胡散臭い占い師とケンカしたら

 これからあたしたち、いったいどうなるんだろう。

 いつもの路地を歩きながら、ヒマリはそんなことを思っていた。時間は昼頃。ご飯を食べてから心地よく散歩するには絶好の日和だ。かなり暑いため、それどころじゃないことは玉に瑕だが。

 それに、今、ヒマリの気持ちはそこまで浮かんでいるわけじゃない。いや、むしろ沈んでいると言ってもよかった。

 はっきり言って、昨日にヒマリが言っていたことは無茶が多い。縁もなにもない、もうすぐ壊される予定の校舎を乗っ取るだなんて、バレたらどうなるか、まったく予想がつかなかった。みんながなんとかそれに頷いたのも、こんな「ありえない」状況じゃなかったら絶対無理だったのだろう。これからどうなるか、ヒマリは非常に不安だった。

 まあ、なんとかなるか。かなり心配だけど。

 今のヒマリはそんなふうに、開き直ることしかできなかった。どうせ、これから何が起こるのかすら謎なのだから。


 そんなふうに一人で考え込んでいたヒマリは、ふと、いつもの橋の上に、誰かが座り込んでいることに気づく。あんまり広くない橋だと言うのに、あの名も知らない誰かが居座っているせいでよけいに狭くなっている気がした。

 たぶん、あれは占い師だった。

 茶色に染めた長い髪を垂らして、誰からどう見てもうさんくさいベールをかぶっている。ついでに、なんか水晶みたいなものも持っている。近くを見れば、カードやそれっぽいものもあっちこっちに散らかっていた。橋があまり広くないせいで、ヒマリが無言で通り過ぎようとしても、あんな有り様では少し大変そうだった。

 まずい。ヒマリはそう感じる。あんな怪しい奴と目が合うと、なぜかめんどくさいことになりそうなのにー

「あなたの金運、最悪ね」

 そんな時、あの胡散臭い女は急にこっちを見上げた。まるで始めてから、この瞬間がやってくるのを待ちわびていたような態度である。

「はあ?」

「残念ながら、今年はあまりお金と縁がなさそうー」

「あんたさ、そんな詐欺じみたことやってて楽しいの?」

「……今、何と言ったのかしら?」

「そんな詐欺まがいのことをやっていて、よくも堂々としてるわね、と言ってるのよ。あんたの耳はただの飾りなの?」

「こ、こ、この女が……」

 ヒマリは、今、猛烈に怒っていた。こんな根拠もない話を、見ず知らずの赤の他人から聞かされたのに、じっとしている方がどうかしている。

 売られた喧嘩なんて、いつだって買ってあげるのがヒマリのスタイルだ。もちろん時と場合によるけど、これは明らかに「買う」べし瞬間である。冗談じゃない。あんな詐欺になんて、騙されてたまるか。

「あ、あなた、ひょっとして、失礼という言葉も知らないのかしら?!」

「いや? 知ってるんだけど。あんたみたいな詐欺師に適用されるわけじゃないということもね」

「な、なんてことなの。この世の中に、ここまでひどい女がいたなんて……」

「あんたこそ、初めて出会った人にずいぶん失礼なこと言ってるのには気づいてる? あたし、売られたケンカはわりと買う性格なんだけど?」

「お、お、おのれ、貴様……」

 二人は視線すらそらさず、まっすぐに相手を見つめる。いや、睨んでいる。もちろん、ヒマリは避けるつもりなんてそうそうなかった。あんなやつ、叩き潰してやる。他の誰でもなく、ヒマリを騙そうとした罪は大きい。

 とはいえ、さすがにここまで狭く、近隣住民たちもよく行き交う橋でケンカなんてしてたら、目立つのは間違いなかった。あんなやつのせいで大きく注目されるのは、さすがに本意ではない。

 ……今日はこのへんで許してあげようか。

「まあ、あんたみたいな奴とケンカしても時間の無駄だもんね。 二度と出会わないことを祈るわ。じゃね」

 そんなことを思いながら、ヒマリがあの占い師に背を向けた時だった。

「呪いよ!」

 急に、その詐欺師はヒマリに向けてそう叫ぶ。その口調から見ると、占い師(一応)もヒマリにものすごく怒っているらしかった。もちろん、ヒマリはまったく構わない。あんな詐欺師に嫌われるなんて、むしろ本望だった。はっきり言って、好かれた方が気持ち悪い。

「あんたは今度、ひどい呪いにかかるようになるわ! 絶対に後悔させてやるー」

「はいはい、気をつけておきましょう。んじゃ」

「こら、待って! 待ちなさいってば!!」

 ヒマリは適当に、そう頷いておいてからそこを去った。もちろん、これっぽっちも信じているわけではなかった。あんなやつのいうこと、誰が信じるか。


 まったく、嫌なやつと出会ってしまったな。

 あの詐欺師を後にして、ヒマリはそう考える。ああいうやつとは本当に相性がよくない。いったいなんで、あんなやつがこの平和な町にやってきたのだろう。

 ……呪うよ、と言ってたっけ。

 はっきり言って、ただの占い師が呪いだなんて、そんな大げさなことを起こせるわけがない。まあ、万が一もしもってことがあるかもしれないけど、あんなやつにそんな力、あるわけなかった。とはいえ、最近のぶっ飛んだ出来事のせいで、ひょっとしたら、と思っているヒマリもここにいる。

 ええい、こんなことを思うのはやめよう。

 あんな占い師が、本物であるわけがない。あれは絶対に詐欺師だ。ヒマリがそう思いながら、校門を通ったときだった。

『カレーパン~カレーパン~』

 いきなり、静かな学校の前でそんな着メロが響く。紛れもなく、それはヒマリのスマホに設定しておいたものだった。それに気づき、ヒマリはかばんの中のスマホを取り出す。画面も見ずに出てみたら、それは刹那からの電話だった。

「あんた、どこにいる?」

「何?」

 ヒマリが軽く聞くと、刹那はぶっ飛んだことを口にする。

「学校のトイレ、全部詰まってるわよ。ついでに、水も漏れ漏れ」

「……は?」


 ヒマリが光速でトイレまで駆け込んでいったら、そこには便器から漏れた水が床に広がっていた。

「これって、どういうこと?」

「私だって、わけがまったくわからないんだけど……」

 話を聞くと、ちょうどヒマリがあの詐欺師……っていうか占い師とケンカしてから別れたときに、いきなりトイレの方からすごい音がしていたらしい。刹那がそこに行ってみたら、学校にいるあらゆるトイレの便器から水が噴水のようにぶっ飛んでいたそうだ。幸いに漏れすぎたとか、そういうのはなかったが、ともかく今はトイレが全部詰まっていて、それところじゃない。

 いや、ありえないだろ。そんなことは。

 ヒマリもそう思ったが、もしものために一緒について行った良平すらそれを自分の目で見たらしく、さらに、なぜか学校の別の層にいた二人組も「トイレがゾウさんのように水をぶっぱーするの」を目撃したらしい。なによりも、ヒマリの目の前にいる、この水がたまった便器たちがその証であった。自分の目で見たことではないとしても、この学校にあるトイレの便器たちが、ぜんぶこの様になっているのだけは間違いない。

 それはそれとして、 一体ぶっぱーってなんなんだ、ぶっぱーって。

「……使えないわね。これ」

「じゃ、私たちは……」

「仕方ない。詰まってるなら流すしかないでしょ? まあ、あたしもあまりやりたくないけど……」

 ヒマリはさっきの詐欺師、つまり占い師を思い出す。あまりそういうのは信じてないつもりだったが、こんなことを目の前にすると、なぜかすごく腹が立った。

「す、すごいです! これが噂で聞いたトイレ詰まり……」

「あんたはちょっと黙ってなさい」

「あたたっ」

 その時、目を輝かせながら困ったお嬢さまがやってきた。ヒマリは近くにあったラバーカップの柄の方で、軽く沙絵の頭をたたく。このお嬢さまの、なんでも感動できる能力は本当に素晴らしいと思うが、今度だけは少し自重してほしかった。

「い、痛っ! これがラバーカップで殴られるという……」

「いいからそこまでにしておきなさい。じゃないともう一発殴るぞ」

「は、はいっ」

 こうして、誰も望んでなんかいなかった、知らない学校のトイレ掃除が幕を上げた。


「それはそれとして、被害が出たのは洋式トイレだけなのね」

 この学校にある全てのトイレを確認したヒマリは、その事実に気づく。よく見たら、男子トイレはあまり被害が見つからなかったからだ。問題が出ているのは、すべて腰掛け便器の方だった。つまり、小便器は無事だということになる。

「で、一斉にトイレが詰まるようになった、その原因はたぶん溜まったゴミとかそのあたり……と。ほんとうに胡散臭いわね」

 そもそも、この事件には理解できないところが多い。まず、すべてのトイレが「ほぼ同時」に詰まるのがおかしかった。いつも誰かによって使われるトイレならまたともかく、今のように、もうすぐ壊れるため誰もよらない校舎のトイレがそうなるのは謎である。

 ついでに、その原因も謎だった。普通、トイレというのは思わず便器に流していたゴミとかティッシュなどが溜まって詰まるわけである。だが、誰も使っていないトイレで、今になっていきなりそのゴミらが存在感を出してきたのは明らかにおかしい。バラバラならまだわかるが、一気にすべての便器が同じ原因で詰まるって、そんなこと、あり得るんだろうか。

「でもよかったんじゃないですか。男子トイレの小便器の方が詰まってたらマジで噴水ですよ、噴水」

「まあ、そりゃ汚いわね」

「その意味では運がいいかもしれないっスね。水もそろって綺麗ですし、これに運すら悪かったら……」

「それ以上は喋るな。殴るぞ」

 とは言え、こうなった以上、なんとかしないとかなりマズい。

 当たり前だが、むやみに詰まったのをなんとかしようとしても上手くいくわけがない。ヒマリが先にやったのは、良平に用意してもらったリンスをトイレの便器に一々落とすことだった。

「でも、なんでこんなことをやるのでしょう?」

「こうした方がもっと上手くいくって、古事記にも書かれてるからよ」

 ヒマリがリンスを落としながら適当に答えると、急に沙絵の目がキラキラと輝いた。

「ほんとうですか? 昔の本にそういう情報が!」

「……頼むから、こんなこと本気で信じないでもらえるかしら」

「まあ、今重要なのはそれじゃないと思うっスけど」


 こうして準備が整ったら、やることはもう一つしかない。頑張ってトイレの詰まりをなんとかすることだ。

 という事で、ヒマリは良平が持ってきたたくさんのラバーカップをみんなに配る。いったいどこでここまで多いラバーカップが置かれていたのかはまったく謎だが、今はありがたく使わせてもらうことにした。

「これ、みんなに配るから、一つずつなんとかしてみて。ちょっと試してから様子を見るほうがいいと思うけど、基本は任せるわ」

「なんで、私たちがこんなことをしなければいけないの?」

「なんか、す、すいません。うちの学校でこんな苦労をさせて」

「あんたのせいでもないんじゃない。そんなの気にするだけ無駄よ」

 みんながそれぞれ別の反応を見せている中、沙絵だけは妙に元気が良かった。たぶん、生まれて初めてこんなことをやる、ということがなぜか嬉しいらしい。

「トイレ掃除って、ここまで力を使うんですね! すごいです!!」

「じゃ、あんたはいったいどうやると思ってたんだ?」

 冗談じゃない。トイレ詰まりを解消するのは、かなり体力を使う。ついでにその詰まった便器が10個を超えるとなるとなおさらだ。もちろん、それをヒマリ一人でやっているわけではないが、ここまで多い便器を一つずつなんとかするのはかなり疲れる。

「あ、そういや、オレの学校って、職員用トイレもあるんですよね」

「ちきしょーそういうのはもっと早く言いなさい!」

「いや、ヒマリさん、めっちゃ疲れてるみたいでしたから……」

 さっきの話はどこへやら、ヒマリが良平に不満をぶちまけているその時にも、雪音は一人で淡々とトイレの詰まりを解消している。あそこまでトイレと縁がなさそうな雪音が、まるでプロでもあるようにトイレを片づけているのは、ある意味壮観だった。今は健太郎になっている刹那や沙絵もそう思っているのか、ぼうっとそこを眺めている。

「なに、雪音の仕草がそこまで変わって見えるわけ?」

「すごいです。まるで経験者のように……」

「そりゃそうでしょ。あたしにリンスの使い方を教えてくれたのも雪音だもの」

「はい?!」

 良平はそれを聞いて目を丸くするが、ヒマリは平然としている。まあ、雪音の漂わせる雰囲気的な意味で、そこで驚くのはわからないわけでもない。

「あたしがここにやってきてすぐに、ふとしたきっかけでうちのトイレがそうなっちゃったんだよね。その時にも、雪音がすぐ解決してくれた。あの時だってものすごく慣れた手つきだったな」

「その時に、ヒマリちゃんがすごく驚いていたっけ。あんたは一体何者よ? って」

「ぶっちゃけ、それは未だに思ってることだけどね」

 そんな感じで、みんなトイレ掃除に熱中していた時だった。

「あれ、あんた、そこで何してんの?」

 トイレの隅っこで無言で俯いている刹那……が中にいる健太郎をじっと見ながら、ヒマリがおかしいという顔をする。なんか、恥ずかしいことを我慢しているような、むずむずした様子だった。姿はアレだけど、こう見ると妙に可愛げがあると言えなくもない。

「……ちょっとトイレに行きたいんだけど」

「あ、そういや今、座る奴は使えないんだっけ」

 今更それに気づいたヒマリは、ふと、男子トイレの方に視線を置く。ぶっちゃけ、今使えるものだとしたらアレしかなかった。

「仕方ないわ、アレを使いなさい。今の姿ならできるんでしょ?」

「冗談じゃないわ。私にはとうてい……」

「じゃ、どうする?」

「……本当、最悪ね」

 とは言え、自分でも仕方がないことはわかっていたのだろう。刹那はため息をついて、密かに近くの男子トイレに入っていった。


「……」

 少し時間が経ってから。

「あの、刹那さんがものすごく達観した雰囲気なんですけど」

「まあ、放っておきなさい。あいつは今日、悟らなくてもいいことを悟ったのよ」

 遠くから刹那のいる教室を覗き見している良平に、ヒマリはそう答える。生きていれば、知りたくないことを知ることなんてよくあることだった。こんなのを知ることになった女子なんて、めったにいないのだろうけど。


 そんなふうに、時折麦茶を飲みながら休んだり、交代したりしながら、作業はなんとか進んでいった。

「どうした、何か起きてるのかい?」

 相変わらずヒマリたちがただのトイレ掃除……っていうか、トイレ詰まりに精を出している時に、今度はあの詐欺師並に胡散臭い男、羽月がやってきた。

 とはいえ、今のように人数不足な時にはあんな奴だって大歓迎だ。ヒマリはすぐ、自分の側にいた「それ」を羽月に差し出す。

「あ、よかった。羽月、あんたも手伝いなさい」

「いやはや、これは?」

 羽月はまるで珍しい武器でもあるように、ヒマリが渡した「それ」をじっと見つめる。こっちはもう疲れ切っているというのに。ヒマリはものすごく腹が立った。

「あんたはどこかのお嬢さまなの? トイレの詰まりをなんとかするのに決まってるんでしょーが!」

「まあまあ、そこまで怒ると可愛い顔が台無しだぞ。お嬢ちゃん」

「知るかっ!!」

 まったく、どいつもこいつも何言ってるの、もう。

 羽月のつまらない話に、ヒマリは本当にさっきの麦茶でも吹き出したくなる気分だった。


 そんな感じで、時間は無情にも次々と流れてゆく。

「いったい、なんであたしが、こんな暑い日に、クーラーも効いてないトイレなんかで、こんなのを……」

 さっきの詐欺師くらいではないとしても、今、ヒマリは猛烈に不機嫌だった。だって、圧倒的に人手が足りない。今のヒマリたちだって少人数ではないはずだが、それでも人数が足りないのは誰が見ても明らかだった。

 ダメだ。さすが学校とも言うべきか、やってもやってもキリがない。ふと横を見ると、羽月が上着を脱いて、ワイシャツの袖をたくし上げてまでトイレ詰まりを直そうと頑張っていた。自分からさせておいて何だが、ここまでスーツの似合うやつがその服のままでトイレでこんなことをやっていると、別の意味で絵になる。具体的にいうと、ギャップがひどかった。

「でもこのままじゃ、やっぱり人数が足りないわね。あんたの組織なんちゃらで人をつれてくる……のは無理か」

「そうでもない。今はたしかに無理かもしれないが、経験という意味では我が組織に勝るのはそうそうないだろう」

「は? そういやあんた妙に手馴れてるし、ひょっとして、よくやってたりするの?」

「ああ、そうさ。特に『組織』では貴重している」

「冗談でしょ?」

「いや、そうでもない。そもそも組織っていうのは男子ばかりなんだから、ストレスなどがたまるとトイレで全部流してしまう困った奴らも多く、それで時折トイレが詰まることもある。いちおう秘密組織ってことになっているから、誰かを呼んでなんとかするのも難しい。だから、運悪くそこにいた組織員たちでどうにか処理するんだ。スーツを着た立派な格好の野郎たちがラバーカップを片手にして、無言でスポスポと作業に勤しむ光景は壮観だぞ」

「……いや、さすがにそれは嘘でしょうが」

「本当さ」

「ぷっ」

 くやしい。こんな与太話がツボに入るだなんて。

 そうは思っていても、ヒマリは笑いをこらえることができなかった。ほんとうにくだらない。それだというのに、ここまでヒマリにウケているのはなぜなんだろう。

 ひょっとして、あたしってさっきからあいつに振り回されてるだけなんじゃ。

 そう思うとますます悔しくなるが、ヒマリはこの際、とやかく言うつもりはあまりなかった。なんだかんだ言って、「今だけ」はちょっと楽しかったから。ほんの少しだけど。


 当たり前だが、今、ここにいる関係者たちはみんなそろってトイレ詰まりに動員されている。それはあのうるさい二人組だって同じだった。

 とは言え、あいつらが真面目にトイレ詰まりをなんとかしようとするわけがない。今もトイレの個室で、のんきでおしゃべりをしながら遊んでばかりいた。それをすぐ後ろで聞かされながら、ヒマリはトイレ掃除に精を出す。

「でも惜しいなぁ。せっかくだし、もっと噴水のようにぶっぱーされてもいいと思うけど」

「そうそう、こう、ドカーン! とね」

「あんたたち、もう一度そんなこと言ってたらぶっ殺すぞ。それこそ噴水のようにな」

 そう言いながら、ヒマリはあの二人組がいるところを睨んだ。こいつら、次に似たようなこと喋るとほんとうに一発殴ってやる。でも、どうやったら気持ちよくやりのけるのだろう。

 まだまだ詰まっているトイレをなんとかしながら、もしものためにたらいに水をたくさん入れつつ、ヒマリがそんなことを思っている時だった。

「夏のトイレっていいねーこんな時には涼しい水を浴びると気持ちがよさそうー」

「いいね~いいね~」

「あっもーウザい! あんたらの望む通りにしてあげるわ!!」

 ヒマリはそのまま、水がいっぱい入ったたらいを、二人組のいるトイレの個室の前へと持っていく。そしては勢いよく、それを扉の向こうにぶっちまけた。

「うわっ、冷たい!」

「おーおー」

 ぼちゃっ!と大きな音がしてから、個室の中でそんな声が聞こえてくる。どうやら上手く当てたようだ。こういうのはやられたら悔しいが、自分がやり遂げたらものすごく気分がいい。

 ヒマリは満足した顔で、仕事場……っていうか、水が漏れている他のトイレの方へと戻った。だけど、少ししたらまた後ろがうるさくなる。もう我慢できなくて、ヒマリはそのまま、二発目の水の爆弾をあっちに思いっきり投げかけた。

 だが、今度聞こえてきた声は、ヒマリの想像とはかなりかけ離れたものだった。

「う、うわっ! やめてほしいっス!」

「あん? その声は……」

 あまり良くない予感がして、ヒマリはすぐ扉を開ける。そこにはびしょ濡れになった良平……が中にいる健太郎が、わけがわからない、という顔でヒマリを見ていた。そもそも、健太郎の姿が変わるケースはたった二つしかないため、見分けるのは簡単だった。

「あんた、なぜそこに?」

「それはオレの方が知りたいっス。あの二人がしっーていうから何かと思えば……」

 こいつら、あたしを騙したと……。

 あまりにも気づくのが早い、ついでにものすごくズルい二人組に、ヒマリが一人で憤っていた時だった。

「あの、ヒマリさん」

 そんな時に、今度は健太郎……というか、その中に入った良平がヒマリを呼ぶ。

「なに?」

「いやその、これ、どうしましょうかね?」

「自分で乾かせなさい。今の時間なら、まだ廊下あたりには日差しが入ってるんでしょうし」

「それは知ってますけど、その、これ、濡れたらぴったりと……」

 ヒマリだって、それはよく知っていた。なにせ、ここからよく見えるのでしょうがない。今の健太郎の姿のおかげで、その体づきが濡れた服の向こうからはっきりとわかった。ヒマリだって照れくさいのに、そもそも男子高生である良平がとれくらい恥ずかしがっているのかなんて、見なくても十分わかる。

「タオル、いる?」

「ご迷惑かけるっス」

 自分も恥ずかしいから早く済ませたかったかどうか、良平はヒマリに白いタオルをもらってから、すぐにそれを体にかけて、廊下へと早足で出かけた。


 トイレの掃除に励んでいたら、もうすっかり夕暮れになっていた。つまり、ヒマリたちは今日一日という貴重な時間を、トイレ掃除だという最高に無駄なやりかたで浪費したことになる。遠くから聞こえてくる虫の声が、またいい感じにヒマリの虚ろな心を刺激していた。

 ただのトイレ詰まりにここまで疲れ切れるだなんて、いったいなんなの、今日は。そんなことを思いながら、ヒマリが大好きなスポーツドリンクをペットボトルごと頂いている時だった。

「あれ、ヒマリさん、何飲んでるっスか?」

「あ、これあたしのだから、勝手に飲まないでよね」

「ヒマリちゃんもズルいわね。みんな喉が渇いてるよ?」

「……わかった。わかりました。あたしが買ってきたらいいんじゃない」

 そうぶつぶつしながらも、ヒマリは近くのスーパーで大きなスポーツドリンクを買ってくる。別に、一人だけ飲んでやるとか、そんなことは思っていなかった。ちょっと悔しいのは事実だけど。

 そういや、さっきまで良平が入っていた健太郎の姿が見えない。今のあいつって空っぽなんだろうか。まあ、別にどうでもいいけどー

「……」

 まったく、いったいこれはなんのつもりなのだろうか。

 気がつけば、ヒマリは保健室の椅子に座って、未だに濡れている上着を着ている健太郎になっていた。なんてことだ。この服、未だに完全に乾いてない。

「あらあら、ヒマリちゃん?」

「その服って……おう……ご愁傷様っス……」

「なら、せめてこっちは見ないでもらえるかしら。この姿でこんな口調だと気持ち悪い……我ながら……」

 ヒマリがそうぶつぶつしながら戻ってくると、みんな憐れむような顔で自分をじっと見つめている。ほんとうに、ヒマリは今日の出来事が気に入らなかった。

「……くしゅん!」

 ヒマリは健太郎の中にいるままで、思わずくしゃみをしてしまう。良平にはああ言ったものの、やっぱり自分ごとになると濡れた服はものすごく不便だった。別に体づきがわかるわけではないが、ともかく湿っていて気持ち悪い。今の姿なら、体づきなんてどうでもいいが。

 ついでに、ヒマリには今、それよりものすごく困るところがあった。この男の服、上着ところか下着までべったりと濡れていたのだ。つまり、その、気持ち悪い。いちおう男の下着というのは女の子のようにぴったりではないが、それでもヒマリは、今すぐ穴でもあったら入りたいところだった。間違いなく、これはヒマリにとって屈辱である。

「あいつ、また出会ったら……」

 ほんとうに、これは全部あの詐欺師のせいだ。あいつと無意味なケンカをしちゃったから、ヒマリはこんな羽目に合ったのだ。知らないなんて、ぜったいに言わせない。何があっても、次に出会ったら戦争だ。

「そういや、ヒマリちゃん、ここに来る前に誰かとまたケンカしたって?」

「『また』?』

「何よ、あんた、あたしに不満でもあるわけ?」

 もう呆れたという顔で自分を見る刹那にぶつぶつしながら、ヒマリは頷く。こうなった以上、あのムカつく女に関してもありのまま全部話した。相変わらずこの低い声でこう喋るのは照れくさかったが、今は声をなんとか低くして妥協するしかない。

「へえ、そんなことがあったんですね。わたしも出会ってみたかったんです」

「まあ、あんな女、次に出会ったら絶対に許さないから」

「でも、ヒマリちゃん、あの人がここのトイレをこうしたって、それは本当かしら?」

「それはどうでもいい。あたしにとって重要なのは、あいつがともかく嫌い、ただそれだけ」

「ほんと、都合の良い考え方ね」

「なんだと?」

 もちろん、これを引き起こしたのがあいつだという証はどこにもない。それに、こっちには沙絵だっている。はっきり言って、この事件は誰のせいで起こったのかまったくわからないのだ。ひょっとしたら、全てはただの偶然かもしれない。あんな詐欺師を許せないのは変わらないが。あんなやつ、次に顔を出したらひどい言葉責めにしてやる。

 とは言え、ヒマリたちにはまた、あの詐欺師のおかげでやるべきことがもう一つ残っていた。

「それはともかく、あとでトイレ掃除はちゃんとしておいた方がいいだろうね」

「あ、そういや……」

 ヒマリの話を聞いて、良平が今さら気づいたという顔をする。今日の事件のおかげで、トイレはかなりぴちゃぴちゃになっていた。いちおうこれからお世話になるのだから、無駄だとは思うが、あるくらいは掃除しておいた方がいい。こういったトイレ掃除を好む人なんて、あまりいないとは思うが。

「と、トイレ掃除ですか? わたし、トイレ掃除なんて初めてです!」

「はいはい」

 そういや、たった一人、そのトイレ掃除すら憧れの対象である困ったお嬢さまがいた。あの世間知らずのお嬢さまに全部任せたらどれくらい楽なんだろう、と思いながらも、ヒマリはいずれ日を改めよう、と考える。

 そんなふうに、ヒマリも元に戻って、場も落ちついた時だった。

「はあ、今日は本当に災難だったわ。あの占い師なんちゃら、次に見つかったら……」

「ヒマリちゃんもまだ元気ね。やっぱり、ヒマリちゃんってかっこいいかも」

「いや、さっきならともかくとして、あたしと雪音は女の子同士なんだから」

「でも、ヒマリちゃん、わたし、女の子でもいけるよ?」

「……は?」

 ヒマリは自分も知らぬうちに、目が丸くなる。この子、いきなり何突飛なこと言ってるんだろう。今まで雪音とは10年もいっしょにいたが、それは本当に初耳だった。

「またまた、冗談でしょ?」

「ホントなの。そういや、今日のヒマリちゃんがかっこよかったからつい」

「いや、あんた、何でよりによってこんな時に……」

「だって、せっかくだし」

「知らないっ!!」

 ああもう、本当に今日はなんでこうなるのだろう。

 あまり知りたくなかった親友の性的な趣向に今さら気づいたせいで、ヒマリはさっき、自分が良平に言っていたことを思い出してしまった。

 ー あいつは今日、悟らなくてもいいことを悟ったのよ。

 おのれ雪音、よくもあたしにこんな一撃をー


 そんなドタバタとした一日がやっと終わってから、次の日の昼頃。

「さすがに今日はいないか」

 ヒマリはそう独り言を子こぼしながら、昨日の橋を渡る。

 今日はあの詐欺師……っていうか、占い師の姿も見えない。実に平和な、素晴らしい朝だった。ようやくいつもの平穏を取り戻したような気分になって、ヒマリは機嫌が良くなる。そうそう、こんな日々でいいんだよ、こんな日々で。

 詐欺師は確かに今いなかったが、代わりに、橋の上では主婦たちがおしゃべりに熱心だった。何を喋ってるのだろう。どうせ自分ごとではないため、ヒマリはそっと過ぎ去ろうと心に決める。

 そんなふうに無言でそこを通り過ぎようとしていたヒマリは、ふと、後ろから主婦たちのとある会話を聞いてしまった。

「そういや、昨日ここにいた占い師、今日は来ないのかしら?」

「でも、あの占い師、まったく合わないってことで有名よ? それで大丈夫?」

「あまりにも当てられないのだから、詐欺師って話も出ているくらいでー」

 ヒマリは、背が冷たくなるのを感じた。もちろんその原因はあの占い師の実力……ではなく、あの「呪い」のことである。

 それじゃ、いったい学校のトイレが一斉にあんな目にあったのはどうしてなんだ?

 まるで狐にも憑かれたような気持ちで、ヒマリは橋を後にした。もう、あんなやつなんて、次に出会ったらそのままー

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