こうじゃなきゃ、やってらんないよ」

 沙織も笑った。

「たまにさ、煙草吸いに来なよ。美咲ちゃんには内緒にしてあげるから」

「あはは、ありがと。でも大丈夫。これが最後」

 ふと、プラスチックの容器にこびりついたプリンとカラメルの残骸をかき集めていた沙織の姿を思い出す。

 沙織がいつも買ってきてくれるあのプリンには、沙織と憲吾さんと美咲、三人の思い出があるんだろう。

 ――ママ、今日も買っていこうよ。ええ、この間も食べたじゃない。いいじゃないか、なぁ美咲。やったぁ、さすがパパ。もう、しょうがないんだから。

 美咲の描いたあの絵に、私の想像した三人の会話は寸分違わずぴったりと嵌まった気がした。

 憲吾さんが死んで、沙織は泣いたんだろうか。

 私の隣で白い煙を吐く沙織の横顔を、私はよく知っていたし、それと同時に全く知らなかった。

 残された甘い記憶と苦い記憶の欠片をかき集めて飲み込んで、薄いストッキングを履いた足で、大きくて凶暴な恐竜が絶滅した世界を踏みつけて立っている。

 強さって、とんでもなく、くだらない。でも、そう悪いもんでもないじゃないか。

 沙織の姿を見て、私は救われたようにそう思った。

「無理すんなよ」

 そう言って、沙織の足を軽く蹴ってやる。やだ、汚れちゃうじゃないと言いながら、沙織はまた笑った。

 暗闇に溶けて消える二つの白い煙は、苦い。けど、奥の方は、ほんの少しだけ、甘い。


****


 沙織の就職が決まって、美咲が私の部屋で待つ最後の日。その日、パティスリー・ド・ルナの箱に入っていたのはフルーツゼリーだった。

 真っ赤な苺、緑のキウイ、黄色い桃、紫色のブドウ。色とりどりの果物たちが、ぷるぷるでキラキラのゼリーの中で、まるで見えないピンで留められたみたいに浮かんでいる。

 そんな宝石みたいに綺麗で、甘くて酸っぱいおやつを食べて、私はこっそり煙草を吸って、美咲は薄暗いリビングで本を読んで、沙織の帰りを待っている。

 ウサギは、ゴミ箱に捨てられたってのんきに笑っていたし、テレビからはまた「今日は今年一番の暑さです」が聞こえた。


【 完 】

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